天神記(四)





1、 雷電(らいでん)




延喜(えんぎ)9年(西暦909年)、
第60代・醍醐(だいご)天皇の御世。

4月4日。
比叡山(ひえいざん)の深い谷間にある
僧坊、法性坊(ほうしょうぼう)。
「次郎坊天狗」と称される高僧・尊意は、
1匹の蝦蟇蛙(がまがえる)と戯れていた。

最近飼い始めたペットで、名を「地雷丸」という。
体長20センチ以上もあり、全身イボで覆われ
気味悪いことこの上ないが、目は妙に涼しげで、
天地の理(ことわり)を映し出す鏡のよう。

「冬眠から覚めて早々、こんなところに
連れてきて悪かったな、地雷丸。
だがな、これも前世からの因縁であろう」

地雷丸が、ピクッと動いた。
「客人のようだな… 入りなされ」

入ってきたものは、人間ではなかった。
いや、かつては「菅原道真」と呼ばれた
人間であったもの…
戸口に立って、じっと尊意を見ている。

デザイン的には菅原道真を参照したのだろうが、
2メートル以上あるその肉体は、顔の大きさから
何から、道真の1.5倍はゆうにある。
できそこないの菅原道真の着ぐるみ… 
のように見える、謎の物体だった。

しかも、その皮膚は全身ヒビが入っている…
ところどころ、漆喰がはげるように皮膚が
剥落して、中身が見えている。
中身… といっても赤い肉ではなく、オレンジ色に
熱するマグマのようなもの…
時折、皮膚に空いた穴からマグマが垂れ、
すさまじい熱気と異臭を放つ。

さすがの尊意も息を飲む、地獄から蘇った怪物だった。
「道真公… 怨霊になられたと
いう噂は、本当であったか…」

「お久しぶりです、尊意どの」
道真はロボットのようなぎこちない動きで
入ってくると、本尊の前に立った。

「あなたもご承知と思うが、私は冤罪で大宰府に
流され… このような姿になった」
その声はくぐもって苦しげ、叫ぶように
大きく、耳に不快だった。

「これから都に行き、時平に… 朝廷に、そして
この国に、恨みを晴らそうと思うのです」
「な…」

「その時! 朝廷は私を退散させるため、
あなたに加持祈祷を以来するはずだ」
まばたきをしない道真の目が、じっと尊意を見つめる。

「どうか、朝廷の使者が来ても、断ってほしい。
あなたに恨みはない。
あなたとは、争いたくないのです…」

尊意は目を閉じ、生前の道真のことを思い出していた。
気の毒な方だ… たしかに、この方に罪はないだろう。
「わかりました、そのようにしましょう。
使者が来ても会いません」
「尊意どの! ありがたい…」

「さらに重ねて使者が来ても、固く
断わって、お引取り願います」
「ありがとう」

「ただ、3度… 3度目に使者が来たなら… 
会わずにはいきますまい。
比叡山は、天皇の祈願所なのですから」
「………………!!」

道真は、本尊の前に供えてあるザクロを1つ
掴み取ると、牙をのぞかせ、かじった。
その汁を本尊に吐きつける… 
と、たちまち本尊は紅蓮に燃え上がった。

「なんと…!」
本尊から壁へ、天井へ、延焼して僧坊の
内はたちまち、灼熱のるつぼと化す。

「魔道に堕ちたか、道真公!」
尊意の指が、三角の印を組む。
「火の観法(かんぽう)・業火滅却!!」

僧坊の内は、元のままだった。
火など、始めから存在していない。
道真の作り出した幻影が「現実」となる前に、
尊意の意識が、火の存在を否定したのだ。

「昨日今日怨霊となった方に、そうたやすく
遅れは取りませんぞ。この法性坊尊意とて、
長く修行している身ですからな」

しかし、道真は勝ち誇ったような顔をしている。
「尊意どの、残念だが… 怨霊となった私の
1年は、あなたの80年に匹敵する」
部屋の隅にある、几帳を指さした。

「!!」
几帳の布が一部、黒く焦げていた。
道真の作り出した幻影を完全には否定しきれず、
わずかだが「現実」となってしまったのだ。
(怨霊、恐るべし…!)

道真は背を向けると、
「あなたには失望した… 都を滅ぼす前に、
まず比叡山を地獄絵図としよう」

そのまま、広がる夕暮れの闇に溶けこみ… 
「まかせたぞ、敏行(としゆき)…」



ほどなくして… 
法性坊からほど近い横川(よかわ)地区より、
阿鼻叫喚の悲鳴が上がった。
ここは、円仁が建立した根本観音堂を
中心としたエリアである。

ことの始まりは、夕闇とともに迫る、生臭い匂いだった。
1人の若い僧の顔に、何かがペタッと張り付いた。
「ふがっ なんだ、これは… と、取れぬ」

仲間の僧が見ると、それは… 1枚の生肉。
ステーキにすれば美味そうだが、この時代の
日本に肉屋さんはないし、ましてここは殺生
厳禁の天台宗の聖地・比叡山である。
「誰ぞ、戒を破って猪(しし)でも捕まえ、さばいておるのか?」

猪鍋の具材が、風に乗ってここまで飛んできた…?
しかし、血のしたたる肉片は、次々に飛来。
「ひいいッ」

肉だけでなくスライスされた内臓、
切断された指や耳や鼻も…
まるで吸血コウモリのように、僧たちの
体に群がり、吸着する。
モゾモゾと動く肉片の群れは、まさしく
彼らの生き血を吸っていた!

