天神記(四)
13、 星の落し子
翌、承平2年(西暦932年)。
「まちがいない… この少年こそ、星の落し子!」
まるで異性人のような、ギョロリと
大きな目をした不気味な子供…
安倍童子丸(あべ の どうじまる)、12才。
誰もが道真の祟りと思っていた、朱雀帝の病。
しかし、ある日フラッと陰陽頭・賀茂忠行を
訪ねてきたこの少年は、
「帝の病の原因をつきとめたら、私を弟子に
していただけないでしょうか?」
いぶかる忠行と同行し、清涼殿の柱の下から…
生きながら埋められていた、蛇と蛙を
掘り出したのである。
忠行がそれらを解き放つと、嘘のように
帝の容態は回復した。
「いったい、誰がこの呪いを仕掛けたのか…?」
という疑問は置いておくとして、とにもかくにも、
忠行は少年の衣服を脱がせる。
まちがいなく、五芒星の刺青。
「待っていたぞ… 君を、ずっと待っていた!」
忠行のもとで少年は元服し、
「晴明(せいめい)」の名を授かる。
陰陽師・安倍晴明、ここに誕生。
少年・安倍晴明は生まれつき超人的
霊能力をもっていたが、陰陽道の知識
については、まだ十分ではない。
これから忠行が教育して、道真とわたり
合える陰陽師に育てるのだ。
「お前が一人前になるまで、敵に見つから
ないよう用心せんとな」
話を聞くと、熊野で殺し屋に狙われたり、
『荒ぶる神』に襲われたりしたという。
(安珍と清姫「童子丸」「追跡」参照)
「荒ぶる神、か…」
それが敵方の大将、道真を背後で
操る者と、吉田神社で聞いていた。
そして『荒ぶる神』自身は、結界のため
都に入ってこれないということも。
「だが油断はできぬ。配下の魔物を
晴明の抹殺に送りこむやもしれん…
保憲(やすのり)、晴明の身の回りに
気をつけてやってくれ」
「…心得ました、父上」
忠行の長男、賀茂保憲、16才。
やはり、生まれながらにして常人
にはない力を授かった者。
女のようにきれいな顔立ちの、
繊細で冷たい感じのする少年。
「さっそくですが、先ほどから天井裏に…」
「何!? もうここが見つかったのか?」
保憲は幼少の時より、「見鬼(けんき)」…
すなわち、魔物をサーチするレーダー
のような能力に優れている。
天井板を破り、何か大きい塊が落ちてきた。
いや、床までは届かず…
天井裏の梁から、ゴム状のチューブの
ようなものでブラ下がっている。
それは逆さにブラ下がった、四肢の
ない人間のような生物。
「よくぞ俺の存在を見破ったな!
陰陽師の技、侮りがたし…」
安珍に続いて、根黒寺が送りこんだ暗殺者だ。
鬼や妖怪の類を見慣れた忠行でさえ、
思わず目を見張る奇怪な姿である。
「これは… 一体、どういう種類の魔物か?」
「人外の姿をしておりますが、れっきとした人間です。
あの天井から垂れた光沢のある綱のようなものは、
あの男の腸… 脱腸です。
恐らくあれを自由に出し入れし、操ることによって、
手足がなくとも動き回れるのでしょう」
保憲レーダーの、見事な分析であった。
「ほう… そんなことまで見えるのか、お前の目は!?
俺の名は蓑虫十郎(みのむし じゅうろう)、
根黒寺より遣わされた三妖虫の1人!
あとの2人も、おっつけ都に現れるが、俺が一番
乗りよ… 童子丸の命をいただくのはな」
「かわいそうに… あなたも私と同じく、人間として
扱ってもらえない姿に生まれついたのですね…
それで、こんな生業(なりわい)を…」
人間蓑虫の奇怪な姿を見つめ、涙を流す晴明。
化物は目を見開き、
「お前… お前を殺しに来たこの俺を、
憐れむというのか?」
ドサリと床に落ちた蓑虫は、
スルスルと脱腸を収納する。
「気が変わった… 俺は根黒寺を抜ける。
ここにいて、お前を守ってやろう…
そのかわり、俺にも陰陽師の技を教えてはくれまいか?」
「なんと!」
予想外の展開に、一同ビックリだ。
数日後。
「父上、あの蓑虫十郎という男… 決して嘘は言って
ないようですが、それにしてもやけにあっさり仲間を
裏切って、こちら側につきましたな…」
すっかり賀茂家の居候となり、晴明と仲良く
書物を読んでいる蓑虫を観察しながら、
困惑顔の保憲がささやく。
「あれは半ば自分の意思ではないよ…
晴明に「呪(しゅ)」をかけられたのだ。
晴明を、心の友と思いこんでいる。
あの年にして、恐るべき力よ…」
「な… それでは、あの時の晴明の言葉が…」
「呪(しゅ)」とは、「暗示」と言い換えてもいいかもしれない。
その時。
紫とオレンジの混ざり合った、不思議に
妖しい色の蝶が1匹… 庭に迷いこむ。
それが呼び水のように、蝶の大群が
邸の上空に現れた。
「父上! あれはただの蝶ではありません!
