天神記(四)





11、 弘法大師(こうぼうだいし)




翌、延喜20年(西暦920年)はパス。(3回までパスできる)
翌、延喜21年(西暦921年)。

京都駅の南にある東寺は、平安京遷都の折に
建立された官寺(国営の寺院)であった。
日本に密教を伝えた空海が、これを嵯峨天皇から賜り、
密教を学ぶ道場としたのが弘仁14年(西暦823年)。

ユネスコ世界遺産 東寺(教王護国寺) 観光サイト
http://www.pref.kyoto.jp/isan/kyouou.html

今、空海のプロデュースした「立体曼荼羅」
の前で、経を唱えているのは東寺の長者
(最高責任者)を務める観賢、68才。
今日の喜ばしいニュースを、御仏に報告していたのだ。

かねてより、真言宗の開祖・空海に「諡号(しごう)」を
賜るよう、朝廷に働きかけていたが、ついに本日
10月27日、帝より「弘法大師」の諡号が贈られた。
弘法大師…
「弘」は「広」と同じ意味なので、「仏法を広めた
グレートな師匠」といった意味だろうか。

「諡号」または「諡(おくりな)」とは、もともと天皇や
高貴な人に、本人の死後贈られる美称のこと。
それが、偉大な業績を残した高僧にも贈られる
ようになったのは、貞観8年(西暦866年)、
天台宗開祖・最澄に「伝教大師」、その高弟で
最後の遣唐使となった円仁に「慈覚大師」の
大師号が、清和天皇より贈られたのが最初。

ライバル天台宗の開祖に諡号が
送られたのに、真言宗にはない。
きっと、悔しい思いをしていたにちがいない。
「天皇から諡号を賜る」ということは、「世界遺産」
とか「王室御用達」とか、「ミシュラン3つ星」とか、
そんなものを遥かに超えるブランド価値がある。

東寺が空海の寺となってから、ほぼ100年。
真言宗もようやく、この「ブランド」を手に入れたのである。
これも全て、観賢の努力のたまもの。
「弘法大師」の名は、「弘法も筆のあやまり」という諺と
ともに、今日では広く世間に知られた大師号となった。


11月になると観賢は、弟子の淳祐(32才)を
ともない、高野山(こうやさん)を訪れた。

菅原道真の孫である淳祐は少年時代、
( ´゚ё゚`)←こんな情けない顔をしていたが、
今ではすっかり、りりしい修行僧となっている。

紀州(和歌山県)・高野山、それは空海が開いた
山上の宗教都市、ユネスコ世界遺産。
高野山観光協会 公式サイト http://www.shukubo.jp/

奥の院に、空海の廟がある。
通常は立ち入り禁止だが、今日は大師号
のことを報告しなければならない。

「私のような者が足を踏み入れて、
かまわないのでしょうか?」
淳祐は感動に震えている。

「こんな幸運は、100回生まれ
変わっても、2度とあるまい…」
観賢自身も廟に入るのは初めて
であり、極度に緊張している。

日本宗教史上最大の巨人、カリスマ空海との対面…
果たして、どのような御姿なのか。

「………」
空海は、石室の中に座っていた。
微妙に大きさの異なる左右の眼を
くわっと開き、こちらを見ている。
遺体は、まったく腐敗していなかった。

現代人の感覚で言えば、その風貌はオーソン・
ウェルズのようでもあり、ムッソリーニのようでも
あり、怪しく、うさん臭く、異様な生気に満ち…
まさに怪人、世紀の大魔術士、見ように
よっては悪魔のようでもある。
口を開けば1時間はノンストップでしゃべり続け、
その言葉は人々を引きつけ、催眠術のように
他人の心を操ったにちがいない。

その顔もポーズも、とにかく怪しかったが、
死後86年を経て今なお顔色がこんなにも
ツヤツヤしているのが、何よりも怪しい。

だが、そんなことも気づかないほど観賢が
仰天したのは、空海の髪と髭…
黒々と長く伸びて、床に積もっていたのである。
まさに、怪しさ大爆発。

「お、おおおお…」
うろたえ混乱した観賢は、何をしたらいい
のかわからず、とりあえず伸びきった髪と
髭をきちんとまとめて、ひもで束ねた。

「わ、私には何も見えないのですが…」
「なに?」
淳祐は、ただ虚空を見つめている。
「やはり私のようなものには、大師のお姿は…」

泣き声になってきたので、観賢が手を
とって、空海の膝に触れさせる。
しっかりした手ごたえがあった。
「おお… ほんとうだ! 見えない
けど、たしかにいらっしゃる!」

ほどなく2人は、ふらつきながら廟を後にした。
そういえば、肝心の大師号の報告を忘れたような…
ふと、淳祐は手の匂いをかいでみる。
「あ、これ… 大師さまの匂い…」


