天神記(三)





14、 清姫(きよひめ)




さて、延喜6年(西暦906年)。

道真の長男、菅原高視(たかみ)が流刑の地・土佐から
呼び戻され、大学頭(だいがく の かみ)に復職した。

このころ、「菅原道真は実は無罪だったのでは?」
という声が広まっていた。
「道真が怨霊になった」という噂もある。

そういう事情もあって罪を許された高視だが、
配流先で体を壊していた。
寝たり起きたりの生活を続け、7年後に
38才の若さで亡くなってしまう。



この年、聖宝は吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)に、
次々と諸堂を建立。
さらに、吉野の南・山上ヶ岳を経由してさらに南、
熊野坐神社(くまのにますじんじゃ=熊野本宮)に
達する険しい山中のルートを開拓。

「奥がけ道」と呼ばれ、21世紀の現在でも、修験者が
絶壁からぶら下がって修行しているエリアだ。
「紀伊山地の霊場と参詣道」の1つとして世界遺産に
なっているが、素人が単独で歩くのは危険なので、
必ずツアーに参加したい。
それにしても、聖宝が関わった寺や霊場は、
ほとんど世界遺産になってますな。

さて、聖宝が「奥がけ道」を通り抜け、熊野の
「大斎原(おおゆのはら)」に到達した時… 
思わず、おお、とうなった。
こんもり繁る森を背景に、熊野坐神社の社殿が建ち、
白い小石を敷き詰めた聖域が広がって、おびただしい
数の霊魂が飛び交っている。

老年に入ってもなお、プロレスラーのようにガッチリした体躯の
聖宝、長い間の山暮らしで、すっかり陽に焼けている。
「ここが、根の国か…?」
しばし、羽虫のような、鳥のような霊魂たちの声に耳を傾ける。
と、突然。

ぞわぞわ… と、恐ろしい感覚に襲われ、思わず西の方を見た。
果無(はてなし)山脈と呼ばれる、無限の山並みの向こうで、
何か恐ろしいものがこの地上に生まれ落ちたようだ。
この世に災いをもたらす、恐るべき魔物が…

本宮から西へ伸びる、「中辺路(なかへち)」という
古道を、聖宝は駆けていった。
ひと足で5メートルかせぐ、恐るべきスピードの徒歩である。
単なる脚力ではない、法力を使った超高速移動であった。


ほどなく真砂(まなご)という集落の、庄司の邸に到着した。
家中が、お祝いムードである。
聞けば、後添えの妻に女の子が生まれたとのこと。

「これはまた… 娘が生まれた日に、このような徳の高い
坊さまが訪ねてくださるとは。なんという、めでたき日かな」
庄司の藤原清重(きよしげ)が、喜色満面であいさつをする。
聖宝は祝いをのべ、とりあえず接待を受けた。

ほどなくして主人は席を外し、かわって
美しい侍女が聖宝の相手をした。
「聖宝さま。真言宗随一の法力と見こんで、
ご相談があるのですが」
まわりに人がいないのを確かめ、侍女が切り出した。
「わしも、そなたをただの人間でないと
見こんで聞きたいことがある」

八重は、かすかに眉をあげ
「お見通しでしたか」
時平のもとを去った後、こんなところに
潜りこんでいた八重であった。
「やはり、ここを通りかかったのは、偶然ではなかったのですね」
「こちらの方から、すさまじい妖気が立ち昇った。
何か異変があったかね?」

産婆の技能をもった八重は、今回も赤ん坊を
取り上げたが、その時、またしても。
「なんと。蛇が?」
「ほんの一瞬… 前にも、こんなことがあったんです」
宇治で取り上げた、あの時の女の赤ん坊… 
生きていれば、この邸の後妻と同い年になる。
「そういえば、奥方さま… 宇治出身と
おっしゃってました。まさか…」

「そもそも宇治川は、琵琶湖から流れ出ておる。
琵琶湖には竜宮城があって、竜の一族が棲んでおるというぞ。
しかも、その竜は、人間の女に化けるらしい」
「竜と蛇って、同じようなものなんですか?」
「竜は唐土から伝わった生き物だからな。恐らく日本では
古来、大蛇に対する信仰があって、竜が伝わると、
そっちのが立派だから置き換わったのだろ」

などと話していると、生まれたばかりの赤子を
抱いて、主人が入ってきた。
「聖宝さま! ご覧くださいまし。かわいいでしょう」
親バカモード全開の清重が、小さくて
おとなしい我が子を差し出す。
聖宝と赤子の、目があった。
その瞬間。

雷鳴のごとく、赤子の前世が見えた。
そして、己の過去の悪行、恐るべき因縁… 
来世にまでからみつく、宿命の糸。
「す、すまぬ! 大事な用があるのを思い出した」
逃げるように、聖宝は邸を飛び出した。

「なんという業の深さよ… 悪い因縁をもってしまったものだ」
トボトボ歩いていると、八重が追いかけてきた。
「どうされました?」
「うむ……」
額に苦悩のシワを刻んで、聖宝は語り始めた。



承和(じょうわ)14年(西暦847年)。

当時、出家したばかりの16才の少年聖宝は、
東大寺で修行することになった。
大仏で有名な、またしても世界遺産である。
東大寺 公式サイト http://www.todaiji.or.jp/

ところが、聖宝が寝起きする僧坊の空きがない。
ほんとはあるのだろうが、これは明らかに
先輩たちの陰湿ないじめである。
「しかたないねー。部屋があくまで、東僧坊の
南第2室に泊ってもらおうか」
「開かずの間ってやつだけどね」
「夜になると、魔物が出るけどね」

