天神記(四)





2、 九重(ここのえ)




その日、宮中のある一室で、「古今和歌集」を
編纂したメンバーが再び集結していた。
新たに集められた秀歌を加えて、
完全版にするためである。

紀貫之(き の つらゆき)、壬生忠岑(みぶ の ただみね)、
凡河内躬恒(おおしこうち の みつね)… 
3人のみであった。

2年前に没した紀友則(き の とものり)の席が、
ぽつんと空いていて、なんとも寂しい。
「友ちゃん…」
いとこの貫之は、寂しさもひとしお。

この日は、伊勢の詠んだ、温子に捧げた
惜別の長歌「おきつ波…」などが選ばれ、
「あれから4年… ずいぶん、いろんな人が亡くなったね」
人の命のはかなさに、しんみりとする3人であった。

「おい、見ろよ… まだ夏には早い
のに、あんな雲が湧いてるぞ」
空をぼんやり眺めていた忠岑の指さす方には、
なるほど巨大な入道雲が立ち昇っていた。
まるで、都を飲みこまんとする巨人のごとく…


入道雲、すなわち積乱雲は、主に地上と上空の温度差に
よって生じる上昇気流が発生の原因である。
巨大な入道のような姿で立ち昇った白い水蒸気の
固まりは、頂点が成層圏に達したところで上方向へ
の成長が止まり、今度は水平方向に広がっていく。
この時点で、雨をたっぷり蓄えた、
黒々とした不吉な塊に変じている。

地上から上昇気流によって運ばれた水分は、
遥か上空で急激に冷やされ、氷の結晶となる。
この結晶が気流の乱れの中、互いに
ぶつかり合い、静電気を発生させる。
不気味な黒い雲は、膨大なエネルギーの
静電気を蓄積、ついに地上に向かって放電。
稲妻が走った部分の空気の温度は、
2万〜3万度にも達するという。



南から都に向かっていた男は、すさまじい
轟音に、思わず足を止めた。
だいぶ近いな…
「ひと雨来そうだし、こいつはどこかの
家で休ませてもらった方がいいようだ」

男はやせ細った老人で、「死人烏
(しびとがらす)」と呼ばれている。
根黒衆(ネグロス)の渉外係である骨阿闍梨
(ほねあじゃり)の手下で、かつては偵察や
情報収集、使い走りを担当していたが…
年老いた今は、暗殺仕事の代金
回収くらいしか役目がない。

「じいさん、ふところにたんまり銭をかかえ
とるようだが。こっちによこせや」
雷に気を取られていたら、物盗りに囲まれてしまった。
昔だったら、自慢の脚でスタコラ逃げたものを…
「年は取りたくないものじゃ」

7年前、殺しの仕事を目撃され、脚を刺された
あげく、池に落ちて死んだ安梅…
5年前、酒を飲んで無頼漢たちとケンカ、
殴り殺された業苦(ごうく)…
先に逝った仲間たちを思い出し、
俺は死に時を逃してしまった…
老いぼれて、無様な姿をさらすハメになった… 
と、悔やむ死人烏であった。

なんにしろ、せっかく集金した「殺しの報酬」をむざむざ
奪われては、骨阿闍梨の前に顔を出すこともできない。
死人烏は、短刀を抜き放つ。
激しく、雨が降り始めた。
「1人2人は道連れにしてやる。覚悟せい」

そのすさまじい気迫に、物盗りたちも
思わずひるんだ、その時… 
光と音が同時に、短刀めがけて落ちてきた。
直撃…
10億ボルトのエネルギーで、死人烏の
上半身はザックリと裂けていた。

あまりの轟音に、魂魄が消し飛んだ物盗りたち。
異常な高圧電流を帯電した死人烏の
死骸から、第2次放電が走る。
至近距離にいた物盗りたちは、地を
走る雷サージの波に飲まれた。

2人が心臓麻痺、1人が失神、1人が大火傷。
全ては、一瞬のできごと…
これが、開幕を告げるファンファーレだった。



大和の国、唐傘山の頂より、はるか
北の空を覆う黒い雲が見える。
「あんなどでかい雷雲は、100年に
1度あるかないかだぜ」
乞食のような男が言った。

「それが… 道真公が、あわただしく
出立した理由ですか」
異形の鍛冶師・天国(あまくに)は、
少しがっかりしたようだった。

彼は、まだ完全体となっていない道真が
なぜ今、都に向かうのか問うたのである。
「てっきり、道真公は自由自在に雷を呼べるのだと… 
少なくとも、そうなるよう必死に修行して
るのだと思っていました… それが」

ただ単に自然発生した雷雲に乗じて都に乗りこみ、
どーだ、雷が来たぞー!
と、騒ぐだけというのだから… 
拍子抜けもいいところである。

「おい、鳴神。こいつに説明してやれ」
2人の足元には、筋骨たくましい
体に爬虫類のような頭がのった、
奇怪な人物が横たわっていた。
しかも頭部からは、鹿の角らしき
ものが1本、生えている。

