天神記(四)





12、 忍びよる影




その後も台風は来るわ、賀茂川が氾濫するわ、
疫病ははやるわ、治安が悪化するわ、
相変わらず都は、いいことがなかった。

「道真公の怒りは、まだ収まらないのだ… 
墓所にりっぱな社殿を建てても、生前の地位に
戻しても、その怒りは決して終わらないんだ…」
人々の心には、道真に対する恐怖が刷りこまれていた。
あらゆる災いが、道真に結びつけられてしまう。


そのようすを遠くから眺め、せせら笑っている者がいた。
大和の国・唐傘山の、例の乞食である。
「日の御子の怯えようは、ただごとじゃァねえらしいぜ」

話しかけた相手は、ようやく起きて
動けるようになった鳴神だ。
今では己の意思を半ば失い、
魔風の操るロボットも同然。

魔風に代わって、破損した道真の
ボディを修復する作業を行っている。
あの戦いから16年… 道真が完全体となって
復活するには、なお数年かかるだろう。

「あわてるこたァねえ。道真が休んでる間にも、
ジワジワと恐怖が広がっていく。
それに奴らはまだ知らん… 道真に気を取られ
てる間に、新たな魔物が育ってるこをな」

天国(あまくに)… 片目片足の異形の鍛冶師。
10年前に山を降り、都で小さな鍛冶屋を営んでいる。

「あの男が、どんな役割を果たすのです?」
「あいつは刀鍛冶だ、りっぱな刀を作る
のが仕事さ。トンテンカンテンとな…
だが、あいつの刀が完成する時… 
この国は、魔と逢うだろうよ」

数百年を生き、あらゆるデータを収集する
「角」をもつ鳴神であっても、乞食男の
正体と、真意はうかがい知れない。

「あなたの目的は、この国を… 
朝廷を滅ぼすことなのですか?」
「ただ滅ぼすんじゃねえ… 
それだけじゃ、能がねえだろ」

ごろりと横になった乞食の瞳には、魔物で
すら見通せない深い闇があった。



翌、延長5年(西暦927年)。
真寂法親王こと、斎世親王、没。
道真の養女・苅屋を妻とし、道真
破滅のきっかけを作った人物。


翌、延長6年(西暦928年)。
紀州の道成寺で、恋に狂った女・清音が、
自分を裏切った男・安珍を追いかけまわし、
寺の鐘ごと焼き殺すという猟奇事件が発生。


翌、延長7年(西暦929年)、パス。
延長8年(西暦930年)、2月28日。

女流歌人・伊勢の最後にして最愛の人、
中務卿敦慶(あつよし)、都で猛威を
ふるう疫病のため、命を落とす。
享年45才。



6月26日。
宮中の清涼殿に、落雷があった。

「だ、誰か来てくだされ! 権大納言が…」
運び出された犠牲者は、藤原清貫(きよつら)。
衣服は焼け焦げ、胸部が鋭い鎌で
切られたようにパックリ裂けていた。
(雷の走った空間は、真空状態になっている。
真空に触れると、カマイタチのように
ザックリ切られてしまう!)

清貫はかつて、時平の腹心だった男で、使者として
大宰府まで道真のようすを見に行ったこともある。
彼の書写した「日本書紀」が重要文化財
として残っていること、この日の落雷に
よって死んだことで、歴史に名を残す。

犠牲者は、清貫だけではない。
右中弁(うちゅうべん)の平希世(たいら の
まれよ)の顔面が焼けただれ、まもなく
死亡した他、多数の死傷者が出た。


「今度こそ、まちがいありません… 道真公です」
賀茂忠行は、うつむいた。
相変わらずガラス細工のように無表情だが、
心なし悲壮感がにじんでいる。

ついに、恐れていたことが現実になってしまった…
九重の結界のうち、第7結界までが突破された…

帝や御所の人々の意識が作り出した、「結界を
すり抜けるルート」が現実のものとなり、しかも
敵によって発見されてしまったのだ。
それだけではない…
今や魔神・菅原道真は、完全体となって蘇ったのである。



「どうだ、体の調子は?」
唐傘山の洞窟では、鳴神が道真の
コンディションをチェックしていた。
「いい… いい感じに仕上がっている」

その体は、もはやヒビ割れてはいない。
3m近い、強大な筋肉の集合体。
耳や鼻、全身の毛穴から、硫黄のような
ガスが噴出している、生きた活火山。
「ここまで来たら、あせる必要はない。
時間をかけ… なぶり殺しにしてやろう」

前回の襲撃は大規模に、派手に暴れまわって、
都をパニックに叩きこんだ。
しかし、今回はジワジワと小出しに… 
少しずつ恐怖を高め、精神的に追いつめる。
まずは、帝から… 地獄へと行幸していただこう…



