天神記(三)





8、 怨霊遷化(おんりょうせんげ)




時平は怨霊など、怖くはなかった。
死んだ人間に、何ができる?
だが道真が怨霊になれば、時平が悪役になってしまう。
世間の同情は道真に集まり、時平は批判される。
天災や疫病の流行は、時平のせいにされてしまうだろう。

それを防ぐためには… 道真を恨む者が怨霊となり、
先に道真を祟り殺せばよい。
というアイデアをもってきたのは、例によって
骨阿闍梨(ほねあじゃり)だった。
「怨霊に殺されたものが悪役となり、世間の非難を受けるのです」
「なるほど」

では、誰が道真を祟る怨霊となるか。
「都良香(みやこ の よしか)はどうだ」
学者で詩人の良香は、道真に作品を批判され、
絶交したあげく行方知れずになった。
(天神記(二)「都良香」参照)

しかし骨はそれを却下、日陰者のようにひっそり暮らし
ている宣来子をターゲットにするよう、進言した。
「ちょうど最近、心の病を患ってるようで」


引退した外道人・安梅が、最後の仕事を
引き受けたのは、理由があった。
成功すれば、引き離された2人の息子に
会わせてくれるというのだ。
この年56才、すっかり老けこんでしまったが、
どうにか白梅殿に潜入。
針で苦痛もなく宣来子の命を断ち、首吊り自殺に偽装した。

だが、邸から脱出するところを、梅王丸に目撃された。
梅王丸は、特に夜間、暇があると白梅殿の
周辺を見回るようにしていたのだ。
「待ちやがれっ」

梅王丸の投げたドスが、安梅の右腿に突き立つ。
それでも、闇に紛れ安梅は必死に逃げる。
点々と残る血の跡を、梅王丸は追いかけていった。
(これだけの血を失くせば、そう長くは生きてはおるめえ…)

とうとう都のはるか南、八篠ヶ池まで来てしまった。
梅王丸の予想通り、月明かりの下、池には
賊と思われる男の死体が浮いていた。
(これで黒幕は闇の中だ… もっとも、おおよその見当はつくが)

梅王丸が立ち去ると、かわって骨阿闍梨が姿を現した。
池に浮かぶ安梅の骸を見つめる目には、
珍しく哀しみが漂っている。
「哀れな男よ… せがれどもには、冥土で会うがよい」

安梅の2人の息子、安仁と安珍が清姫に出会って
冥土に行くまで、あと20数年でしかない。



延喜3年(西暦903年)。

宇多法皇の中宮・温子は、日本写真印刷鰍フ敷地に
ある朱雀院から、東七条宮(亭子院)へと移った。
こちらは現在の住所でいうと、西本願寺と
東本願寺に挟まれた一帯である。

この時代にはまだ存在しない本願寺が、西と東に分かれて対立
するようになったのは、元はといえば、織田信長のせいである。
大阪の石山にあった本願寺を立ち退かせようと、
信長が攻撃を仕掛けたのだ。
(後に、その場所に建つのが大阪城)

「信長と和解しよう」派が、後の西本願寺、
「徹底抗戦すべきだ!」派が、東本願寺となる。
その信長も、ご存知のように本能寺で明智光秀に
滅ぼされるわけだが、実はその本能寺、菅原道真
の邸から、とても近い場所に創建される。
(現在の京都市役所前にある本能寺は、後世の移転による)

「本能寺の変」の3日前、明智光秀は愛宕山に参詣している。
この時、愛宕山太郎坊天狗の霊が取りついたらしい… 
そうらしい…
その太郎坊天狗の弟子が、比叡山次郎坊天狗こと尊意である。


さて、その尊意のもとに梅王丸が、ただごとでない
様子でやって来た。
息を切らし、泣きわめきながら伝えることによると、
この2月25日…
とうとう、道真が没したらしい。

「なんと…」
尊意も、愕然とせずにはいられない。
梅王丸の主人、紀長谷雄もすっかり元気をなくし、
寝こんでいるという。
「それで… ご遺体は?」
「それが… うう…」

道真の遺体を都に送ろうとしたが、大宰府政庁から北東に
しばらく行ったところで、牛車が急に止まった。
いくら牛をたたいても、動こうとしない。
やむをえず、その場所に遺体を埋めたという。

「よっぽど、都に帰りたくないらしい」
「菅公は、この場所に留まりたいのじゃろ」
大宰府の役人たちは、皆そう言っていたらしい。

「そんなわけあるか! あんなひどい目に合わされた
大宰府なんかに… 時平の命令で、適当なところに
埋めたにちがいねえ!」

梅王丸が涙ながらに訴える、その「適当なところ」に
2年後、廟が建てられる。
これが現在の、太宰府天満宮である。
また、牛が歩みを止めて道真の墓所を決定したことから、全国の
天満宮では、牛が「神の使い」として崇められるようになる。
天満宮に必ず牛の像があるのは、そういうわけなんです。

もうひとつ、梅王丸が許せないことがあった。
道真が死んだのは、祟り… という噂が流れていたのである。
「何? 丞相を恨んで死んだ奥方の祟りであると?」
「これは陰謀ですよ、尊意さま! 奥方さまは
殺されたんだ! 丞相だって、きっと…」


