PC9801

NECがPC-9801を発表したのは1982年(昭和57年)12月のことである。 8bit機で富士通のFM-7やFM-77に差をつけられたNECが勢力挽回のために 投入された16bitであった。8086を使い、漢字ROMを搭載し、N88BASIC(86) が使える、IPM PC-ATとPC-8801を足して2で割ったような製品98は、 それでも発売当初は市場を席巻するという感じではなかった。98が圧倒的 になるにはキラーアプリケーションの登場を待たねばならなかったのだ。 それがご存知ジャストシステムの一太郎である。

JXWord太郎の後継である一太郎は、いくつかの点で当時の日本語ワード プロセッサの中で異色であった。58,000円という破格値(その頃一般的 な日本語ワープロソフトが管理工学研究所の「松」で100,000円だった)。 製品にコピープロテクトがなされていなかったこと(珍しかった)。 MS-DOS上のアプリケーションであったこと(MS-DOSの基本部分がいっしょに ついてきた)。これらの要因が一太郎ユーザを増殖させ、結果として 9801をデファクトスタンダードの位置に押し上げた。

しかし当時の98は数十万円という豪華なものである。学生だった私には 手がでなかった。我慢してアルバイトでお金をためてようやくのこと 購入をしたときは、ちょうどPC-9801M2が販売されていた頃だった。 M2とは1.3MB(メガのM)のデータを記録できる5.25インチ2HDの フロッピーディスクドライブが2基搭載されたもので、大ヒットした F2のフロッピードライブを変えただけ(CPUのクロックは少しあがって7MHz だったと記憶している)のものであった。40万円くらいしたと思う。

購入して最初にしたのはBASICのバックアップ(ROM内のとは異なるBASIC がフロッピーでついていた)を取ること。その次にしたのが一次回帰 プログラムをBASICで書くこと。ポケットコンピュータとのスピードの 差に愕然とした。これが「パソコン」なるものかと感動した。しばらくは M2にのめりこんでいた。ROM解析の本を買ってきたり、MS-DOSやCP/Mの 解説書を読んだり、自分でプログラムを書いたりしていた。 すぐにM2の後継のVM2が出たりしたけれど、気にしなかった(嘘)。 パーソナルコンピュータを持っているという事実が誇らしかった。

プログラムははじめの頃こそBASICしかなかったが、そのうちMS-DOS上の さまざまな処理系を(合法的とはいえない経緯によって)入手したという ことを告白しておかねばならない。もちろんちゃんと購入したのも あるのだが。そうした処理系の中でもっとも人気が高かったのが、 ご存知ボーランド社(当時はボーランドインターナショナル)の TurboPascalだった。サードパーティ製のグラフィックライブラリも 使えばかなりのことができた。大学院生の頃、システム制御理論の 数値解析のためのプログラムをつくり、後輩の学部の卒業研究で使われた りした。

大学でもパーソナルコンピュータをワープロ代わりに使うのは一般的に なっていった。一方で実験のデータ処理に使うのはもっぱら大型計算機 だったし、一部ではUnixワークステーションが使われていた。パーソナル コンピュータの入る余地はなかった。


目次  談話室  PoisonSoft