天神記(三)





6、 九月十日




大宰府での生活が始まった。
出仕しても、道真のやる仕事はなかった。
大宰府自体、今はあまり忙しくない… 
遣唐使でもあれば別だが、その遣唐使を
廃止したのは、他でもない道真である。

職場に道真の座る席はなく、職員に質問すれば、意地悪く
お国言葉で答えるので、コミュニケーションが取りずらい。
「ちょっと、邪魔なんで、そこどいてもらえます?」
「うわ、加齢臭くさ…」

露骨な嫌がらせに耐えかね、道真はボロ邸に引きこもった。
近くにある観世音寺から、鐘の音が響いてくる。
10秒に4回のうなりがあるというこの鐘は、現在国宝。
することがないので、詩でも作ってみる。

都府楼は、わずかに瓦の色をみる
観音寺は、ただ鐘の声を聴く

(観音寺とあるが、観世音寺のこと)

観世音寺 観光サイト 
http://www1.linkclub.or.jp/~yukos/dazaifu/d15kanz.htm

また、大宰府政庁(都府楼)跡は現在、史跡公園になっている。
大宰府政庁跡 観光サイト 
http://www1.linkclub.or.jp/~yukos/dazaifu/d17seic.htm 


しかし慣れない田舎暮らし、生活レベルの変化、精神的
ストレスから、道真は体調に異常をきたした。
皮膚にブツブツが吹き出し、心不全、下肢のむくみ・しびれ、
さらに胃炎も併発。

気分転換に外出してみると、人相の悪い男たちが
殺気立って追いかけてきた。
とっさに、近くの農家に逃げこむ。
一人暮らしの老婆が、道真を臼の中に隠し、
その上に洗ったばかりの腰巻きをかぶせた。

男たちは、時平の舎人どもに雇われた地元のゴロツキである。
彼らが去っていくと、道真は臼から這い出し、
老婆に礼を述べた。
「私をかくまったことで、あなたに累が及ばぬといいが…」
「ご心配なく… さ、これをどうぞ」

老婆が差し出したのは、粟餅に梅の枝を挿したものだった。
「うむ… これは美味い」
胃の調子が悪い道真だが、きれいに平らげた。
これが、大宰府名物「梅ヶ枝餅(うめがえもち)」の起源である。

ここで、老婆から皆さまにお知らせがある。
「梅ヶ枝餅に、梅は入っておりませんのじゃ… 
勘違いしてお店に文句いうでないぞ」
「お石茶屋」では、今でも機械を使わず、
手焼きでアツアツの餅を食べさせてくれる。
http://odekake.jalan.net/spt_guide000000154116.html

この老婆は、後に地元の人から「もろ尼御前」「浄妙尼
(じょうみょうに)」などと呼ばれるが、その正体はもちろん、
道明寺の覚寿である。
別に変装したわけではないが、農民の姿をして、
優しい表情を浮かべただけで、まったく別人の
ようになり、道真も気づかなかったのだ。

この後も道真が没するまで、老婆は道真を助け、
世話を続けることになる。
道真のボロ邸跡に建つ「榎社」背後には、
「もろ尼御前」を祀った社がある。
太宰府天満宮の神幸祭では、この社に真っ先に
宮司が奉幣するそうだ。
生前世話になった御前への、神となった
道真からの礼であるという。



大宰府近くの山中の隠れ家で、松王丸は
手下どもから、なじられていた。
「まったく、いつになったら道真の首を取りに行くのだ、え?大将」
「やはり、親父が仕えていた主人だ。非情な風を
装っていても、内心やりにくいのだろう」

クールで虚無的な松王丸は、手下どもを見回し、
「時平さまは、道真を討つよう命じられた。
しかし、いつまでと期限を定められたわけではない」
「なんだと?」
「今、道真は都府楼に引きこもっている。
都府楼を襲うわけにもいくまい。が、まもなく…」

障子戸を開けると、標高250mほどの小さな山が見えた。
「あの小山には、遥か古えより、神々を祀った祭壇が残っている。
天拝山(てんぱいざん)というそうだが…
道真は、必ずここに祈りに来る… その時こそ、好機だ」



そのころ… 道真は、夢を見ていた。
高い塀に挟まれた小路を歩いていくと、前方に男女
2人の幼子が、手をつないで行方をさえぎっている。
聞いたこともない、不思議なわらべ歌を口ずさみながら…

