天神記(四)





17、 梅の香(うめのか)




翌、天慶5年(西暦942年)。

「あなたを探して、ここまで来ました…
恋しいあなた… 今、どこにいらっしゃるのでしょう…」
娘が1人、長い髪を風になびかせ、空を見上げる。

「鳥が北へ帰ると、もう花の咲く頃ね…」
雁の群れが飛び立つのを見ていたので、すぐ後ろに
牛車が止まったのにも気づかない。

車の中の女が簾を上げ、顔をのぞかせた。
「想い人を探してるの? 相談にのろうか?」
美しいが勝気で、好奇心丸出しな顔。

「かよわい乙女が困ってるのを、ほっとけないんだ。
お姉さんが力になるよ? その代わり、歌のネタに
させてもらうけどね〜」
伊勢の娘・葉月、この年31才。
今は「中務(なかつかさ)」の名で知られる
女流歌人であり、有名なプレイガール。

振り向いてにっこり笑う娘の神々しさに、
葉月はドキリとする。
「うわ… 私よりきれいな人って初めて見た… 
こんな子を置き去りにする男って一体…」

「ありがとう、でも… あの人の微笑みも
後ろ姿も、全て遠い夢の中…」
悲しげな瞳で、謎めいたことをつぶやく女。
「あなたは、いない…」

遠いささやきとともに、女の姿は消えた。
葉月は目をパチクリさせ、
「え? 夢だった…? それとも何かの霊?」

後にはただ、かすかな梅の香が漂うのみ…



7月12日、「右近の馬場」に、粗末な庵が建てられた。
「多治比文子という娘に、菅公の霊が宣託を下し、
自分を祀る庵を作らせた」
という噂だが…。

「右近の馬場」は、都からほど近い閑静な牧草地。
馬場というからには、乗馬の訓練場であるわけだが、
同時に乳牛が放牧された国営の牧場でもある。
この時代、日本人は「醍醐」や「蘇」といった乳製品を
食していた。(ただし、上流階級のみ)


葉月は今、元良(もとよし)親王とつき合っている。
(陽成上皇と「雲の絶間」妙子の長男)
今年53才、すっかりロマンスグレーのダンディーな
親父になった親王は、情事の後、寝床で酒をくみ
かわしながら、その庵の噂をしていた。
「右近の馬場は、道真が幼少の頃よく遊んだ、
お気に入りの場所なんだと」

「けど火雷天神を祀るにしては、
質素すぎるんじゃないかな」
女ながら酒に強い葉月は、セクシーなやや
大きめの口で、クイクイ杯を空ける。

「いや… 今の庵は仮のもので、費用や資材の
調達が済みしだい、もっと立派なのを、近くに
建てるって話だ」



「言われた通り、手下の者たちを使い、
世間に噂を流したが… 
この噂が、道真のところまで届くだろうか?」

関白・忠平の邸。
賀茂忠行を筆頭に、陰陽師チームが集結している。
「道真公は、都の動向を注視しているはずです…
そして必ずや、右近の馬場に現れるでしょう」

「それは、いつ?」
「梅の花が咲く頃」
「梅? 確かに、あそこには梅園があるが…」
「それが、道真公があの場所を気に入っていた、
第一の理由なのです」

忠行の長男・保憲が進み出て、補足説明をする。
「道真公の心中の原風景は、まず自宅である白梅殿の、
梅の咲く庭。しかし、あそこの梅はもうありませんので… 
次が、右近の馬場。自分の終(つい)の棲家となる
社殿が、梅の時期にはどんな具合か、検分に来る
ことは、まずまちがいなし…」

「そうか… で、道真が現れて。どうやって、
その肉体を滅ぼし、魂魄を封じる?」
次は、晴明が進み出る番だった。

「私の式神を使います」
「式神… 確か、お前たち陰陽師が使役する、
鬼神のたぐいであったな?」

「私は日ごろより、多くの式神を使っておりますが、今回は
新たに、対道真用の特別な式神を、用意してございます」
忠平は、好奇心を刺激され、
「ほう… どのようなものか? ここに呼び出せるか?」