とりあえず尊意は叡山を降り、梅王丸とともに白梅殿を訪ねた。
悔やみを述べ、読経し、世間のくだらぬ噂を
取り合わぬよう諭した。
その帰り道、バッタリと聖宝に出会ったのである。
初対面、しかも天台宗と真言宗のライバル同士であるが、
互いの霊気に尋常ならざるものを感じる。

「これは… 叡山には天狗の弟子がいると
聞いておりましたが、あなたでしたか」
聖宝は、御所に呼ばれた帰りだった。
昨年より、男子に恵まれずに悩んでいる醍醐帝のために、
子宝を授かる秘法・求児法を修してきたが、とうとう無事
男子出産が成り、祝いの席に呼ばれていたのである。

この時生まれた皇子は克明(かつあきら)親王といい、
後に源博雅(ひろまさ)の父となる。
源博雅というと、夢枕獏先生の「陰陽師」シリーズで、ヒーロー
安倍晴明の親友役でいい味出してる、あのキャラである。

「御所でも、その話でもちきりでしたよ。しかし怨霊の話は
眉唾ですな… 祟りをなすほどぼ強い怨念は、
菅公の邸からは感じられなかった。
ところで観世音寺からは何か、菅公のご様子など報告は?」
観世音寺は天台宗の寺であり、比叡山の管理下にある。

「特には… ただ、妙なことがありまして… 他の者たちは
感じてないようですが、ここ一二年、観世音寺から届く書状には、
何やら異様な… 妖気のようなものがこびりついている。
文面は正常ですが、なんともイヤな… 匂いが漂うのです」
「それは面妖な… 観世音寺に妖怪でも住み着きましたかな?」


妖怪どころではない、とてつもない魔物が
観世音寺に潜りこんでいたのである。
根黒衆(ネグロス)の指導者、魔風大師。
住職の頬にある日突然大きなコブができたというのに、
僧侶たちは誰1人、不審に思わなかった。
「ああ、住職のあれ? 昔からあるよ」
記憶を、操作されていたのである…



さて、時が少しもどって、この年の始めごろ。
病床に伏す道真の枕元に、頬にコブの
ある住職が座っていた。
「まず、第1に必要なのは… 決してこの世から離れぬという
強固なる執念。たとえ肉体が滅びようとも、冥土へ行くことは
ならぬ。留まり続けるのじゃ… 新たなる肉体に宿るまではな」

「新しい肉体だと… そんなものがあるのか?」
「ここにはない、遠く離れたところよ。お前はそこまで、
自力で旅をせねばならぬ。ここが肝であるぞよ… 
旅の間、執念を燃やし続けることができるかどうか。
それがかなわねば、新しい「生」は得られぬ」

肉体を失い、霊魂だけで移動する距離が長ければ長いほど、
より大きい執念のエネルギーが必要となる。
逆に言えば、霊魂が「旅」をする距離が長いほど、
すさまじい執念に満ちた怨霊となるのだ。

「そのため、お前は大和(奈良県)の唐笠山(とうがさやま)まで
歩かねばならん。そこに、お前の第2の生が待っている…
もし途中で、意志の弱まる時があったら、
この真言を唱えるがよい」

呪生呪死呪天呪地 
怨仏怨神怨人怨獣 
殺父殺母殺主殺王 
破戒破法破理破道


この真言を口にするたび、道真の心にあった美しい思い出、
人間らしい温かさは黒い雨に流されるように溶けていった。
強力な負のエネルギーに満ちた感情が、
放射能のように道真を汚染していく。

(天才であるこの俺が、こんなところで朽ち果てる… 
しかも歴史に悪として名を残す… 許さん… 
絶対に許さんぞ時平! 都ごと… 
この国ごと、焼き尽くしてくれる!)



2月25日。
コブのある住職と、他2名の観世音寺の若い僧が
道真の枕頭に並んだ。
部屋の隅には、獣の皮をかぶった男が控えている。
家の者たちは、偉い坊さんが病を癒す祈祷をする
のだと聞かされ、外に閉め出されている。

「では… 怨霊遷化の儀式を始める」
その時。
「いけません! 道真さま! 安らかにお眠りください!」
どこから入ったのか、美しい娘が立っている。

「飛梅か… お前はこの大宰府の地で、
美しく咲き続けておくれ… さらばだ」
「いいえ、私があなたをお連れします… 月の都へ」
コブ住職は、興味深げに飛梅を見つめる。
「ほう… 人でないお前が、人間の道真を慕っているというのか」

「人でないのは、あなたも同じではありませんか」
娘は住職の目ではなく、コブをまっすぐに見て話した。
「ん〜、もう梅の季節は過ぎたのではないかな?」
2月25日といっても旧暦なので、そろそろ桜の咲くころである。

一瞬、室内に満開の桜が咲き誇るような気がした… 
と思ったら、梅の化身の娘は消えていた。
かすかに残る梅の残り香も、かき消えた。
「幻だよ、丞相。あの娘は、あんたの心が生み出した幻影だ」
住職は実に優雅な方法で、飛梅の精を消滅させたのである。

「それでは、気を取り直して。参ろうか」