天神記(四)





5、 サンダーストーム




「老師!」
「近よるな! はまりこんだら2度と抜け出せんぞ!」
2人の弟子は、思わず足を止める。

泥人間の顔をよく見れば、それは
源信(みなもと の まこと)…
応天門炎上事件に関わり、泥沼にはまり
こんで変死した左大臣である。
藤原一族に暗殺されたという説も
あるが、真相は定かではない。
黒雲坊の操る死霊となって、再登場である。

「聖宝か… かつて我が師・鳴神が雨を
止めた時、お前はどこにいたのだ?」
冷笑を浮かべ、泥まみれの老僧を見下ろす黒雲坊。
「う…」
「隠れてたのだろう? 鳴神さまとの対決を避けて」

図星だった。
あの時の聖宝は、鳴神に恐れを
なし、山にこもっていたのだ。
だからこそ、弟子の「雲の絶間」こと妙子が、
みごと鳴神をたぶらかし、雨を降らせること
に成功した時は感服し、惚れ直しもした。
「お前ごとき、鳴神さまはおろか、
この黒雲坊の足元にも及ぶまい」

「老師への侮辱は許さん! この外道坊主が!」
いきり立つ観賢を、こげ臭い煙が包みこむ。
「うっ これは… 肉の焦げる匂い…」
護摩壇から、2すじの炎が立ち昇る。

大きく弧を描いて、観賢の背後に着地した2つの
炎の塊は、たちまち、2人の人間となった。
全身焼け爛れてケロイド状になった、見るも無残な2人…
「紹介しよう。応天門事件の主犯、伴大納言こと
伴善男(とも の よしお)。そして、その家人で
実行犯、生江恒山(いくえ の こうざん)」

「あつい… たすけて…」
「からだがやける… くるしいい…」
善男が観賢に、恒山が淳祐に、すがりついてくる。
煙の立ち昇る真っ赤に焼けた肉塊に
抱きつかれ、観賢・淳祐は絶叫。

「おま…」
聖宝の叫びも、かき消えた。
泥人間によって、泥沼に引きずりこまれたのである。
醍醐寺は今、地獄と化した。



都を守る、九重の結界。
第1の結界は、都の四辺から1km外側を、
見えない柵となって囲んでいる。
任天堂本社のあたりを通っていたので、
仮に「ニンテンドー・ライン」と呼ぶ。
低級な動物霊を防ぐ、霊的な鉄条網である。

その200m内側に、新たに敷かれた防衛線が第2の結界。
特定のターゲット、つまり「乞食のような男」と
「魔風大師」を検知するためのもので、
他の魔物には、なんら効果はない。
これを「ニュー・ライン」と呼ぶ。

第3の結界は、平安京の入口・羅城門(羅生門)を
起点に、都の四辺に沿っている。
これが「羅城門ライン」、本格的な霊的シールドだが、
高度な能力をもった魔物なら、突破できるようだ。
なお物理的には、大陸の城壁都市とちがい、
平安京は羅城門左右にわずかに城壁がある
のみで、他はすべてオープンになっている。

都の庶民を守ってくれるのは、ここまで…
この後は、朱雀門を起点に、大内裏(官庁エリア)
を囲む第4結界「朱雀門ライン」。
内裏=御所を囲む、建礼門を起点とした
第5結界「建礼門ライン」と、そのすぐ
内側の第6結界「承明門ライン」。

現在の京都御所は、江戸時代末期に再建されたものだが、
北東の角の塀に、猿の像が隠されている。
これは第5結界の名残なので、京都に行ったら見てみよう。
京都御所 公式サイト 
http://sankan.kunaicho.go.jp/guide/kyoto.html

第7結界は、天皇の御殿である清涼殿に、
第8結界は天皇の御寝所の畳に、
そして、最後の第9結界は…



道真は今、人気のない朱雀大路(すざく
おおじ)に立ち、朱雀門を見ている。
門の前には、先ほど自決したばかりの
中臣 霊道の英霊が、ふんばっている。
いかなる霊も、ここから先は入れまいぞ… 
という気迫をみなぎらせて。
しかも、その背後の第4結界から
先は、かなりやっかいそうだ。

「まあいい… 内裏は後でゆっくり料理
するとして… 今宵の獲物は」
不気味な笑顔を浮かべ、東へと向きを変える。
目指すは左京一条、「本院」の邸!


