天神記(四)





16、 日蔵夢記(にちぞう ゆめのき)




翌、天慶4年(西暦941年)。

吉野の金峰山で修行に励む、1人の老僧があった。
名を道賢(どうけん)、後に日蔵(にちぞう)と号する。
あの三善清行の弟… 
といっても、18も歳が離れている。
今年77才だが、まだまだ30年ほど生きる大長寿の人。

7年前の承平4年(西暦934年)4月16日より、
金峯山中の冬ごもりの名所・「笙(しょう)の
岩屋」で修行に入る。

寂莫(せきばく)の 苔の岩戸の しづけきに 
涙の雨の ふらぬ日ぞなき


という、新古今和歌集に収録される
歌を詠んだのも、この時期。
この後、19年も山ごもりは続くのであるが。

この年8月1日、突然高熱を出して、
日蔵は死んでしまった…
と、修行仲間の僧たちは思った。
何しろ、呼吸が止まっていたから。

13日後に蘇生するのだが、それまでの間、日蔵は
夢とも幻ともつかぬ不思議な世界に漂っていた… 
彼の脳は、菅原道真の怨霊にハッキング
されていたのである。

後に「日蔵夢記」に記される、幽体離脱した日蔵の
魂が巡る、天界や地獄での不思議な体験…
ガイド役は、金峰山寺(きんぷせんじ)の
本尊・蔵王権現(ざおうごんげん)。
「見よ、日蔵… あれが、天満大自在天神のおわす宮殿」

見たこともない異国風の巨大な宮殿に、
天満大自在天神…
すなわち、菅原道真は君臨していた。
別名を「日本太政威徳天(にほん だいじょう いとくてん)」
と言い、16万8000の死霊を率いる大魔王である。

「お前、清行の弟か… 兄貴よりは、できが良さそうだな」
マグマの燃え盛るような、すさまじい眼光で
射すくめられ、日蔵は失禁しそうになる。

「まあ、そうおびえるな。清行とは仲が悪かったが、
別に恨んではおらぬ… お前には使者となって
もらい、私の言うことを朝廷に伝えてもらおう」

日蔵の目は、道真の手のひらにのっている、
不気味な精霊の方へチラチラと動く。
「これか? こいつは火雷天気毒王」
「というと… もしや、都に雷を呼んだのは…」

ニヤリとする、道真。
「まさしく、こいつで雷電を呼び起こしたのよ… 
左大臣(時平)をひねり殺したのも、醍醐の帝を
殺めたてまつったのも、将門を狂わせたのも… 
この私の仕業だ」
勝ち誇ったように笑う道真の瞳には、狂気があった。

「それだけではない、国土に蔓延する疫病、地震、大風…
比叡山の火災も… まあ、私はそこまでやらなくとも、
と思うのだが、手下の死霊どもが言うこときかなくてな。
今後も、恐ろしい災いが絶えないことであろうよ… フフフフフ」

ガイド役の蔵王権現も、力なく首をふり、
「我々の力をもってしても、大自在天神のもたらす
災いは止めることができぬ… 天神の手下の
死霊どもが、全世界に満ち満ちておるのだ」

道真の背後に控える、恐ろしい姿の死霊軍団…
200枚の肉片に分裂する藤原敏行、子供の死霊を
背負った藤原淑子、泥人間の源信、焼けただれた
伴大納言、腐敗して膨れ上がった大納言国経…
道真の軍門に下った、恨みを残して死んだ、
かつて人間であった者たち。

日蔵は勇気を奮い起こし、どうにか口にした。
「く… 国中の者が、身分の高い者も低い者も、道真公の
ことを… 雷神さえ自在に操る「火雷天神」とお呼び申し
上げ、崇めたてまつっております。どうしてそこまで、
この国の民を恨んでいらっしゃるのでしょう?」

道真の口がクワッと開き、雷鳴のような怒声が轟いた。
「お前たちは皆、私を大怨敵としているではないか!」

日蔵は思わず頭を抱え、涙を流して震えていたが、
道真の声はすぐに柔らかくなった。
「だがな、日蔵よ… お前たちの出方次第に
よっては、怒りを鎮めてやらんでもない」

「ほ、本当でございますか!」
「都のどこか環境のいいところに、私の像を祀った社を
作ってもらおうか。うんと立派な社殿を建てるのだ。
御所よりも立派な…
そして、お前たちが真心をこめ、慇懃に礼拝
するならば、災いが起こらぬようにしてやる」

都に立派な御殿(社殿)を作らせ、そこを棲家とし…
書を読んだり、季節の花々を愛でたり、詩作をしたり…
そんな風にのんき気ままに、永遠に続く
余生を楽しむとしよう。

必要なものは全て、帝に命じて運ばせればいい。
あれだけ脅してやったのだ、私に
逆らう者は、もはやおるまい…


この後、日蔵は蔵王権現の案内で、地獄めぐりに出発。
とある地獄で、ショッキングな出会いが待っていた。
真っ赤に焼けた灰の上に正座させられ、
悲しみ嘆いている男は…
「この者、かつては帝であった者… 
あちらにいるのが、その家臣」