「お若いの… 言っておくが、人間がどんなに
がんばったところで、天や大地の動きを
操ることはできない。どんなに祈ったって
雨は降らないし、雷も呼べない」

「しかし、それをやってみせる高僧や
行者はいますよ! 空海とか…」
「天を操ることはできないが、人間の意識を
操ることはできる。天気を読んで、雨の降り
そうな頃合に雨乞いの儀式を行い、あたかも
自分が降らせたように見せかけるとか…」

「すべての法力や妖術が、そんな子供だましだと? 
だとしたら、私はなんために命がけの修行を」
「まあ待て。原理は単純だが、決して
子供だましではない。なぜならば…
この世界の少なくとも半分は、人間の
意識が作り上げたものだからだ。
意識を操るということは、世界を操ることでもある… 
それが、因果の逆転!」

例えば、ここに道真がいる。
雷が落ちる。
道真が「雷よ、落ちろ!」と叫ぶ。
これは単なる、落雷に合わせて
叫んでいる変なおじさんである。

「しかし、ここで人間の記憶… 意識に刻み
こまれた時間の流れを入れ替えてみようか」
ここに道真がいる。
道真が「雷よ、落ちろ!」と叫ぶ。
雷が落ちる。
「どうだね… 道真は、自在に雷を呼んでいるだろう?」

「うーん… でも、それはなんかインチキ…」
「インチキではない。全ての人間の記憶が、
このように修正されれば、それが現実だ。
そして、道真にはこれができる。まさしく、あの男は
自在に雷を呼ぶことができるのだ…
しかも、道真の力はこれだけではない」

道真には、「本物の雷」に合わせて「自前の雷」、
すなわち幻影の雷を呼ぶ能力があるという。
「この幻の雷は、本物なのか偽者なのか、
誰にも区別がつかん。恐らく道真本人にも、
己の法力で発現した幻なのか、因果の逆転で
呼び出した本物の雷なのか、判別がつくまい」
こうなると完全に、雷を自由自在に操る魔神である。

「ただ奴が都に入った後、どこまで能力を
使えるか… やってみないとわからん。
とうぜん、都にもそれなりの備えはあるからな」
乞食は、ごろんと横になった。
「宮中のことを、なぜ『九重(ここのえ)』
というか、知ってるか?」

天皇が生活したり職務についたりする場所を、
「皇居」「御所」「宮中」「禁裏」など、
いろいろな呼び方をするが、「九重」という
のが、最も雅やかだろう。

「確か… 唐の王城の門が、九重で
あることに由来するかと…」
「おう、なかなか教養があるな。一般的には、
そういうことになってる。しかし…」

乞食は、目を閉じた。
珍しく、苦く切ない過去を思い出すような、
人間的な表情をわずかに見せて…

八雲(やぐも)立つ 出雲(いずも)八重垣(やえがき) 
妻籠み(つまごみ)に 八重垣作る その八重垣を


「この歌が何か、わかるか?」
「もちろん! 私は出雲の出ですからね。
出雲では、3才の子供だって知ってますよ。
スサノオノミコトが、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治
した後、救い出したイナダ姫を妻にした時の歌… 
日本の和歌第1号ですよ」

「この歌に出てくる八重垣とは、単なる八重の
垣根のことじゃない。悪霊や魔物の侵入を防ぐ、
八重の霊的な結界のことよ… はるか古えの
出雲の王宮は、八重の結界に守られていた」
「というと… 平安京の九重というのは… 
出雲王宮より、さらに一重多い結界だと?」

「そうだ。出雲式の八重の結界をそのまま
取りこんだ上に、さらにもう一重…
その新たに加えた一重の結界とは、
俺と魔風を防ぐためのものよ」
牙をむいてニンマリとする。

「こいつがあるから、俺と魔風は都に入ることが
できねえ… いや、突破しようと思えばできるが… 
会いたくねえ連中に見つかっちまうからな」

「それは一体… あなたほどのお方が、
見つかるのを恐れる存在とは…」
だが、答えはなく… 乞食は、寝息を立てていた。



菅原道真は豪雨の中を一歩一歩、都へと近づいていく。
田畑をつっきり、家があってもブチ壊して通る。
都の南、約1キロ。

ここから直進すると、都の西洞院通
(にしのとういんどおり)に入る。
さらにまっすぐ行けば、やがて道真の
邸・白梅殿が見えてくるだろう。
つい先ほど都の北西・比叡山に出現したことを考えると、
あれは実体ではなく、念力で投射した幻像だったようだ。

突然、道真の耳… というか脳に、
Wiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii
と、不快な波長が飛びこんできた。

「なるほど、これが第1の結界か…」
低級な動物霊あたりなら、この波長をいやがって、
中に入ってこれないかもしれない。

が、道真はなんなくそれを乗り越え、進んでいく。
「久しぶりだな、京の都よ… 俺は帰ってきた… 
怨霊となって! 帰ってきたぞ!!」
道真の体内のマグマが燃え盛り、それに
答えるように雷鳴が轟きわたる。
ついに、この時が来た。

なお、現在この場所には、任天堂本社が建っている。