騒ぎを聞きつけ、相応が姿を現す。
かつて怨霊と化し、明子に憑りついた真済を調伏した
剛法師だが、すっかり老いて、やせ細っていた。
「これほどの妖気、ただの物の怪では
あるまいぞ。姿を見せい!」

浮遊する脳みそを中心に、無数の
肉片内臓が相応の前に集まる。
ひとつに合体したその姿は、かつての歌人・藤原敏行!
「秋きぬと…」の名歌を詠んだ敏行が、このような
おぞましい姿になろうとは、作者もビックリである。

「法性坊は… 尊意はどこにおる…? 
奴のせいで、わしは200枚の肉に切り刻まれ、
地獄の責め苦を味おうておる…」

「不浄な行いをもって、法華経を汚したそうではないか。
自業自得! とはいえ、気の毒なことではある。
このような、あさましい死霊に成り果てるとは…
最強の明王、大威徳夜叉明王(だいいとくやしゃ
みょうおう)の呪法をもって、浄化してやろう」

ちなみに、道真は「怨霊」と呼ばれても、
実際には(人工の)肉体をもっている。
それに対し敏行は、純然たる死んだ人間の霊。
道真の強力な脳と精神によってダウンロードされ、
横川の僧たちの精神に投射されているイメージ、
ソフトウェアなのだ。

今、相応は「大威徳夜叉明王」というソフトウェアによって、
「敏行」というウイルス?をデリートしようとしている。
「オン・シュチリ・キャラロハ・ウン・ケン・ソワカ! 
大威徳夜叉明王、死霊降したまへ!」
しかし、その直前。

大威徳夜叉明王が、相応に背を向けるイメージが浮かんだ。
「な…ッ」
これは、
「我の呪法では、この死霊を調伏できぬ…」
というサインである。

人間の精神の奥底に眠る、ドス黒い原始の闇… 
破壊神の黒いエネルギーが、横川を包んだ。
敏行は再び200片の生肉に分裂、相応、
その他おおぜいの僧たちに襲いかかる。
あたりは、地獄と化した。
比叡山の僧たちが絶対的な信頼を寄せる、
相応の呪法が通じない…
絶望と恐怖に、泣き叫ぶしかなかった。

(大威徳夜叉明王が通用しないとは… 
いったいどんな力が、この死霊を動かしてるのだ!?)
相応に群がった「人食い肉」どもは、次々と
老いさばらえた肉体を食い破る。
…その時…

根本観音堂のあたりで、ガスが発生した。
ゲゲゲエエエエェェと、奇怪きわまる
叫び声とともに、ガスの中から…
体長5メートルはあろうかという、
巨大な蝦蟇(ガマ)が出現。
新たなる怪物の出現に、ただでさえパニック状態の
僧たちは、発狂寸前であるが、しかし…

巨大蝦蟇は、ヌラヌラと光る舌を伸ばして、
片っぱしから「肉」を食い始めたのである。
相応も、体から肉どもが離れるのを感じた。

残った肉の軍団は、いっせいに蝦蟇に向かっていく。
しかし、脂でテリテリになった蝦蟇の
体表に、吸い付くことができない。

業を煮やした肉どもは、再び合体して藤原敏行となった。
すで半分ほど食われてしまったので、
ところどころ穴が開いている。
「おのれええ、このバケモノが!」

「相応さま」
蝦蟇から、尊意の声がした。
よく見れば、これはペットの地雷丸ではないか。
相応は、尊意に助けられたことに屈辱を
感じないわけにはいかなかった。

「この死霊を操っているのは、菅原道真です。
そして、道真の力の源は、おそらく… 
大自在天神(だいじざいてんじん)!!」
「なんと! 天竺(てんじく)の破壊の神か?」

大自在天神… それは、ヒンドゥー教における
破壊神シヴァ、世界を滅亡させる、恐るべき
黒い神マハーカーラ(大いなる暗黒)…
というと何やら恐ろしいが、ご存知七福神の
「大黒(だいこく)さま」のことである。

菅原道真のことを「天神さま」と呼ぶのは、
この「大自在天神」から来ている。
シヴァ神の乗物は牛であり、各地の天神さまに必ず
牛の像があるのは、そういうつながりもあるんです。

「しかしこの地雷丸は、黒い憎悪の念を
吸収する、異能力があるのです」
「肉片」の姿をとって襲ってくる敏行の恨みの念、
道真の暗黒破壊神のエネルギー。
それを食ってしまうとは地雷丸、恐るべき霊獣である。

「今や、敏行の霊気は半分に減りました。
今一度、大威徳夜叉明王の呪法を!」

大威徳夜叉明王、それは6面の顔、6本の腕、6本の脚を
もち水牛にまたがった、恐るべき姿の最強明王である。
現在では日本とチベット文化圏でしか
信仰されていない、異形の仏。
その出自をたどれば阿修羅や夜叉といった、
古代インドの鬼神に行き着くという。

常に仏敵に対するすさまじい憤怒の姿で現出する明王に、
今、聖なる比叡山を汚された相応の怒りがシンクロした。
死神さえ殺すという明王の6種類の武器が、
炎のミサイルとなって敏行を焼き尽くす。
密教僧の怒りの気迫が、恨みの念を打ち破ったのである。

「お見事です、相応さま」
大蝦蟇は再びガスに包まれ、姿を消した。

相応はがっくりと、膝をつく。
肉体も精神も、消耗し尽くしていた。
冷静に考えれば、千日間にわたって地球一周と同じ
距離を歩き通した修行僧の精神力が、敏行のような
自堕落な生活を送った者の念に負けるわけがない。
ここまで手こずったのは、ひとえに背後で操る
道真の、強大なエネルギーによるもの。
「道真、恐るべし…」

都が危ない。
道真は今、まちがいなく都に向かっている。
都の鬼門を守護するはずの比叡山を、
やすやすと通り抜けて…

都の上空で、稲光が光った。