天神記(四)
3、 平安京SOS
「平中」こと平貞文(たいら の さだふみ)が、
「侍従の君」に手痛くフラれ、もう4年になる。
あれ以来、すっかりフヌケになった平中は、
都の南のはずれ近くにひっそりと居を構え、
押しかけ女房と下女の3人で暮らしていた。
この日も歌作りにはげむでもなくゴロゴロして
いると、すさまじい轟音、そして悲鳴が。
「大変ですよ!」
押しかけ女房が、かけこんできた。
「斜め向かいのお邸のご主人さまが、
牛車でお帰りになったところに」
直撃が落ちたという。
車中の主人と、牛追いが即死。
「斜め向かいのご主人」というのは、
内裏で書記を務める小役人。
仕事中に屁をこいてしまい、それが左大臣・時平の
笑いのツボにストライクして大変なことになった、
あの時の書記である。
「ふーん。そうなの?」
無関心な平中にあきれて、女は
自室に引っこんでしまった。
この女は、かつて平中が侍従にアタックした際、
「本院」への潜入をサポートしてくれた元・雑仕女。
と…
耳をつんざく、すさまじいエネルギーの炸裂に、
小さな家が地震のように揺れる。
さすがの平中も飛び起きた。
「おーい… 今のは近かったな。大丈夫か?」
返事はない。
女の部屋に行ってみる。
女と下女の2人が、倒れていた。
天井には大穴が開いて、雨が吹きこんでいる。
平中はがっくりとうなだれ、声もなく泣き始めた。
家のすぐそばを「第3の結界」が通っていること、
たった今、道真がその結界を突破したことを、
平中は知らない。
都の北西、御室(おむろ)の仁和寺(にんなじ)では。
宇多法皇と、真寂(しんじゃく)法親王(ほっしんのう)が、
息をひそめていた。
ここはまだ落雷はないが、都の上空でしきりに
閃く恐ろしい光は、イヤでも飛びこんでくる。
「やはり、道真の怨霊でしょうか…」
真寂は法皇の第3皇子であり、出家する
前は斎世(ときよ)親王といった。
道真の養女・苅屋(かりや)を妻に迎えたために
とばっちりを食い、出家するハメになった。
というより、真寂と苅屋の逢瀬こそが、
道真破滅の序曲となったのである。
「恐らくは…」
遠雷の音を聞きながら、法皇は目を閉じる。
あの有能で博識だった道真が、このような
恐ろしい災いとなって帰ってくるとは…
「こんな時に、観賢(かんげん)がいないとは…」
仁和寺別当(管理責任者)の観賢は、弟子の
淳祐(しゅんゆう)を連れ、醍醐寺(だいごじ)へ、
師の聖宝(しょうぼう)を見舞いに行っている。
このプロレスラー並みの体格の高僧は、
山で猪と正面衝突、大怪我をしたのだ。
かつての聖宝なら、猪など弾き飛ばしていたろうに…
「聖宝も老いたな…」
「聖宝が寝こんで、観賢も不在となると、
残念ながら真言宗の寺院では」
道真を調伏できるほどの僧はいない、ということになる。
「調伏は天台宗の… 比叡山の仕事に…」
「比叡山の法性坊尊意は、道真と師弟
の間柄だった… つらいだろうな」
「今ごろ、朝廷は使者を送ったでしょうか」
まさしく今、尊意を召喚する最初の
使者が、比叡山を目指していた。
そのころ、御所では。
青ざめた醍醐帝を中心に、参議の藤原
忠平をはじめ、諸大臣が並んでいる。
左大臣の時平は、数日前から体調が
思わしくなく、自宅で療養中。
天皇の補佐をする中務省の長官・敦慶(あつよし)親王、
オカルトに詳しい文章博士の三善清行、そして陰陽師の
賀茂忠行(かも の ただゆき)といった顔ぶれも見える。
今年25才になる、この無表情な青年陰陽師こそ、
かつて陰陽頭の弓削是雄(ゆげ の これお)が
スカウトした天才霊能少年… 鬼丸である。
深い海のような不思議な色をたたえた瞳、
ガラス細工のように端正な面立ち。
「第3の結界は破られました…
すなわち、都に侵入したということ」
抑揚のない声で、こともなげに言う。
「おいおい、やけにあっさり言うじゃないか。
任せておいて大丈夫なんだろうな」
ひと月ほど前…
忠平は、吉田神社の太岐口獣心(たきぐち
じゅうしん)と深夜に面会。
かつての時平と同じく、藤原摂関家の
隠された使命について聞かされた。
どうやら、兄・時平の後を継ぐ者と見なされたようだ。
同時に、御所を守る九重の結界の管理を、
賀茂忠行に委ねると告げられる。
(これまでは、吉田神社で行ってきたらしい。)
こういった決定はすべて、吉田神社にスタッフを派遣して
いる春日大社の上層部の、そのまた背後にいる謎の
人々によって決められるので、忠平は口を挟めない。
「第3の結界を破る魔物は、それほど珍しくありません。
かつての真済阿闍梨(しんぜいあじゃり)も、やすやすと
侵入したでしょう。しかし、常に霊的な負荷を受けます。
そして侵入者の情報が、こちらに伝わるのです」
「や、やはり道真なんですか? 侵入した魔物は?」
清行は、信じたくなかった。
かつてライバルとして追いかけた男が、
怨霊となって帰ってくるとは…
しかし賀茂忠行は、清行のそんな
気持ちには、まったくお構いなしで、
「死体を寄せ集めて作った肉体に、恨みを残して死んだ
人間の魂魄が封印されています。すさまじい怨念です。
まちがいなく、道真公かと」
「道真は自分を陥れた者だけでなく、だれかれ
見境なく、祟りまくるつもりだろうか」
敦慶親王は、若い妻の心配をしていた。
そして、妻に寄り添うあの方… 伊勢…
「とりあえず、最も危いのは左大臣かと」
忠平は唸った。
我が兄、左大臣・時平…!