時平は、よろめきながら寝床を這い出すと、庭に出た。
雷鳴荒れ狂う天を、キッとにらみつける。
「道真よ!」
雷鳴をも圧し、響きわたる声。

「あなたは生前、右大臣であった! 
怨霊になったとはいえ、左大臣である私に、
礼をつくすのが道理というものだろう!」
ここは時平の生涯で、一番かっこいい場面である。

「時平よ」
地の底から響くような、重々しい声。
見上げると、屋根の上に… 道真。
「今でも俺を右大臣と思うておるのか…? 
大自在天神の力をこの身に宿し、地獄の王と
なった、この菅原道真を… 笑止千万なり!!」

道真の巨体が宙に舞い、時平めがけて落下する。
ドオオォンと地響を立て着地、その足の下では…
蛙のように押し潰された時平が、ピクピクと痙攣している。
庭一面に血の池が、静かに広がっていく。

「チィッ… 簡単に殺しすぎた… この瞬間のため、
怨霊にまで成り果てたというのに…
まだだ… これではまだ、俺の怒りは収まらぬ!!」
道真の叫びが雷と共鳴し、都に降り注ぐ。
さらに10数人の犠牲者が出た。


そのころ、本院・北対では。

恐怖と混乱のただ中、浄蔵は思いあたった。
この地獄の亡者どもは、恐れたり、
退治したりするような対象ではない。
あわれむべき者ども… 
慈悲の心をもって、救うべき者たちなのだ。

国経は別として、他は若くして死んだ女人たちの霊である。
つらかったろう… 苦しかったろう…
浄蔵は心から女たちの成仏を祈って、
法華経を唱えはじめる。
その美しい読経は、地獄のような空間を一変させた。

腐乱死体の群れは次々に、若い娘の姿に戻った。
「ありがとうございます、浄蔵さま…」
涙を流しつつ、消えていく。

「おのれ… だが、この忌まわしい
餓鬼だけは、地獄へ連れてゆく!」
いぜん腐敗した姿の国経が、4才の敦忠に襲いかかる。
その国経に飛びついたのは、やはり
腐れきったままの北の方。
わが子を守る、母の愛…

「浄蔵さま、その子を… お願いいたします!」
もつれ合う2体の腐乱死体は、地獄の業火に包まれ… 
消滅した。
死霊の気配が消滅したのを感じ取り、
浄蔵は正殿へとかけ戻る。


庭は赤黒く血に染まり、吐き気を
催すような修羅場となっていた。
すでに、道真の姿はない。
時平はもはや、原型を留めていなかった。

「左大臣… おぇっぷ…」
あまりの惨状に、浄蔵は立っていられない。
もとより、人間が怨霊にかなうわけないのだ。
だが、あの方なら… 尊意どのなら… 
なんとかしてくれるはずだったのに…


そのころ、比叡山では。
3度目の使者を前に、尊意はうなずいた。
「参りましょう」



道真はブラブラと、朱雀大路へ戻ってきた。
「さて、次はどいつを地獄に落としてくれよう… やはり…」
朱雀門の方へ、向き直る。
「…帝か!」

その時。
何かが炸裂したように、路上で白い煙が噴き出した。
「……!?」
道真が目をこらすと…

煙の中から現れたのは。
巨大な蝦蟇(ガマ)と、その上に
すっくと立つ法性坊尊意の姿。

「我、来る也(きたるなり)…!!」

「貴様…」
道真の血走った目に、憎悪がたぎった。
「ついに来たか、法性坊尊意… 
いや、比叡山の次郎坊天狗よ!」

あの渉成園(しょうせいえん)での夜…
天狗の強烈なアッパーから道真をかばい、
尊意が吹っ飛ばされたあの夜から… 
30年の月日が流れていた。

「なんという不思議な因縁、なんという非情な運命… 
命の恩人でもあり、我が師でもあるあなたを、
この手で葬らねばならぬとは…」
静電気のパチパチはぜる、異様な
サイズの拳を振りかざす道真。

「だが… それもまた愉快」
牙をのぞかせ、ニヤリとする。

ついに、宿命の対決の時は来た。