天神記(三)





16、 別れ、めぐり会い




「お母さま! 伊勢が戻りましたよ! おわかりになりますか?」
つきそっているのは、温子の娘、均子(まさこ)内親王。

今年18才。
父の宇多法皇に似て容姿端麗、どこか影のある、
長い黒髪の美少女になっていた。
すっかりボロになった藤原うさ子を、今も離さず抱いている。

伊勢と温子と均子、母が2人いる家族のようなものだった。
3人で絵巻物を開いて、それぞれ登場人物になりきって歌を
詠みあったりしたのも、今となっては懐かしい思い出。

しばらく前から体を悪くし、熱を出して寝こむ
ことの多い温子だったが…
だけどまだ、こんなにお若いのに… 
まだ、私と同じ36才なのに…
目の前の温子の白い顔は、死にゆく者が
発する淡い光に包まれていた。

「宮さま… 何か私にできることは、ございますでしょうか?」
温子は、高熱でぼんやり潤んだ目を開けた。
「伊勢? もう、あまり心配かけさせないでおくれ… 
お前は本当に無茶をするから…」
「お説教はかんべんしてくださいまし><」

「でも… 楽しかったですね… 
お前といると、本当に楽しかった…」
「…そ…… そう… ですよね… 私も、なんか、たのし…」
声がつまった。
弱々しく差し出す温子の手を、しっかりと握る。

「内親王を、よろしく頼みますよ」
それが最後の言葉だった。
均子が、伊勢の胸に顔を埋め、声を張り上げる。

6月8日、伊勢の最愛の宮さま温子、永眠す。
「さよなら、宮さま… 必ず… 姫さまをお幸せに…」
愛しい少女の背中を抱きしめ、あふれる涙に
逆らうように、毅然として誓う伊勢であった。


京都府宇治市、木幡(こばた)の里に
ある宇治陵に、温子は葬られた。
ここには皇室に嫁いだ藤原の女たちを始め、藤原氏の陵墓が
多数あるが、どれが誰の墓か、はっきりしないそうである。
(陵墓は、JR奈良線木幡(こはた)駅周辺に散らばっている… 
駅名と地名で「木幡」の読み方がちがうんだって)

葬儀では、伊勢が惜別の長歌を詠んだ。

沖つ波 荒れのみまさる 宮の内は 
年へて住みし 伊勢の海女(あま)も 
舟流したる 心地して 寄らむかたなく 悲しきに 
涙の色の 紅(くれない)は 我らが中の 時雨(しぐれ)にて 
秋の紅葉(もみぢ)と 人々は おのがちりぢり 別れなば 
たのむかげなく なりはてて
留(と)まるものとは 花すすき 君なき庭に 群れたちて 
空を招かば 初雁の なき渡りつつ よそにこそ見め


この歌があまりに悲しく、世をはかなく思わせるので、
参列者の中には妻子を捨て、出家をする者までいたという。



3ヶ月ほどして、宇多上皇が均子の顔を見にやってきた。
「いっしょに、お母さまに会いにいくかい?」
「お墓のある木幡の里ですか?」
「いや、熊野だ」

上皇は、仁和寺別当の観賢を通して、聖宝が
到達した聖地・熊野の話を聞いていた。
都の遥か南、深い森と果無しの山々に囲まれ、
常ならぬ霊気漂う熊野坐神社…
そこでは、死んだ人間に出会うことも、しばしばあるという。
「気分転換にもなるし、行ってみようじゃないか。
伊勢もいっしょに」


この年、醍醐寺は醍醐天皇の「御願寺」に指定され、
新たな堂宇の建立が進められていた。
御願寺とは、天皇・皇后のお願い事の祈願を
うけたまわる寺院のこと。
ちなみに醍醐天皇は、この時点ではまだ「今上(きんじょう)
天皇」であって、死後、醍醐寺との縁から「醍醐天皇」と
「おくり名」されるのである。

もともと醍醐寺は、笠取山の山上に建てられた
山寺だった。(上醍醐)
今回の拡張工事は、山のふもとエリアで行われ(下醍醐)、
完成すれば、格段に行きやすくなるだろう。
691年後、豊臣秀吉が華やかな「醍醐の花見」を
行うのは、この下醍醐である。

下醍醐で工事の監督をしていた聖宝は、
上皇の熊野行幸の知らせを聞いた。
「行幸(ぎょうこう)」とは、天皇がお出かけすることである。
熊野坐神社=熊野本宮への行幸は、今回が歴史上最初となる。
この後、皇族や貴族の間で「熊野詣で」が
大ブームとなるのだが…

(あの娘もまだ赤ん坊だし、上皇に害をなすこともあるまい…)
昨年生まれた、真砂の庄司の娘のことを考えていたのである。
一応、弟子の観賢を、お供させることにした。

熊野は、古代からの重要な聖地ではあったが、この時代に
聖宝ら密教僧たちによって「再発見」されたことにより、
全国的にメジャーな霊場となっていく。
祭神も仏と習合して仏教色を強め、「熊野権現
(くまのごんげん)」と呼ばれるようになる。


10月2日、宇多上皇の一行は、熊野へと出発した。
伊勢と均子にとっては、初めての大旅行である。
均子の久々の笑顔を見て、伊勢も来てよかったと思った。

1日目の宿で、均子を訪ねてきた貴公子がいる。
「まあ。敦慶(あつよし)さまもご同行してらしたのですか?」
均子は顔を赤らめ、あわてて藤原うさ子を隠した。
子供っぽいと思われたくないのだろう。

