天神記(四)





7、 嵐の後




そのころ、醍醐寺では。

「うおおおおおおおおーッッ」
泥沼の底から、雄叫びが… 
と、泥が逆流して噴き出し…

泥人間・源信を、「脳天逆落とし」の
体勢で抱えた聖宝が飛び出してくる。
床に叩きつけられた源信は、ビチャアアアッ
と飛び散って、泥に還った。
聖宝は往年の、たくましい姿に戻っている。

「法力によって、かつての金剛力を
取りもどしたか、聖宝…」
黒雲坊も、目を見張る。
幻の泥沼は、みるみる消滅した。

振り返って聖宝は、弟子たちの方へ
手をかざし、気合をこめる。
「無眼界ッ!!!」

焼けただれたケロイド状の死霊、
伴善男と生江恒山は、大風に吹き
飛ばされるように、かき消えた。

無眼界(むげんかい)… 
目に見えるものは、すべて実体の
ないもの、という意味である。
まさしく死霊たちは実体のない、精神に
侵入したソフトウェアにすぎない。

黒雲坊は、聖宝が尋常ならざる強敵と気づいたようだ。
「私は簡単には消去されんぞ… 
しかし、もう時が来たようだ」
聖宝に、指をつきつけ、
「お前には、もはや道真に干渉する力はない。
まもなく、お前の命は終わる」

「な…」
観賢・淳祐は、ようやく正気に戻りつつあったが、
今の衝撃発言を耳にして、顔色を失う。
「でたらめを言うな! 忌まわしい死霊め!」

「私はいったん、月の都に帰る。生まれ変わって、
もう1度、鳴神さまに仕えるために…
お前はなかなかの好敵手だ、聖宝。
輪廻転生の果て、またいつかお前と出会いたい。
その時こそ、今日の決着をつけてくれようぞ」
黒いガスに包まれ、黒雲坊は消滅した。

聖宝は、倒れた。
「老師!」
もとの年老いた姿… 
それも全てのエネルギーを絞り
つくした、ミイラのような姿に。
「は、早く… 加持の用意をしろ…」

「そのお体では無理です!」
観賢が、師を抱き起こす。
「バカモンッ 見くびるな! 道真を完全に止める
ことは無理でも、足をひっぱるくらいはできる」
護摩をもうもうと焚き、死力を尽くして祈祷に入る。



都では。
荒れ狂う風と雷の、すさまじい激突。
いく筋もの雷光が真済をつらぬき、翼は焼け落ちた。

一方の道真も、真済の巻き起こす疾風に
あおられ、全身にヒビが広がる。
もとより完成していない肉体に加え、
尊意に片腕を落とされているのだ。

(この天狗を押さえこむには、どんな
死霊を呼んだらよいか…)
と、思案しているうち、道真の体が重くなった。
(む… 何者か、俺を封じる祈祷を… 
この念の力は、ただ者ではない…!)
それでなくとも、全身のヒビからマグマが
漏れて、力が抜けていくというのに…

真済が吼えた。
道真にすさまじいタックルを食らわすと、
もつれあったまま両者ふっとぶ。

一気に羅城門を飛びこえ… 
都の、はるか南に落下。
大地を揺るがす衝撃。

「ぐはああああっ」
その衝撃に、道真は口からマグマを吐いた。
真済にいたっては、腰のところで体が
真っ二つに裂けてしまっている。
それでも、タフな笑みを浮かべ、
「どうだ、このへんが引き時だぞ。
その体を修復しないと、お前も滅ぶ」

「そうらしいな… だが、俺はまた帰ってくる」
力をふりしぼって、立ち上がる道真。
「あなたとは、これで永遠の別れだろうがな…」

真済の砕けた体を、冷酷に見下ろす。
「しゃしゃり出てこなければ、長生き
できたものを… 物好きな天狗だ」
体を引きずりながら、道真は去っていった。

「さて、俺も帰るとするか…」
翼を失った真済は、つむじ風を呼ぶ。
しかし、以前のように風に乗って帰る力は、もはやない。

つむじ風の中、その体は細かい
破片となって、吹き散っていく。
「風よ、運べ… 我が魂を… 愛宕山へ…」

風が吹き去った後、そこに真済の姿はなかった。
そして、平安京の長い夜は、ようやく明けたのである。



「死んだ… 時平が死んだのか…」
帝の衝撃は、ただごとではなかった。

幼いころは相談相手、良き兄。
即位してからは、呼吸のピタリとあった
最も信頼できる臣下、パートナー。
そして… 親友でもあった男。
血縁関係がないにも関わらず、これほど理想的な
君臣の交わりは、日本史上あまりない。