醍醐帝は地獄に落ちていた… 
かたわらには時平をはじめ、家臣3人の姿も。
もちろん、道真の作り出したヴィジョン(幻影)であり、
現実ではない。

それにしても歴代の天皇で、「地獄行き」なんて
扱いを受けるのは、醍醐帝ただ1人。 
道真を左遷した他は、悪いことなんてしていないのだが…

帝は日蔵の姿を見ると、
「船岡山の葬送の地に、千本の卒塔婆(そとば)を立て、
供養してもらえないだろうか…」
そうすれば、この苦しみから解放されるという。


日蔵は蘇生すると、ただちに修行仲間の
若い僧を使者に立て、朱雀帝に、道真と
醍醐帝からのメッセージを伝えた。

都の北にある船岡山、そこに千本の卒塔婆が
立てられたのは、まもなくのことである。

千本卒塔婆から都へまっすぐ伸びる道、これは都に
入るとメインストリート・朱雀大路となるのだが、この
通りを現在「千本通り」と呼ぶのは、これに由来する。



「道真対策委員会」の面々は、日蔵の
報告を受け、協議を重ねていた。
「要求を飲むしかないだろう… 
これほど強大な力を手にした神を相手に、
これ以上、人間が争ってなんになる?
16万8000の死霊の軍勢を率い、雷神をも使役し、
天子さえ地獄に落とす… 日本の開闢(かいびゃく)
以来、もっとも恐るべき神かもしれぬ…」

苦渋の表情で一同を見回す、摂政の忠平。
まもなく、11月8日に関白に就任することになっている。
「菅原道真… 一介の学者だった男が、
これほどの祟り神になろうとは…」

「都に社を建て、道真公を祀る… 
それ自体は、よろしいかと思います。
ただそれに当たっては、道真公に今の力を… 
つまりは、肉体を捨てていただかねば。
安全無害な存在になった上でなければ、都に
お入れ申し上げることは、できかねます」

中年になった今も、相変わらずガラス細工の
ように冷たく無表情な陰陽頭・賀茂忠行。
「肉体をもった神、すなわち現人神(あらひとがみ)は…
天子さま(天皇)、ただ御一人でなければなりませぬ」

「確かに… こんな怪物が都に居座ったら、
この国を乗っ取られてしまうかもしれぬ。
だが、我々に何ができる? 
誰が道真から力を奪い取る?」

「そのために生まれてきたのが、『星の落し子』こと晴明
でございます。晴明の寿命が尽きぬうちに、このような
好機が訪れようとは、まさに僥倖(ぎょうこう)」

「晴明か… 私も晴明の不思議な力の数々、
この目で見てきたが… 
果たして神を相手に、通用するのだろうか? 
わかっていると思うが、忠行。今ひとたび道真を
怒らせたら、その時こそ… 都は全滅だぞ」

「はっ。心得ております… これ、保憲。
今、晴明はどこに?」
後ろに控えた、端正な美青年に
成長した保憲が進み出る。

「例の娘から、前世の記憶を引き出す作業を
続けております。道真公を仕留める… 
もとい、祀るのに最もふさわしい場所も、
そこから導き出されるでしょう」



右京七条に住む、今年12才になる多治比文子という
少女が、晴明の占いによって発見されてから1年。

特別に調合した薬湯を飲み、額に呪文を書きこまれ、
晴明の唱える不思議な経文を聞きながら、眠りにつく。
と… 異様に生々しい夢を見た。

道真の乳母で、やはり「文子」という名の女の記憶…
文子は、道真が文章博士になるまで「白梅殿」に住みこみ
で働き、左大臣になる前年まで存命だったようだ。

目覚めた後は、長時間のインタビューで、
夢の内容を細かく記録する。
道真の幼少〜青春時代について、膨大な
データが収集されつつあった。
目的はただ1つ、「道真の弱点を見つけ出す」こと。

今も晴明によって術をかけられた後、
少女は愛らしい寝顔で眠りについた。
初めは晴明のことを不気味がっていたが、
この頃ようやく慣れてくれたようだ。
今のうちに少し休憩を…

幼い時より、まるでロズウェルに墜落したUFOから発見
された異星人のような容貌の晴明であったが、長じるに
つれエイリアンというよりも、海底から現れた半魚人を
思わせる、魚類っぽい不思議な青年に育っていた。

その若さに似合わぬナマズのような
立派な髭が、余計にそう思わせる。
柱によりかかって、干し柿をかじりながら、
自慢の細い髭を指でなで、目を閉じる。
「奥方さま…」

彼の心には常に、2人の女性の影があった。
1人は、幼いころに生き別れた母親… 
名を「葛の葉(くずのは)」という。
その正体は狐ではないかと、世間では噂されている。

もう1人は初恋の人、熊野の真砂(まなご)集落の、
庄司の奥方さま… すなわち、「清姫」。

「あの人は、幼い私を守って死んだのだ… 
決して、恋に狂ったのではない…」
今でも彼は、そう信じている。

彼を守るため、殺し屋の「安珍」をどこ
までも追跡し、ついに倒した…
しかし自分も安珍から受けた傷のため、
死んでしまった…

あの時… 
『荒ぶる神』が彼の前に立ちはだかった、あの時。
月に吸いこまれそうな気がした、その瞬間。

彼は、「時間」を戻した… 
岩崩れを止めた時のように。
つまり、出発地点である熊野本宮に
戻っていたのである。

そこからは、吉野へ抜ける別ルート「奥駈け道」を通り、
なんとか熊野を脱出。
もう1度真砂を訪ね、奥方さまの墓参りをしたいのだが、
あの時の『荒ぶる神』が恐ろしく、いまだ行けずにいる。

「安珍を追いかけている時、あの女の頭に、
お前などいなかったさ…」
もう1人のシニカルな自分が、心の中で語りかける。
その現実を受け入れられず、甘い幻想に
すがっているのが、私の弱点…

道真にも、同じような弱点があるだろうか?