しかし、この年にしてマッチョな巨漢である
少年僧は、屁とも思わない。
むしろ広い部屋を、1人で独占できて儲けものである。
東大寺創建当初から100年近く、開かれたことがない
という扉を開けると、かび臭い暗闇の中に、何者かが
潜んでいる気配が確かに感じられた。

「今日から俺がこの部屋の主じゃ! 
いそうろうは出て行ってもらうぞ」
どっかと腰を下ろし、持参した荷物を広げた。
「さーて。勉強でもするか」
ろうそくに火をつけ、墨をすると、写経に取りかかった。

夜もふけ、ろうそくも消えかかり、聖宝の頭も
うつらうつらと揺れ出した。
はっ
机に置いた硯(すずり)の墨に… 
殺気に満ちた凶悪な人相が映りこんでいる…

短刀を振り下ろす、その手首をつかむと
「うりゃッ」
軽々と振り回し、床に叩きつけた。
僧坊全体が激しく揺れるほどの、すさまじい怪力である。

「魔物の正体は、やはり人間か… おおかた、お前が
小細工をして、魔物が棲んでるなどと噂を流し、この部屋を
隠れ家にしていたのだろ… どうせ、盗賊か何かだろう」
だが白状させようにも、賊は背骨が折れてしまって、
息ができない。
やがて、血を吐いて絶命した。


翌日、麻袋に死体を詰め、念仏を唱えながら若草山に捨てた。
この時の武勇伝が、後に尾ひれがついて、「僧坊に棲みつく
大蛇を退治した」という物語になっていくのだが…
その夜。

(まだ気配があるな… 棲みついてたのは、
1匹だけじゃなかったのか)
闇に包まれた天井を見上げる。
昨夜の賊は、まちがいなく天井から降りてきた。
「昨日の奴の死に様を見たろ。ああなりたくなくば、降りて来い」

細い紐が天井から垂れ、スルスルと降りて来たのは…
若く、かぼそく、はかなげな美しい女だった。
くっきりした二重まぶたの猫のような瞳と、憂いを帯びた眉。
柳のような体つきも、むき出しになった細い脚も、
どこか頼りなげだった。

聖宝は、これほど美しい女を見たことがなかった。
喧嘩ならどんな相手も恐れない聖宝の心に、
この女に対する恐怖が芽生えた。
「な、なんだ、お前は… 昨夜の男の女房か?」
「はい… 清乃(きよの)と申します」

女が語るには、昨夜聖宝に襲いかかった男は、
蛇骨(じゃこつ)という名の外道人。
外道人とは、金で殺しを請け負う裏稼業のこと。
女は、生まれつき身寄りもなく、17才の時に蛇骨に
さらわれ、無理矢理に操を奪われた。
以来、女房として連れ添っていたという。

「悪い男なのはわかっていましたが… 
あの人以外、頼れる者もいなかったので」
聞けば、哀れな女である。
「私、行くところがないんです… お願いです! 
ここに置いてください。今までどおり暗がりに潜んで、
決してお勉強のお邪魔はいたしませんから」

聖宝は困り果てたが、こう言われてしまっては、
追い出すわけにもいかない。
やむなく、女はいないものと考えることにした。
女は決して姿を見せなかったが、常に
濃厚に気配を漂わせていた。
時には、聖宝がいない間に部屋を片づけたり、
繕いものをしてくれたりした。


ある時、聖宝が部屋に戻ると、女が掃除を
しているところにバッタリ出くわした。
「あ… お帰りなさい」
はにかんで微笑むその顔を見て、聖宝はついに限界に達した。
女を力づくで、押し倒してしまったのである。

女は、始めのうちは死に物狂いで抵抗したが、
やがて、16才のたくましい少年僧の肩にすがり
ついて、むせび泣くような声を上げていた。
聖宝は女に、どうしようもないほど、のめりこんでいった。
修行などそっちのけで、愛欲に耽る日々が始まったのである。


「わしの生涯で最も恐ろしい、魔の刻(とき)だった… 
地獄への一本道を突っ走っていたのだ」
苦悩の表情を浮かべ、聖宝は回想していた。
「東僧坊の南第2室には、確かに魔物がいた… 
それに気がついた時、わしは…」
交わっているさ中、女の首をすさまじい力で
締め上げ、ついには首の骨を折った。

女ははじめ、苦痛に顔を歪め、涙と唾液を
流していたが、最後には…
すさまじい恨みのこもった死に顔で、
聖宝を見つめていたという。
夜の明けないうちに、聖宝は泣きながら遺体を麻袋に詰め、
無我夢中で念仏を唱えつつ、若草山に捨てた。

「不憫なことをしたが… あの時、女を殺さねば、今の
聖宝はなかったろう。だが、女の死に顔は言っていたよ。
必ず、来世でこの恨みを晴らすと」
「それが… 庄司の家の赤ん坊なんですか?」
「まちがいない」

八重は、長いため息をついた。
「なんという重たい話… でも年齢差がありすぎて、
あの子に何かできるとは思えないけど」
「今生では、これ以上、わしとあの娘が関わることは
なさそうだ… かわりに、わしと同じ密教を信仰する者… 
真言宗か天台宗の僧を、大量に殺すことになるだろう。
わしとの決着は、次の来世のようだな…」

険しいまなざしで、聖宝は遠い未来を見つめていた。
400年以上先の未来…
転生した聖宝と、転生した清姫の宿命の対決が待っている。
運命の道成寺(どうじょうじ)で…

(その対決のオープニングを飾るのが、白拍子(しらびょうし
=男装した踊り子)に転生した清姫の舞… 
すなわち日本舞踊の最高峰、「娘道成寺」である。)