晴明は伏していた顔を上げ、魚のような宇宙人のような、
不気味な目で忠平を見る。
「関白さま… 恐れながら、この広間には
何人の人間がおりますでしょうか?」

「何をバカなことを聞く? 私とお前たち3人、
合わせて4人ではないか」
しかし、数えてみると5人いた。
「お、お前は… なんだっ お前は… まさか、これが…」

5人目の人物は、忠平を前に平伏する。
晴明の大きな目が、忠平をとらえて離さない。
「この者が… 私の切り札でございます。その名は…」



翌、天慶6年(西暦943年)。

旧暦なので、年が明けるとまもなく梅のシーズン。
春を前にして、星さえ凍るような寒く、暗い夜。

異形の巨体が、無人の通りを歩いていた。
やがて、右近の馬場にたどり着く。
「おお…」

凍てつくような冬空の下で、幻想のように
淡く輝く、地上の星々…
梅花は照れる星に似たり…
大気に漂う気高い香りを、怨霊・菅原道真は
胸いっぱいに吸いこんだ。

みすぼらしい社殿を見た時に感じた
怒りも、今は消え失せた。
どのみち、あの社殿は仮のものだというし、
まあよかろう…

それより今は、心にノスタルジックな想いが
あふれてきて、どうしようもない。
怨霊に生まれ変わって以来、久しぶりに
感じる人間らしい気持ち。

「道真さま… お待ちしておりました」

時が止まった。
「あ…」
夢のように目の前に立っている、その人は。

朧(おぼろ)に霞んだ瞳、どこまでも
上品で清楚な顔立ち…
「飛梅(とびうめ)…」

邸の庭に咲いていた、いつも道真を
見守っていた白い梅。
大宰府に流された道真を、時空を超え、
追いかけてきた奇跡の梅…
その化身である麗しき乙女と、思いもよらぬ再会であった。

「お寂しかったでしょう…」
何もかもを許す、聖母のような… しかし、悲しげな微笑を
前に、道真は何もかも忘れ、その胸に飛びこんだ。
膝をついて声を張り上げて、泣いていた。

日蔵に見せたヴィジョン、死霊の軍勢も
虚勢にすぎなかった。
16万8000どころか、今の道真はたった1人だった。
梅の精の瞳は、すべてを見抜いているようだった。

「飛梅…!! 俺は… 俺はッ・・・!!」
その時…
肉体に異変を感じて、道真は顔を上げる。
「!?」

死体を合成して作った、左右アンバランスの
異形の肉体… その体から今、全身の
エネルギーがこぼれ落ちていくような…

「あ…」
背中に、短剣が刺さっていた。
傷口から、オレンジ色のマグマがボトボトあふれる。
短剣の柄を握っているのは、梅の精の、細く白い指。
「とび… うめ…」

梅の精の目から、涙があふれ… 
優しく微笑む。
「ここで安らかにお眠りください… そして、この国の
人々を見守って… 梅の咲く頃にはあなたを慕い、
おおぜいの人々が、この地を訪れるでしょう」


梅の木陰から、これを見守っている3人の男たちがいた。
言うまでもなく、忠行・保憲・晴明の陰陽師チーム。
「本当にあの飛梅が、ここまでやってくれるとはな…」
「つらかったようですよ… 道真公が人々の
恐怖の的になっていることが…」

道真に「呪(しゅ)」をかけることはできない、
つまり飛梅の幻影で欺くことはできない。
本物でなければ…
ということで晴明は大宰府まで出向き、陰陽道の
儀式によって、飛梅を呼び出した。
説明するまでもなく、彼女は事情を知っていた。

「私に力を貸してほしい」
晴明の魚類のような顔を、美しい瞳がじっと見つめ…
「あの方を、帰るべきところに帰してさしあげるのは、
私の役割かと思います…」

筑紫の風に吹かれ、梅の精が寂しく
微笑んだのは、1年前のこと…


最後の力をふり絞り、道真の唇が動く。
「いい… いい匂いだな… 飛梅…」
マグマがこぼれるにつれ、その体は
ボロボロと崩れていき…

「私がいなくなっても… 春になったら、
忘れずに… この匂いを… 」
ついに、土に還った。

その瞬間、風もないのに、梅の花がいっせいに散り… 
雪となって、かつて道真であった土くれの上に降り積もる。
同時に、梅の精の姿も消えていた。


「ようやく終わりましたね、父上」
「道真公は、2度死んだ… 1度目は恨みを残して、
2度目は神となって…」
いつもはガラスのように冷たい忠行も、
目に光るものがあった。

「飛梅… すまなかったな…」
いつしか晴明は、この美しい精霊に
好意を抱くようになっていた。


この光景を目撃していたのは、3人だけではなかった。
「夜桜」ならぬ「夜梅」見物をしようと、わざわざ
この寒い晩に、供1人だけを連れ、牛車で
ノコノコやってきた葉月も、この衝撃的な
場面に出くわしたのであった。

「ちょっと、あなたたち! 今のは何ですか?」
忠行たちは、目撃者がいたことに舌打ちしたが、
相手は皇族の娘である。
やむなく事情を説明したが、意外にも葉月は涙を流し、
「そう… あの子、やっと… めぐり会えたんだ…」

そしてこれが、母の代から続く菅原道真の
物語の終焉であることを、葉月は悟った。