宇多上皇と藤原胤子の間に生まれた第2子、
醍醐帝の弟、今年21才の敦慶親王である。
均子にとって、母ちがいの兄ということになる。
天皇の補佐をする「中務省(なかつかさしょう)」の長官、
「中務卿」を務めている。
いかにも優しげな青年で、何か困ったことは
ありませんかと、均子を気遣った。

「あなたも」
伊勢の方を見て微笑んだので、つい
アワアワしてしまう伊勢だった。
(そういえば、姫さまもそろそろ、恋をお知りになるお年頃…)
ふと見ると、親王を見つめる均子の瞳は、
恋する乙女のそれである。


その夜、均子は伊勢の寝床に忍びこんできた。
「いけませんよ、姫さま。小さい子じゃないんだから…」
温子が亡くなって以来、子供のころのように
伊勢に添い寝してもらうことが、たびたびあった。
「ね、伊勢は… 敦慶さまのこと、どう思う?」

かつて、敦慶の母・胤子を追い落とそうと、
あれこれ悪知恵を働かせたこともある。
温子に女子(均子)しか生まれないのに、胤子に2人目の
男の子が生まれ、くやしく思った時もあった… 
でも、これでよかったのだ。

温子さまは、私にこんな愛らしい姫さまを残してくれた。
胤子さまは、姫さまの素敵な恋のお相手を…
「あの方なら、姫さまを泣かせたりしないでしょうね」

敦慶の優しい微笑を思い出した時、伊勢の
胸の奥でチクッと痛みが走った。
なんで…? 
干支ひと回り以上も年の離れた若い子に…
もう男はこりごり、2度と恋なんかしないと決めていたのに…
まして、姫さまの恋のお相手を!

そんな胸の内も知らず、均子は伊勢を恋の大先輩として、
無邪気に頼りきっていた。
「伊勢、これからもいろいろ助けてくださいね… 
私の母さまは、もうあなた1人なのだから…」


一行は田辺から、中辺路(なかへち)ルートに入る。
途中の真砂の集落を通過する時、
伊勢は思わぬ人物と再会した。
「八重さん! なに、そのシラけた顔は… 
私と会えて、うれしくないの?」
「なんか… 別れてからまだ、1週間くらいしか
たってないような気分…」

「本院の侍従ではないですか? 
こんな田舎で、いったい何をしているの?」
均子は、八重とは過去に数回、会ったことがある。
年を取らない容姿の不思議さ、ヘンなエピソードの
数々を聞いていたので興味津々。
父の上皇にお願いして無理矢理、八重を
庄司の家から取り上げてしまった。
「いっしょに来てよ。伊勢も喜ぶだろうし」

庄司家では、せっかく娘の清音(きよね)もなついていたし、
手放したくはなかったが、上皇のご要望とあれば、
断るわけにもいかない。
こうして再び、伊勢とコンビになった八重だが、
道中たびたび後ろを振り返っていたので、
「そんなに、あの家に未練があるの?」
伊勢もつい、きつい口調になってしまう。

「あの家… おかしいんですよ。去年生まれた娘さんも
因縁ありげだし、ご長男も異常なところがあって… 
いつかきっと、恐ろしいことが起こるんじゃないかな…」
すっかり、「家政婦は見た」みたいになってる八重であった。

しかし伊勢も均子も、こんな山奥の下層階級の
家庭の事情など、関心はない。
もし八重が真砂の集落にとどまっていれば、この後に
起こる惨劇は防げたのかもしれないが…



明けて、延喜8年(西暦908年)となった。

かつて時平に若い女房を奪われた、元大納言の国経は、
酒びたりの日々を送ったあげく、肝臓を壊して死んだ。
女房を忘れるため、腐乱死体を見つめ続けたが
結局ダメで、酒に溺れていたのだ。
時平も、さすがに良心のうずきを感じたが、顔には出さない。


そして、ついに均子の恋は実り、中務卿・敦慶親王の妻となる。
腹違いの兄妹だが、この時代では結婚OKである。
だが…

均子と楽しく語らう敦慶は、時にチラチラッと
伊勢の方に視線を投げる。
伊勢は、なるべく目を合わさないようにした。
決して、自意識過剰なわけではない… 
親王は、まちがいなく私を見ている…

実は、敦慶はけっこうプレイボーイであることが判明した。
この時代、決して珍しいことでもないし、
非難することでもないが…
ある時、伊勢は敦慶を捕まえ、かなり強い調子で嘆願した。
「どうか、姫さまのお幸せを第一にお考えくださいませ。
誰よりも姫さまを、かわいがってくださりませ」

「あの人が愛しい… そう思っていた」
ぽつりぽつりと、敦慶は語り始めた。
「でも、それは恋ではなかった… 母を亡くした
可憐な娘に対する、同情だった…」
伊勢は、耳をふさぎたかった。

「もうひとつある。均子のそばにいたかった理由が… 
均子のそばにいれば…」
敦慶は、決意を秘めた表情だった。
「僕には少年のころより、憧れていた人がいたんだ… 
きれいで、りりしくて… 誰よりも美しい歌を詠む人…」

伊勢は、心が震えるのを感じた… 悲しみと喜びの両方で。