空海の膝から淳祐の手に移ったその
匂いは、一生消えなかったという。
どんな匂いなのか知る由もないが、淳祐に言わせると、
「この世のものと思えぬ、かぐわしい妙なる香り」
らしい。

さらに後日、淳祐が写経した経典に
まで、この匂いが移ってしまった。
この経典は「薫の聖教(かおりのしょうぎょう)」
と呼ばれ、滋賀県大津市の石山寺に現存し、
国宝に指定されている。
石山寺 公式サイト http://www.ishiyamadera.or.jp/

真言宗では、今も高野山・奥の院で
空海が禅定(ぜんじょう)…
すなわち瞑想したまま生きていると、信じられている。

「維那(いな)」と呼ばれる空海の世話係の
僧侶が、日に2度の食事と着替えを毎日、
欠かさずに届けているそうだ。
維那は霊廟内部のようすを語ることを禁じられ
ているので、空海が現在どういう状態なのか、
真実は一切わからない。



翌、延喜22年(西暦922年)はパス。
翌、延長(えんちょう)元年(西暦923年)。

3月21日、皇太子・保明(やす
あきら)親王が突然の病死。

「道真の怨霊の祟りか!? 
皇太子、謎の高熱を発して怪死!!」
ニュースはたちまち広まり、都を暗い影が包みこむ。
保明は醍醐帝の第2皇子で、享年21才。

4月20日、道真は右大臣の地位を
回復、正二位を贈られる。
大宰府左遷の勅命は、正式に破棄された。
菅原道真の名誉は、ここに完全に
回復されたわけであるが…
道真の死後、19年目。
今さら、という感がぬぐえない。

亡き保明の第1皇子・慶頼王(よしより
おう)が、新たな皇太子となる。
まだ、わずか2才。

「この子も、道真に殺される…」
孫の立太子に臨んで、醍醐帝の妃、
穏子は不吉な予言をつぶやいた。

藤原穏子(おんし、又はやすこ)、39才、
父は初代関白・藤原基経。
時平、仲平、忠平、温子の妹である。
丸顔で愛らしい温子と似た面差し… 
神経質そうな目つきを除いては。

7月24日、第11皇子となる寛明(ゆたあきら)
親王を出産。(後の朱雀(すざく)天皇)
中年にさしかかってからの子供なので、可愛さもひとしおだ。
「この子は私が守る… 道真には、絶対に渡さない!」

帝も妃も、パラノイアになりかかっている。
道真を左遷した張本人である醍醐帝は、
陰陽頭の賀茂忠行を召した。
「御所に、怨霊が入りこんだのではないか?」
「いえ… 第4結界から先は、破られておりません」

保明親王の死は道真と関係ない、
単なる偶然と忠行は見ていた。
ろくな医学もない時代、皇太子が
病死することだってあるだろう。

だが… 道真の怨霊がいまだ潜伏し、
機会を狙っているのも確かであった。
「どうか、古えより玉体をお守りして参りました
結界の力を、ご信頼下されますよう」

もしこのまま帝が結界を信頼せず、まわりで起こる
あらゆる不幸を、道真と結びつけて考えるなら…
(結界を通り抜ける、「抜け穴」が生まれてしまうかも…)
それを忠行は心配していた。


11月23日には、平中こと平貞文が52才で没した。
すっかり無気力になっていた上に、老いて
汚らしくなり、女たちから見捨てられ、
野たれ死に同然の死に様だったという。



翌、延長2年(西暦924年)には
藤原忠平が左大臣となり、
さらに翌年、延長3年(西暦925年)。

6月18日、皇太子の慶頼王が、
原因不明の高熱で夭折。
わずか5才…

長男・保明に続いて、孫の怪死… 
穏子はショックに青ざめた。
「私の言ったとおりになってしまった! 次は…」


帝は忠行を呼びつけ、叱責した。
「これでも、怨霊の仕業ではないと申すのか?」
「………」

帝の意識の中では、「怨霊が侵入した」
ことが、完全に事実となっている。
つまり帝にとっては、「結界を回避して、御所の
中心にいたるルートが存在する」わけで、穏子
をはじめ、多くの皇室関係者が同じ認識をもち
つつある今、それは現実となるだろう。
一定数の人間が「現実」と信じた事象は、
ほんとうに「現実」となってしまうことがある。
この世界の半分は、人間の「意識」で
作られているのだから…


この年、真言宗の名僧・観賢が、怨霊に
怯える世間を憂いつつ、没。



翌、延長4年(西暦926年)。

寛明親王が、4才で皇太子に。
「ああああ、とうとう寛明が東宮(皇太子)に… 
まちがいない、次に狙われるのは…」

母の穏子はますます神経過敏になり、皇太子の
周りに几帳を何重にも巡らせ、乳母以外には
何人も、中に入れようとはしなかった。
「絶対に、この子だけは… 死なせてなるものか!」


この年、比叡山の法性坊尊意が、
第13代目の天台座主に就任。