JUNET

就職して会社の寮に入ったため、実家に置いてきた98に触る機会は極端に少なくなっていった。仕事ではワークステーションを使っていたのでコンピュータに対する渇望感も無く、健康的な生活をしていた。といっても連日残業の日々なのはこの業界の定めといったところだったが。

仕事にも慣れてきたころ、ネットニュースの世界に触れるようになった。後にInternetとして世界中に張り巡らされることになるコンピュータネットワークの、そのオリジナルであるARPA NETは、TCP/IPというプロトコルの実証実験という意味合いもあったわけだが、さらに上位のアプリケーション層でも実験的な試みが行われた。その一つに今も使われているネットニュースがあった。後にUSENETとほぼ同義語として使われるネットニュースだが、日本国内では日本語の問題があるため、ソフトウェアを日本語対応してニュースの配送がなされた。JUNETと呼ばれる組織のようなシステム名のような同好会のような不思議なサービスだ。

今時の掲示板システムとおおむね同様の機能だから、流れる記事も玉石混交、というよりS/N比があまりよろしくない情報源(参加者の規模が増えるほどそうなった)であるが、さまざまなフリーソフトが配送される場でもあり、有用な情報交換の場でもあった。それに今時の掲示板のように、おかしな言葉遣いをして喜んでいるような子供じみた風習もなかった。特に初期の頃の参加者は大学の情報関係の研究者や情報関連企業の研究者が中心であったから、癖の強い人も多いが、皆それぞれにまじめにコミュニティと向き合っていた。ま、いろんな人がいたけど。

JUNETが発足した頃はまだ専用線の利用料金が馬鹿にならない頃だったから、特別な予算がつくわけでもないネットニュースの配送は、もっぱら公衆回線とモデムを使い、UUCPで行われていた。このUUCP網はネットニュースだけでなく電子メールの配送にも使われていた。まだ電子メールが一般には使われていない頃のことだ。いわゆるパソコン通信というのはあって、やはり掲示板やメールサービスを提供していたけれど、通信といいつつデータはすべて大型汎用機の中だけのやり取りで、パソコンが端末になるという仕掛けだから、メールの配送はさほど難しい話ではなかったのだけれど、UUCPを使って本当にコンピュータ間でメールデータを配送する(しかも安い設備で)というのは技術的にもなかなかチャレンジングな試みだったといえる。この頃サーバの管理者をやっていた(やらされていた)人たちがその後日本のInetnet技術で中心的な役割を果たしていったのは確かだし、そうなる素地はUUCPと戦っていた日々に磨かれたものに違いない。

といっても私はそうした面倒な管理はやらず、環境をありがたく使わせてもらっていた立場だから、お気楽なものだった。そうこうするうちに私が所属する部門の事業が傾きだして、ワークステーションとは縁遠くなってゆく。変わりに再びパーソナルコンピュータとの接点が増えてゆくのだが、そこで一つの不思議な世界に触れてゆく。Macitoshの世界である。


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