天神記(三)





17、 朱雀門(すざくもん)の鬼




ついに、この時が来てしまった… と、伊勢は目を閉じた。
「ありがとうございます… でも、あなたさまの妻は、
内親王均子さま、ただお一人」
涙声で、きっぱりと言った。
「姫さまの幸せが、私の幸せなのです。もし今後、2度と
かようなことをおっしゃるなら、私はお暇をいただいて、
吉野あたりに引きこもります」

敦慶は、さびしげな笑顔を浮かべ、
「わかった。均子を幸せにするよ。
お前の幸せが、私の幸せなのだから…」
男らしく、あっさりと引き下がった。

その言葉に偽りなく、以後の敦慶は、
他の女のもとへ通うことはなかった。
ひたすら、均子の良き夫になろうと務めた。
そんな姿を見るにつけ、伊勢の敦慶に対する思いは
深く、強くなっていく…



さて、時が少し戻って、この年の初めごろ。

唐笠山で5年ほど横たわっていた道真は、まだ完全には
魂の定着していない体を引きずって、修行に入った。
魔風大師は、もう少し待つよう忠告したが、
燃え盛る復讐の炎が、それを許さない。

新しい肉体は手に入れたが、これだけでは
時平に復讐はできない。
この不死に近い、常人の数倍の頑丈さをもつ肉体で、常人には
決して真似のできない、過酷な修行に打ちこむ。
それにより極めて短時間で、密教の高僧を
遥かにしのぐ、高度な超能力が身につく。

かつての、天狗と化した真済の暴れっぷりを、
道真は思い出していた。
あの時は円珍をはじめ、天台チームが一丸と
なって戦い、なんとか倒したが…
あれ以上の超常の力を、なんとしても身につけねばならぬ。
思えばあの日、単なる一般人として事件に巻き
こまれた道真だが、まさか自分がこのような、
おぞましい姿になろうとは…
運命とは、恐ろしいものである。

もう1人、修行に打ちこむ者がいた。
道真とちがい、生身の人間… それも、片目片足。
毎日ボロボロになり、死の直前まで自分を追いつめている。
死とは何なのか、死の向こうに何があるのか、
見極めるかのような…
その名は、鍛冶師・天国。

なんのために、こんな修行をしているのか?
という問いには、ただ一言
「逢魔ヶ時(おうまがどき)…」
と、答えるのみだった。

逢魔ヶ時… それは、魔物に出会いやすい時間帯。
ふつう日の沈む直前、黄昏(たそがれ)時のことを指す。
英語で「トワイライトゾーン」、そういうタイトルのSF怪奇番組が
アメリカで作られたが、西洋でも黄昏時は「魔界が出現する
時間帯」という感覚があるようだ。
交通事故や飛行機事故も、この時間帯に多いらしい。

「この国に、逢魔ヶ時をもたらす… 
そのために、俺は生まれてきたのだ…」
それは、日本に魔界を出現させるということなのだろうか?



夏が来た。

時平の邸、「本院」にて、ある蒸し暑い夜。
伯母の淑子が… それが淑子だと気がつくまで、
しばらくかかったが…
見るもおぞましい姿で、時平の前に立っていた。

淑子は背に、子供をおぶっていた… 
というより、子供が張りついている、と言うべきか。
その子供自体も、水死体のような青ぶくれの顔をして
気色悪いが、あろうことか、後ろから淑子の首を
きつく締め上げているのである。
指が、淑子の首にめりこむほどに…

よく見ると、その子供は源益(みなもと の すすむ)だった。
陽成帝の遊び仲間で、相撲を取っていて
池に落ち、溺れ死んだ子である。
これがきっかけで、陽成帝は廃位となった。
すべては、淑子や基経の仕組んだ陰謀である。

背中におぶった源益の死霊に首を絞められ、
白目を向き、舌をダランと垂らして地獄の
苦しみを味わっている、淑子の死霊…
気の弱い人間なら、この姿を見ただけでショック死するだろう。

「かん… 菅公が… 地獄であなたを… 待っておりますぞ…」
1度聞いたら耳から離れない、絞り出すような
息苦しい声が、時平に告げた。
「やめろ! お前ら亡者に何ができる? 
俺を脅そうとしてもムダだッ」

源益の指が、さらにギューッと淑子の首を絞る… と、
だらしなく開いた淑子の口から、ブシャーッとイヤな匂いの
する水が、まるで消防車の放水のように、吹き出した。
直撃を食らった時平は、水を飲んでしまい、
呼吸ができなくなった。

呼吸が止まって、寝床の中でもがく時平を、
従者たちが必死に取り押さえる。
胸をさすると、どうにか気道が通じたようで、
やがて時平は目を覚ました。
汗がグッショリ、息が荒かった。
「夢を見ていたのか…」

だが。
自分を見下ろしホッとしている従者たちの背後に、
淑子が立っていた。
「もう… 1年ない…」
ゾッとするような死霊の声が、宣言した。



秋が来た。

紀長谷雄(き の はせお)、今年64才。
学生時代は菅原道真の悪友であり、社会人と
なってからは道真を師とあおいだ人物。
文章博士、大学頭を経て、6年前に参議となる。

