天神記(四)
4、 悪霊総進撃
上空をおおう黒いガス体から、息つく
間もなく、雷撃が放たれる。
都の北西、如意ヶ岳(大文字山)の森に落雷、出火。
燃え上がる山肌が、都を妖しく赤々と照らす。
火薬のなかった時代、稲光にともなう雷鳴は、火山噴火と
ともに、人間が耳にする最もすさまじい爆音であったろう。
都の人々は、異常なまでの今夜の落雷に、
鼓膜も張り裂けんばかりであった。
「本院」の邸では、藤原時平が病に臥せっていた。
脂汗をかいて、うなっている。
そばで一心に経を誦(ず)しているのは、若い青年僧。
美しく、心癒される声であった。
後に、「声明(しょうみょう)」という仏教
音楽の大家となる浄蔵、この年19才。
しだいに、時平の息が安らかになっていった。
心なしか、雷鳴も収まってきたように思える。
と、その時。
心臓を切り刻むような、女の悲鳴が。
「北の方、でしょうか…」
時平が目を開いた。
「浄蔵どの。ここはいいから、妻の
ようすを見てきてくれないか」
「しかし、左大臣…」
ここを離れれば、道真の怨霊が襲ってくるかもしれない…
「いいのだ、行ってくれ。俺は道真などに負けない」
「…承知しました」
早足で渡り廊下を、「北対(きたのたい)」へと急ぐ。
北対とは、正殿の北側にある、本妻が住む御殿。
本妻のことを「北の方」というのは、これによる。
そこで浄蔵が見たものは…
部屋の片すみで、失神している乳母…
4才になる男の子(藤原敦忠)を、
守るように抱きかかえている。
部屋の中央で、髪をふり乱し、錯乱している北の方。
「大納言さま… お許しをーッ」
ねっとりした空気と、いやな匂いが漂っていた。
(いる… この部屋に、我々、生きた
人間以外のものが…!)
気を集中すると…
吐き気をもよおすような姿が、見えてきた。
腹が膨らみ、ところどころ肉が腐りウジの湧いた、
おぞましい姿の大納言国経(くにつね)。
かつて時平に若い妻を奪われ、無念のうちに死んだ男…
「左大臣に… 女を献上つかまつる…」
腐敗した顔を歪ませ、死霊は笑みを浮かべた。
見れば、死霊は国経1人ではない。
青緑に変色し、髪も抜け、眼球が垂れ下がり…
それでも、かつては若い女だったろうと思われる体型の…
腐乱死体の群れが、闇にうごめいている。
さすがの浄蔵も、腰を抜かして吐きそうになった。
「さあ… この美しい女たちを、左大臣に…
もう、北の方など、見向きもされまい」
ゴボッゴボッ… と、ゲロを吐くような笑い方をする国経。
「が… それでは、お前が気の毒だ…
かつて私を見捨てた憎い女だが、左大臣に見捨て
られては気の毒… お前も、美しく粧ってやろう…」
国経の手が、北の方の腕をつかむ。
つかまれた白い皮膚と肉が、
たちまち腐ってウジが湧く…
「ヒィーーーーーーーーーーーッ」
死霊の女たちがよってたかって、着物を
はぎ取り、髪を引き抜き、眼球をほじくる。
北の方は、生きながらにして…
いや、すでにショック死していたが…
腐乱死体となった。
浄蔵はひたすら御仏の加護を祈っていたが、
自分がなんとかしなければ、時平の息子
(敦忠)も危ない… と、気がついた。
だが、死霊軍団の放つ霊気は、あまりにも圧倒的で…
国経だけではない、道真が召喚した死霊の
軍勢が、都のあちこちをさまよっていた。
「白梅殿」の邸にも、幼い隈麿と紅姫の姿が
チラチラ見えたり、笑い声だけが聞こえたり…
「父上は生き残った我々をも、呪わん
としてらっしゃるのか…!」
3年前に土佐から戻った道真の長男・高視
(たかみ)は、高熱を発して倒れてしまった。