通りゃんせ 通りゃんせ
ここは冥府の細道じゃ 地獄の亡者の細道じゃ


「ちょっと通して下しゃんせ」
道真が、2人のわらべに声をかけた。

怨みのないもの 通しゃせぬ

「この国呪うて祟り神 災いなさんと参ります」
道真が答えると、2人はつないだ手を高く上げ、
道真が通れるようにした。

行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ


2人のわらべが形作る門、というか結界をくぐり抜けた時…
道真は、この世にあらざる恐ろしい何かを見て、悲鳴を上げた。


「ハッ 夢…」
汗を、ぐっしょりとかいていた。
「この国を呪うだと…? 災いをなすだと? バカバカしい!
俺は、そんな度量の小さい人間じゃない… 
必ず… 法皇がなんとかしてくださる」



この頃の道真には、日課があった。
昨年、醍醐帝の前で「秋思」という詩を詠み、感激した
帝から賜った「恩賜(おんし)の御衣(ぎょい)」… 
それを取り出しては、焚きしめた香が、
まだ温かく匂うのをかぐのだ。

「都に… 帰りたい…」

9月10日になった。
御衣を賜った日から、ちょうど1年。
右大臣となり、栄光に包まれていた1年前…
たった1年で、こんな… こんなにも、惨めになってしまうとは…

「九月十日」というタイトルの詩には、
道真の悲壮な思いがこめられている。

去年今夜侍清涼  
去年の今夜 清涼に侍(じ)す

秋思詩篇独断腸  
秋思の詩篇 独(ひと)り断腸

恩賜御衣今在此 
恩賜(おんし)の御衣(ぎょい) 今此(ここ)に在(あ)り

捧持毎日拝余香  
捧持(ほうじ)して毎日(まいにち) 余香(よこう)を拝す


去年の今夜、私は清涼殿にいた。
「秋思」の詩篇はひとり、断腸の思いで吟じた。
あの時いただいた恩賜の御衣は、今ここにある。
毎日捧げ持って、残り香を拝している。

白太夫は、そんな主の姿を見て、涙をこらえきれなかった。
この方は、これほど悲惨な目にあわれても、
帝への忠誠を少しも失くされてはいない…
だが。

通りゃんせ 通りゃんせ…

あの夢を、しきりと見るようになった。
(私には、この国を… 帝を呪う気持ちなど、
微塵もない! 断じてない!)
誰にも相談できぬまま、道真の精神は、徐々に蝕まれていく。



11月ごろ、九州には珍しい寒波が到来、雪がひどく降り始めた。
しびれを切らした松王丸の手下5人は、
独断で道真の邸を襲うことにした。
「この吹雪に乗じて… 物取りに見せかけるんだ」

それぞれ武器を抱くようにして蓑をまとい、雪の中を進むと… 
いつの間にか、1人いない。
「ん? はぐれたか?」
「キエエエェーイ」
吹雪を突いて、「もろ尼御前」こと覚寿が踊りかかる。

たちまち、さらに2人、こん棒で脳天をカチ割られる。
「な、なんなんだ、このババア!?」
異変を察知した白太夫が、邸から弓を手に
駆けつけ、残る2人を射殺した。

「いつか、こいつらが来るだろうと、毎日見張って
おりましたのじゃ… ん? 何をしておられる?」
白太夫は5人の死体を集め、顔をあらためている。
「いや… なんでもありません」

「まだ、こいつらの頭(かしら)が残っておりますぞ」
「そのようですな」
息子との対決を予感し、白太夫の顔は険しくなった。



12月、雪の残る中… 道真は白太夫の
反対を押し切り、天拝山に登った。
都府楼の南にあるこの小山は、その標高の低さにも関わらず
不思議な霊気を放ち、ここで祈れば、その声は天に届くという。

山頂で道真はひざまづき、己の無実を天に訴えた。
その様子は狂おしいほどで、白太夫がいくら
説得しても邸に戻ろうとしない。
やむをえず、白太夫はふもとに簡便な小屋を作り、
食料や薪を運びこんだ。
山ごもりは、ついに100日に及んだ。



年は明け、延喜2年(西暦902年)、3月。

道真が、無実を訴えるため冬山にこもったという噂は、
都にも届いていた。
さすがに、同情が集まる。
時平は、それが気にくわなかった。
「松王丸め、何をしておるか…」

このころ、時平は日本史上最初の「荘園整理令」を公布している。
荘園整理令について、説明しよう。
(中略)
というわけだが、おわかりいただけたろうか。



山ごもり100日目となる、その朝。
天拝山のふもとに、異様な仮面をつけた男が現れた。
その行手に、白太夫が立ちふさがる。
「何か、ご用かな?」

仮面の男は、片手に短刀、片手に鉄扇を構え
「菅丞相のお命、頂戴つかまつる」