そして… 道真の次のターゲットは。
「まちがいなく、朕(ちん)であろう」
道真は、きっと戻ってくる。
その時こそ、復讐の毒手は、この
御所まで伸びてくるであろう。

時平の後を継ぎ、弟の忠平が氏の長者を継ぐ。
4月9日に、権中納言に昇進。
かつて伊勢の恋人だった仲平という兄がいる
のだが、それを差し置いての昇進だった。
それだけ優秀だったのだろう。


一方、中務卿の邸では。
藤原淑子の霊は、あの後すぐに消滅してしまった。
「まったく、死霊をはり倒すなんて… 
でもまあ、これであなたの寿命は大丈夫でしょう」
八重も、あきれ顔である。

が… 均子が、高熱を発して倒れてしまう。
「見てしまったんです、私も… あの死霊の姿を…」
「姫さま!」
「私は、伊勢ほど強くないから… もうダメね…」


死の影は、聖宝にも迫っていた。
山を下り、深草にある普明寺(ふみょうじ)で、療養をする。
ここは現在、京阪本線藤森駅の東、深草田谷町にある
沓塚(くつづか)陵墓参考地となっている。
醍醐帝がわざわざ見舞いに訪れ、道真
撃退に尽くしてくれた礼をのべた。

この年のはじめ、聖宝は東寺で、「後七日御修法
(ご・しちにち・みしほ)」を執り行った。
これは、国家の平安や天皇の健康、五穀豊穣
などを祈願する法要で、承和元年(西暦834年)
に空海が始めて以来、今日まで続く行事だ。
この時の聖宝は、まだ力強い生気があったが…

「どうやら、今生(こんじょう)でやる
べきことは、やりつくしたようです」
醍醐寺の創建、吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)
の復興、修験道のスタイルの確立…
聖宝の業績の多くは、今も日本の文化として、
世界遺産として、豊かに残っている。
ホラ貝のブオーという音を聞く時、
ぜひとも思い出してほしい。

7月6日、聖宝逝く。
高弟の観賢は、実の父も同然の
老師を、涙をこらえて見送った。

かつて、故郷の讃岐(さぬき)から幼い
観賢を背負い、京の都まで、聖宝は
人間離れしたスピードで疾走した。
あの時の背中の広さ、温かさ… 
そして、とてつもない速さよ…


師を失ったのは、観賢だけではない。
尊意もまた、師匠である天狗が自分を助け、
そして人知れず消滅したことを知った。
聖宝のように、帝から感謝されることもない。
道真と同じ、異形の化物だから…

おのれの無力さに唇をかみしめ、
尊意は1人、真済を弔う。
全身に火傷を負っており、背骨や
頸骨にもダメージがあった。

次に道真が襲来した時、自分は
もう立ち向かえないだろう。
真済も、聖宝も、もういない…


内裏は別として、都のほとんどあらゆるところに落雷、
死者や焼け落ちた家屋は、数が知れない。
人々は、あらためて道真の怨念の
恐ろしさを知り、戦慄した。

ただ1ヵ所… 菅原家の所領である「桑原」
という土地だけは、1発も落ちなかった。
これ以後、雷が鳴ると人々は、「くわばらくわばら」
と唱え、雷よけのまじないとしたという。
後世これが転じて、身近で誰かの怒りが爆発すると、

「ムキー! ヽ(`Д´#)ノ いいかげんになさい!」
「ひー くわばらくわばら><」
こんなふうに使われるようになった。

現在、この「桑原」は京都市中京区桑原町
であり、島津製作所の敷地となっている。
平成14年(西暦2002年)、ここに勤める
田中耕一さんが、ノーベル化学賞を受賞。
(生体高分子の同定および構造解析の
ための手法の開発… だそうだ)