だが、心の奥底には…
いっそ、道真に祟り殺されてしまえばいい…
という声も潜んでいたのであった。
「左大臣のお宅には、愚息の浄蔵が参っております。
必ずや、左大臣をお守り申し上げ…」
三善清行の八男、浄蔵(じょうぞう)。
父に似ず、涼しげな風貌の好男子で、
何より声が美しいと評判。
そして生まれ持った霊能力があり、少年のころ
宇多法皇に師事して出家。
密教界の若手のエースと目されているが…
紀長谷雄(き の はせお)の邸では、雷の音を
ぼんやりと聞いている長谷雄がいる。
「そうか… 道真が来てるのか…」
いまだに、「冥土さん」を失った傷が癒えない。
かつての親友の、あまりにも変わり果てた
姿での再来にも、心が動かない。
息子の淑望(よしもち)が、心配そうに見ている。
古今和歌集の「真名序(漢文で書か
れた序文)」を執筆した人物だ。
「父さん… 道真公に会いに行こうなんて
思わないでくださいね… 実は先ほどから…
梅王丸の姿が見えないんですよ。まさか…」
雨は上がった。
が、相変わらず黒い雲が垂れこめ、
異様にムシムシする。
地上にたっぷりたまった湿気は、
上昇気流にのって舞い上がり…
はるか上空で冷やされ、氷となって摩擦
しあい、膨大な静電気を蓄積する。
長谷雄の家の牛追い、梅王丸は
たまらずに邸を飛び出していた。
全身を歓喜に震わせ、雲に向かって叫ぶ。
「お帰りなさいまし、道真さま!
お待ちしておりました…
さあ、悪党どもに天誅を!」
雨が上がって後の、1発目が炸裂した…
梅王丸の振り上げた拳に。
一瞬にして、梅王丸は黒い炭素の柱と化していた。
都のはずれの小さなお堂で、1人の
老尼が、必死の祈祷をしていた。
道明寺の住職、覚寿(かくじゅ)である。
百姓に化けて大宰府まで行って道真を助け、
ついでに銘菓「梅ヶ枝餅」を発明、道真の
死後は都に上って、彼の菩提を弔っていた。
今、意を決して、道真を調伏する祈祷を行っている。
かたわらでは薄幸な一人娘の苅屋が、
やはり一心に数珠をたぐっている。
何か、いぶりくさい。
煙が、漂ってきた。
お堂の隣の神木に落雷炎上、お堂にも燃え移ったのだ。
「苅屋! 逃げなさい!」
振り返りもせず、仏壇に向かったまま覚寿が叫ぶ。
「お母さまは?」
「私はこの命をもって、道真さまをお諌めいたしまする!」
「なら、私も! 元はといえば…
こうなった大もとは、私なのですから…」
2人とも炎の中、逃げようともせず、ひたすらに祈り続ける。
「なんという愚かな娘か!」
だが覚寿の口元には、珍しく
優しげな笑みが浮かんでいた。
「…いいでしょう。最後くらい母子
仲良く、ともに逝きましょうぞ」
苅屋の顔にも、幸せそうな表情が浮かんだ、その時…
2つの命は、紅蓮の炎に包まれた。
御所に、比叡山へ送った使者が戻ってきた。
「なんと! 尊意が来れないというのか!?」
京の都、大ピンチである。