若いころからの遊び人、女と双六(すごろく)に目がなく、
平安京最強ギャンブラーの称号もダテではない。
道真が流罪になった後、残された家族を何かと助け、
菅原家の牛追(運転手)だった梅王丸は、今も
第2の主人である長谷雄の車を引いている。

さて、ある夕方。
長谷雄が車に乗って、愛人の家を訪ねようとしていると。
ボロ布を頭からかぶった、異様な男が立ちふさがった。
「ぐしゅぐしゅぐしゅ… 参議の長谷雄卿でしゅな…」
「なんだ、お前は! どきやがれッ」

ケンカっ早い梅王丸が、ボロ布を引っ張ると、
世にもおぞましい姿が現れた。
顔中が醜いイボで覆われ、イヤな膿を出している。
しかも、せむしだった。
「ウワッ な、なんだ、こいつは…」

人口人魚を製造したり、怨霊遷化の秘術を編み出したり
した不気味な男、魏弩羅(ギドラ)道士である。
「手荒なごとはやめちぇよ… つれづれに、しゅごろくでも
打どうと思いましゅて。しょの相手を、あにゃた…」

牛車をビッと指さし、
「都で一番のバクチ打ちのあにゃた! 
長谷雄卿にじぇひ、してもらいちゃいのよ」
「バカかおめーは! 大臣がお前なんかの相手をするか!」
「おもしろい。やってみようではないか」
牛車の中から、声がした。

「大臣… 正気ですか…」
「紀長谷雄、双六で勝負を挑まれれば、相手が誰であろうと
背中を見せるわけにはいかん。それに、何やらタダ者では
なさそうだ。月並みな勝負には、飽き飽きしてたところ」
「物好きが過ぎますぜ…」

「さて、どこでやる? 私の家に来るか?」
「いえいえ、わたしゅのような者がお邸に上がっては、
まじゅいでしょ。ごの近くに、わたしゅの棲家
ありゅましゅから。そごいきましょ」


こうしてギドラについていくと、たどりついたのは朱雀門。
「宮城じゃねーか! ふざけてんのか、てめーは!」
朱雀門とは、平安京の官庁エリアである
大内裏の南の正門である。
嵯峨野線二条駅からすぐ近く、弥生会館の前あたり。

この門をくぐると、正面には朝堂院の正門である
応天門(おうてんもん)が立っている。
かつて放火騒ぎがあった、あの門である。
伴善男(とも の よしお)が罪を着せられ、
後に国宝の「伴大納言絵巻」となった。

また、朱雀門から南へ朱雀大路をまっすぐ下ると、
平安京の入口・羅城門(らじょうもん)がある。
後に羅生門(らしょうもん)という名前になって、
小説になり、映画になり、ベネチア映画祭で
グランプリを受賞する、あの門である。

さて、そんな都の中心部にある朱雀門の2階に、
ギドラはひょいひょいと上がっていく。
心配する梅王丸を待たせて、長谷雄も後に続く。
果たして、そこで待っていたものは…

「お帰りなさいませ、ご主人さま!」
長谷雄は思わずポカーンとして、その娘に見とれた。
柔らかそうな髪、天使のような笑顔の、かつて
見たこともないような美少女だった。
しかも、この時代の感覚では下着も同然の薄い衣を
まとって、ナイスバディが透けて見えている。

「さ、どうぞ。ごゆっくり、おくつろぎください」
長谷雄とギドラに敷物を出し、酒と軽食の用意をする。
「あの子は、冥土(めいど)さんていいましゅ。
身の回りのしぇわしゅてもらうの」
門の2階は、冥土さんがこまめに掃除をしているので、
こざっぱりとして居心地がいい。
長谷雄はひたすら鼻の下を伸ばして、冥土さんを眺めていた。

ギドラは双六盤の用意をして、
「ところで、にゃにを賭けましゅかね…」
「あの子くれ」
「ひゃい?」
「俺が勝ったら、あの子くれよ!」

「…………」
「ダメか?」
「うーん… 冥土さんは…」
「ダメなら、俺、帰るから」
「あー待っちぇ! よろしゅい、わかりましゅた。
あにゃたがせっかく、ここまで来ちぇくりた
その気持ちゅにこちゃえましょう。いいでしゅ、
冥土さんを賭けましゅ。ただ…」

ギドラは、声をひそめた。
「冥土さん、ほんとの人間ぢゃないでしゅよ」
「なに?」
ギドラの説明によれば。

いろんな女の死体の中から、美しい部分を
選んでつなぎ合わせた合成人間。
それが冥土さんなのだ。
「人造人間なんでしゅ」
そうか、だから「冥土さん」なのか。

長谷雄は、頭を殴られたようなショックを受けた。
「死体の寄せ集め… あの子が…」
ちらっと冥土さんを見ると、ニコッと無邪気な微笑が返ってきた。
「いい! 死体でもなんでもいい! あの子くれ!!」

「はいはい! それで、あにゃたは何を賭けましゅ?」
「全財産やる!」
「ほお〜 男らしゅいでしゅね〜」
ギドラは、不気味にニヤリとした。