あの燐粉は… 魔薬です!」
「家の者を全員、屋内に避難させろ!」
と同時に、風に舞う黄砂のように、紫の燐粉が降り注ぐ。
「はう… なんとも、良い心地じゃ…」
燐粉を吸いこんだ者たちは、目をトロン
とさせ、ぐったり崩れ折れる。
リゼルギン酸ジエチルアミド、すなわち幻覚剤LSDと
同じ成分から成る、魔の燐粉だった。
「いかんッ この粉を吸ってはならぬ!」
「保憲さま! あの蝶を操っている
本体を見つけてください!」
晴明や蓑虫の周りでも、空間がグニョ〜と歪んできた。
「この術は… 俺と同じ三妖虫の1人…
胡蝶夢(こちょうのゆめ)!! ついに奴が…
この粉を吸うと、夢と現(うつつ)の区別が
つかなくなって狂い死にするぞ!」
胡蝶夢は、500mも離れた家の
屋根に、すっくと立っていた。
スッとした切れ長の目の、17才の美少女。
「今ごろ奴らは、夢とも現ともつかぬ夢幻地獄の中で
もがいておるだろうよ… 苦しむがよい、童子丸…
我が憧れの君、安珍さまの仇…」
根黒寺で育てられたこの美少女は、
幼い頃より麦を主食としている。
麦にはLSDの原料となる麦角菌
(ばっかくきん)が寄生する。
この少女が愛欲の炎を胸に燃やす時、
股間の茂みにしたたる秘密の蜜…
すなわち愛液によって、特殊な蝶の
群れを養っていたのだ。
彼女が情欲をいだく対象、それが
根黒寺きっての美僧・安珍。
4年前、童子丸=晴明の暗殺に失敗した
安珍は、帰らぬ人となったが…
「これ、胡蝶。よさないか、これ…
私の声が聞こえぬか?」
「え…?」
振り向いた胡蝶の瞳に映った影は…
「安珍さま…!!」
胡蝶の頬が赤く染まり、涙が伝う。
「どうして…」
「私を殺したのは、童子丸ではないぞ。道成寺の
できごとは、お前も聞いているだろうが…
むしろ童子丸は、私の運命を察知し、警告して
くれたのだ… だから、お前も恨むな」
優しく、胡蝶の体を抱き寄せる。
「童子丸は人間ではない、おそらくは神仏の類…
決して害を及ぼしてはならぬ…
むしろ、そばに仕えてお守りしてほしい…
そうすれば、私は」
「私は… なんですか? 安珍さま?」
「地獄から解放され、成仏できる…
お願いだ、胡蝶… お前だけが私を…」
胡蝶の唇に、安珍のそれが重なる。
もはや、彼女の進む道は1つしかなかった。
蝶の群れが消え去ってまもなく…
「安珍」が晴明の元に戻ってきた。
「うまくやった… と、思いますぜ」
その姿はすでに美僧ではなく、ごく平凡な中年男。
「ご苦労さま、一文字」
この直後である… 胡蝶が邸の門を叩いたのは。
結局、胡蝶は雑仕女として働くことになった。
「なんだ、胡蝶… お前も晴明を好いたのか?」
蓑虫がからかうと、顔を真っ赤にして
「バカッ! だれがあんなガキ… 私は… 私は…」
忠行・保憲の父子は、改めて晴明の能力に舌を巻いた。
だが、まだ… 「三妖虫」最後の1人が残っている。
「糞蝿(くそばえ)だと…? それが名前か?」
「浮浪者の子供のような姿をしてるけど…
どんな術を使うのか、私らもよく知らないんだ」
得体の知れない奴だと、胡蝶も蓑虫も口をそろえて言う。
1匹の小さな蝿が、邸から飛び立って
いったのを、誰も気づかない。
それは保憲のレーダーですら捕捉できないほど小さく、
あまりにも非力・無力であったが、賀茂忠行の邸で
起こったできごとを、一部始終見ていた。
都のはずれの土壁によりかかった、
まるで死んだような浮浪者の子供…
その鼻の穴から、蝿はスッと入っていく…
それは蝿の姿をした、糞蝿の魂魄であった。
子供は、ゆっくりと目を開く…
瞳が、不気味に赤い。
「刺客が近づけば、ただちに保憲に見つけ出され、
晴明によって呪をかけられる…
これではまったく、ラチがあきません…」
根黒寺の大僧正に報告を送ると、
しばらくして指示が来た。
晴明の暗殺はいったん中止、監視を続行せよ…
晴明と蓑虫十郎は親友となり、2人は競うように、
陰陽道の知識を吸収していった。
生まれつき能力に恵まれた晴明はもちろんだが、
意外や蓑虫にも才能があり、特に占星術では、
晴明をしのぐほど。
手足のない体、肛門から自在に脱腸を出し入れする
様子はなんともグロテスクだったが、持ち前の知性と
ユーモアで、いつしか邸の人気者となっていた。
一方の胡蝶夢にも、運命の転機が訪れようとしていた。
今は亡き思い人・安珍を地獄から救うため、
なれない仕事にも、けなげに奮闘する日々…
だが、いつしか… 安珍にも負けない美形の
保憲に、胸がときめくようになった。
ふだんは冷たい印象の保憲も、なぜか
胡蝶に対しては、いつも優しい。
「私の目は、鬼を見つけ出すだけではない…
人の心の裏側も見える。胡蝶、お前の
心の奥底は… 宝石のように美しい」
「えっ…」
胡蝶の頬が、紅く染まった。
こうして承平5年(西暦935年)の正月、
2人はめでたく夫婦となった。
もうおわかりの方もいると思うが、この胡蝶、
後に輪廻転生して、甲賀卍谷十人衆の1人、
「蛍火(ほたるび)」に生まれ変わる。
映画「SHINOBI」で蛍火を演じた沢尻エリカが、
これを書いてる今日、明治神宮で挙式するとは、
なんという偶然であろうか。
だが、そんな充実した日々の中、晴明はふと…
誰かに監視されているような…
そんなふうに感じられることが、しばしばあった。
さすがの晴明も保憲も、邸を飛び回る1匹の
小蝿がスパイだとは、まったく気づかない。