土佐に流されている間、髪が半分ほど白く
なってしまった34才の高視だが、今夜の
恐怖体験で、完全に白髪と化した。
4年後に寿命が尽きる。
中務卿の邸には、藤原淑子(よしこ)の霊が出現した。
後ろから子供の霊が首を絞めている、あの姿である。
「失礼!」
八重がとっさに、自分の小袿(こうちぎ)を投げ、
伊勢と均子(まさこ)に、頭からかぶせる。
「あれを見てはいけません! 寿命が奪われますよ」
こんな時にも、冷静で頼もしい八重の声。
伊勢は均子を強く抱きよせ、小袿の下、ちぢこまる。
「ほう… お前の寿命はどうなってもいいのかえ?」
死霊が、苦しげな声を絞り出す。
「私の寿命を奪ってくださるなら、大歓迎…
ところで、尚司の淑子さまとお見受けしますが?」
「その通り… 菅公に地獄に引きずりこまれ…
協力すれば、解放してやると…」
思えば、菅原道真が出世できたのは、
宇多帝が重用してくれたからである。
宇多帝は淑子の養子であり、彼女の
策謀によって皇位につくことができた。
いわば淑子は道真にとって、恩人の
恩人に当たるわけだが…
死霊として甦らせ、己の復讐の手先に
するとは、あまりの仕打ちだ。
「温子がこのような娘を産まず、男子を産んでおれば…」
均子を指さす。
「温子の子が帝になっておれば…
父君に逆らいたてまつることもなかったろうに…
菅公を左遷するような非道も、なさりはしなかったろうに…
すべて、この娘が生まれてきたのが災いのもと」
均子の身が固くなった。
「姫さま! 耳をお貸しになってはいけません!」
伊勢は必死に、均子の愛らしい耳をふさぐ。
しかし、均子の震えと涙は止まらなかった。
そのころ、吉田神社では。
神人頭の太岐口獣心が手下を集め、都に
潜伏した道真の捜索を命じていた。
が、神職の中臣
霊道(なかとみ の たまみち)が止めに入り、
「生身の人間に、怨霊の相手は無理であろう。
手前が魂魄(こんぱく)となって、宮城をお守り
申し上げる。後のことはまかせたぞ、獣心」
そう言うと、剣を抜いて、首をかき切った。
鮮血が、10mもの高さに噴きあがる。
「道真えええッ! これ以上の勝手はさせまいぞ!」
と叫ぶや、ドウッと倒れ伏した。
「お見事…」
獣心は天を見上げ、飛び去っていく霊道の魂魄を見送った。
そのころ、比叡山では。
朝廷からの2度目の使者も尊意に会えず、
空しく山を下っていった。
都の南、醍醐寺では。
すっかり老いたうえに、猪と衝突して負傷した聖宝が、
無理を押して護摩壇(ごまだん)の前に座っていた。
「老師! どうかご無理をなさらぬよう…」
見舞いに訪れていた、愛弟子の
観賢と淳祐が制止する。
「止めるな! このままでは都が…
道真を調伏せねば…」
護摩を焚くと、もうもうと黒い煙が立ち昇る。
その黒煙の中に… 何かいる!
「むッ 何者だ!?」
「ごきげんよう、諸君」
総髪(長髪のオールバック)で黒衣をまとい、
上品だが悪魔的な微笑みを浮かべた男。
「我が名は黒雲坊… 我が師・鳴神に召喚され、
君たちを地獄へと招待する」
かつて魔風大師に体を乗っ取られた、
鳴神上人の高弟・黒雲坊。
いまだ体の動かぬ師に代わり、
死霊となって登場である。
「道真の邪魔はさせないよ… 足元を見てごらん。」
「見るな!!」
聖宝の制止も間に合わず、観賢と
淳祐は目を落としてしまう。
そこには、泥沼が広がっていた…
2人の弟子が認識した「現実」は、師の聖宝にも感染…
「うおッ」
泥沼から「何か」が飛び出し、聖宝にからみつく。
黒々ネットリと、泥の雫をたらすその化け物は、
人間のような姿をしているが…
「老師ーッ!!」