「清貫には、気の毒なことをした… 
道真が狙ったのは、朕だったにちがいない」
何しろ天皇が休んだり食事したり、日常の生活を
送る場所である清涼殿に、雷が落ちたのだ。

道真の最大の敵・時平は死に、次の標的は、
時平とつるんでいた自分にちがいない…
帝がショックのあまり病になってしまうのも、
無理なからぬことであった。

左大臣忠平は、陰陽頭の賀茂忠行を呼び出し、
「何か手はないのか?」
「左大臣には、お話ししておかねばなりますまい… 
この忠行、ただ今、全知全能力を駆使して、
『星の落し子』の行方を追っておりまする」
「星の… 落し子?」


それは、10年前… 延喜20年(西暦920年)のこと。
賀茂忠行は吉田神社で、神人頭の太岐口獣心と会った。
そばには26才になる、跡取りの雅視
(まさみ)という青年が控えている。
「鹿島から知らせがあった。かいつまんで話すと…」

「サンダーストーム」の年の道真のすさまじい
襲撃は、鹿島七家にもショックを与えた。
もはや藤原摂関家や吉田神社だけでは、
皇室を守りきれないかもしれない…
鹿島神宮の祭神・タケミカヅチ大神に
お伺いを立てたところ、宣託があった。

鹿島・香取両神宮に仕える神職の中から、特に霊能力に
優れたる者7名を選び出し、その魂を1つに合成する…
この合成魂をいったん、死後の世界に送り、転生させる…
生まれながらにして超能力・超霊力をそなえた超人が、
この世に誕生する…
これを、『星の落し子』と呼ぶ。

「いったい誰が、そんな恐るべき秘術を… 
7つの魂を1つに合わせるなど!」
いつもは無表情な忠行が、顔色を変えた。

「タケミカヅチ大神おん自ら、この
儀式を執り行われたそうだ。
7人の神職の尊い命が失われたが… 
先代の国摩魔人(くになず の まびと)さまも、
そのうちのお1人となった」

「そして… 成功したのですか? 
つまり、転生したのですか?」
「それは、まだわからない… 
いつ、どこに転生するのか」
「我々で見つけ出せと、そういうことですね?」

「君にも卜占(ぼくせん)と式神(しきがみ)を
使って、協力してもらいたい。
『星の落し子』の目印は… 生まれつき
胸にある、星型の… 五芒星の刺青」

それまでだまっていた、雅視が口を開いた。
「なんとしても、敵よりも先に見つけなければなりません」
「敵? ああ、菅原道真のことですね」
端正な顔立ちの青年の瞳に、冷たい炎が燃え上がった。
「そう。道真と… その背後にいる者たち」

さすがの忠行も、この青年が
道真の孫とは気づかなかった…


「という、しだいでございます」
忠行の話は終わった。
「道真公の怨霊は、私の手に負えるものでは
ありません。頼みの結界も破られました。
『星の落し子』こそが… 
最後の希望なのでございます」

「し、しかし… 9年かけて、いまだ見つからないのか…」
雲をつかむような話に、忠平は絶望感をにじませた。



9月22日、醍醐帝は病が悪化、8才の
寛明(ゆたあきら)親王に譲位。
第61代・朱雀(すざく)天皇である。
左大臣忠平が、摂政として補佐をすることに。

「急がねば… このままでは私は
道真に、地獄へと連れ去られる…」
9月29日、醍醐上皇は病をおして出家。

だが、剃髪し法体(ほったい=僧の姿)に
なったとたん、容態が悪化、崩御した。
死ぬまで… いや、死んでからも道真の
恐怖から解放されない帝であった。



承平元年(西暦931年)、第61代・朱雀天皇の御世。

2月13日、再び内裏に落雷があった。
今回は内裏を囲む外郭門の1つ、
修明門(しゅめいもん)の近く。
帝の母、穏子は半狂乱である。

寛明が赤ん坊のころより、何重にも几帳を立て、
ひっそりと隠すように育ててきたのだ。
それが帝になったとたん、いきなりの一撃。

幼い帝も相当ショックを受けたのか、
高熱を発して寝こんでしまった。
このままでは、父・醍醐の二の舞に…


7月19日、宇多法皇が息子(醍醐)の
後を追うように、65才で崩御。


「法皇さまもとうとう、お隠れに… 
葉月も一人前になったし、そろそろ
私も消える時かな…」

伊勢(60才)、今も変わらぬ姿の
八重を連れ、都を出る。
骨を埋める場所は摂津(せっつ)の国
(=大阪府北部)、古曽部(こそべ)。

伊勢は、ここで歴史から姿を消す。
数年後に没したという。
伊勢の住居跡が伊勢寺(高槻市)という
寺になり、愛用した硯や鏡が残っている。