天神記(四)
14、 将門(まさかど)
承平5年(西暦935年)の続き。
2月に入ったある夜…
晴明は、悪夢を見ていた。
目の前に、怨霊・菅原道真の恐ろしい姿が
立ちはだかっている。
「お前が、星の落し子・安倍晴明か…
我に呪をかけてみよ!」
だが晴明には、道真の心の中も、過去も未来も
何もかも、見通すことができなかった。
ただ暗黒しか見えない…
これでは、呪をかけることはできない。
勝ち誇った笑みを浮かべる道真、
だが一転、険しい顔になる。
「む… 何も見えぬ… バカな!?」
道真から見た晴明もまた、一切見えない…
星々の輝く、無限の空間以外には。
つまり道真も晴明に対して、「呪=精神的な攻撃」を
仕掛けることができない。
幻の雷や、死霊を召喚しての攻撃も通用しないだろう。
「恐るべき奴よ、安倍晴明… だが直接面と向かえば、
お前の体など、この腕で引きちぎってくれる…
いや、わざわざ俺が殺さずとも」
人間である晴明の寿命は、たかが知れている…
100年を超えることはあるまい。
それに引き替え、不死の肉体に宿った怨霊の道真は…
「うぐ…」
晴明の背中を、敗北感が這い上ってくる。
「ククク… さらに言うなら、お前らの子供だましの
占卜で、俺の動きを知ることはできない。
予告しよう、今から1ヶ月以内に、俺は火の災いを
起こす… 陰陽師なら防いでみせろ…」
「はッ」
目覚めた晴明は、ただちに忠行と保憲に報告。
「道真が念を飛ばしていたのか…
俺はまったく気づかなかった…」
「見鬼」のレーダーで感知できない…
ショックに呆然となる保憲。
「それより、火の災いと言ったか、そちらが気になる。
明日から手分けして調査だ」
晴明と蓑虫は、手分けして星の運行を
徹底的にチェックする。
忠行は骨占(ほねうら)、易、霊夢など、
あらゆる占卜の技法を駆使。
保憲は都をくまなく歩き、「見鬼」の眼によって、
災いの火種を探し求める。
だが、一切何の兆候も見つからなかった。
「ハッタリとちがいますか… 星の位置も角度も、
火難を暗示するものは何もない…」
蓑虫のボヤキに、忠行も保憲も同意したい気分だ。
だが、3月6日…
比叡山延暦寺において火の手が上がり、たちまち
根本中堂をはじめ、多くの堂塔が炎に包まれた。
「恐るべき怨霊よ、道真… 奴の前では
陰陽道の術も無力なのか…」
忠行の自信は大きくグラついていた。
「先生! 私が修行を積んで、必ずや道真に
打ち勝つ力を手に入れます!」
そうだ…
あとは晴明の成長に賭けるしかない…
数年の間、道真がどこで何をしているのか、
その活動はようとして知れなかったが…
東国で、相馬小次郎こと平将門(たいら の
まさかど)の乱が始まった。
歴史上初めての、武士による朝廷への反乱である。
もともとは、一族の間での領地を巡るイザコザが
発端だったが、敵対勢力を駆逐した将門は、
とんでもない行動に出た。
天慶(てんぎょう)2年(西暦939年)、12月。
将門は自ら「新皇(しんのう)」を名乗り、
東日本の独立と領有を宣言したのだ。
己を天皇と互角の存在とするアピールだ。
そして将門に「新皇」の位を与えたのは、
この世の者ではない菅原道真。
(正確に言うと、位を授与したのは八幡菩薩で、
それを取り次ぎ、「お前を新皇とする」という文書
を起草したのが道真… と、伝わる。)
「道真公が、後ろで糸を…」
朝廷の受けた衝撃は、並大抵ではない。
皇室に真っ向から挑戦する者が現れ、
反乱を起こしただけでもショックなのに、
日本史上最凶の怨霊・菅原道真が
背後に潜んでいるのである。
「ともかく、道真が東国にいることはまちがいない」
陰陽頭の忠行は都を離れるわけには
いかないが、保憲、晴明、そして蓑虫
の3人は、ただちに東へと旅立つ。
「私もいっしょに参ります!」
しかし胡蝶は、前年に長男(後の賀茂光栄)を
出産したばかりであり、留守を命じられた。
3人の陰陽師が常陸(ひたち=茨城県)の
鹿島神宮に着いた時には年は明け、
天慶3年(西暦940年)となっていた。
坂東(ばんどう=関東地方)の情勢は一触即発
であり、極度の緊張状態にある。
鹿島、ここは皇室を守護する影の勢力の本拠地だ。
(鹿島神宮⇒ 春日大社⇒ 吉田神社⇒ 藤原摂関家
という指令系統になっている)
「あなたが… 星の落し子…」
当代の国摩魔人(くになず の まびと)以下、
鹿島七家の者たちは、晴明を拝んだ。
先代の魔人をはじめ、霊力に優れた
7人の神職の魂を合体させた存在…
それが晴明だからだ。
「まもなく、将門討伐の軍が出陣するでしょう…
道真を、将門から切り離しておかねば」
将門の軍勢だけでも強敵なのに、それを道真の
怨霊が加勢するようなことがあれば…
朝廷軍はひとたまりもない。
だが鹿島が全力をあげ探索しても、いまだ道真の
潜伏する本陣は見つかっていないのだ。
晴明たちもさっそく本殿にこもり、式神を
召喚して探索の儀式を始める。
なお、幼いころの晴明が鹿島神宮で修行した
という言い伝えが残っているが、このころの
エピソードが元ネタになっているのだろう。
一方そのころ、将門の居館では。
道真の霊体が、将門の前に出現していた。
「道真公… 今の貴方は実体ではない。
本体はどこにおられるのです?」
「フ… それはいくらおぬしでも、
明かすわけにはいかぬ…」
立体映像のような道真は、将門を不思議そうに眺める。
「それにしても… 将門の正体が
おぬしだったとはな…
さすがの俺も、たまげたわい」
果たして、道真の見た「将門」とは…
「ふう… 香取を過ぎれば、鹿島までもう少し…
保憲さま、怒るかな…」
胡蝶は息子を乳母に託して、
ついに来てしまったのである。
利根川の川原で用を足そうと、
しゃがみこんだその時…
それが目に入った。
「死体…? まだ子供じゃ…
げっ く… 糞蝿ッ!!!」
川原に横たわるその姿は、いまだ子供のまま…
ということはこの男、「子供に見える」だけ
であって、決して子供ではないのだ。
1匹の蝿がスルッと、鼻の穴に入った…
と、不気味な紅い眼が開く。
「胡蝶…」
飛び下がって、護身用の懐刀を抜き放つ胡蝶。
「裏切り者は始末するかい?
それが根黒衆の掟だからね…」
「いや、胡蝶… お前は裏切ったのではない。
晴明に呪をかけられたのだ。
眼を覚ませ… 今の男に対する愛など、
術によって作り出された偽りの愛」
「嘘だ… 嘘だァーッ!!」
大きく跳躍して逃れる胡蝶、しかしかつての
身体能力は、もはや失われている。
ここ何年も一般人と同じ暮らしをして、
修行などしていないのだから…
「仕方ない… 許せ、胡蝶」
糞蝿はまさに、蝿のように身軽な体術を駆使、
かんたんに追いつくと…
手刀で胡蝶の首をたたき折る。
血を吐いて倒れる女を一瞬、憐れみの目で
見たが、やがて歩き去った。
蝶よ… こっちへ… 来い…
命の燃え尽きる瞬間、最後の力を振り絞り、
1匹の蝶を呼び寄せ…
胡蝶は、自らの胸を紅く染めた血を吸わせる。
偽りなんかじゃ… ない…
鹿島神宮の境内で、空を見上げていた賀茂保憲は、
弱々しく漂う蝶を、夕焼け空に見た。
「あの蝶は…?」
保憲の頭上に揺らめき、紅い燐粉を降らせる。
それを吸った保憲は、体から力が脱け…
リアルな幻影を見た。
子供の死体が見える… 糞蝿?
飛んで、転がって、空を見上げる…
胡蝶か? 死んだのか!? 殺されたのか!?
蝶に血を吸わせてから、視点が移った…
高く高く舞い上がり…
これは蝶の視点だ!
ああ、やはり… 胡蝶が川原に倒れている!
そして… 歩き去るあの子供が見える!
蝶は、眼下に糞蝿をとらえたまま、
どこまでもついていく…
すごいスピードだ…
どこに向かっている?
あの山は… あの山に隠れ家があるのか?
そして、あれは… 糞蝿が膝まづいているあの男は…
あれは人間じゃない!
あれは… 菅原道真だ!!
その時、蝶は力尽き、保憲の足元にポトリと落ちた。
この蝶は… いや胡蝶は…
最後の力で糞蝿を追跡し、その居場所を
知らせてくれたのだ。
そして糞蝿は今、道真から直接指令を受けているらしい。
「ありがとう、胡蝶… お前のおかげで…」
保憲の頬を、涙が伝う。
呪によって生み出された、偽りの愛なんかじゃない…
お前は永遠に、私の愛する妻…
「それで、その山というのは…
わかりますか、保憲さま?」
胡蝶の遺体が回収され、荼毘(だび)にふされた後。
「もちろんだ。あの形はまぎれもない、
筑波山(つくばさん)…」
「なんと! 道真公は、筑波山を本陣に…」
筑波山といえば、将門と敵対する平良兼
(たいら の よしかね)が陣を敷いている。
将門を支援する道真は、いわば敵陣の
ド真ん中に潜んでいるわけだ。
「筑波山なら、道真公と縁(ゆかり)がありますよ」
鹿島の神職が、口をはさんだ。
道真の生前、三男の菅原景行(かげゆき)は
常陸介(ひたちのすけ)に任命され、
筑波山から近い真壁郡に移住した。
(その中心・真壁町は現在でも、けっこう
古い町並みが残っている。)
将門や良兼の一族から、学問の師と
して慕われていたらしい。
道真の死後、景行は筑波山麓の羽鳥という
土地に「天神塚」を築き、父の霊を祀った。
(後に常総市大生郷(おおのごう)に移転して、
大生郷天満宮となる。)
大生郷天満宮 公式サイト
http://www.tenmangu.or.jp/topmenu.htm
「そういえば数年前から、天神塚の周りで
怪物を目撃したという情報が…」
「思えば、その時すでに道算公が入りこんで
いたのだろう… で、どうします?」
神職たちは全面的に協力、さらに良兼陣営とも
連絡を取ることを申し出た。
「封じこめましょう… 筑波山ごと、道真公を!」
星の落し子・晴明は作戦を説明。
翌日、一行は出発、筑波山の北西、
真壁郡の猫島に拠点を構えた。