天神記(三)





5、 飛梅(とびうめ)




そのころ、都では。
三善清行が、時平の前に進み出た。
「左大臣。どうか、菅原の門下生どもを、お許し
下さいますよう… 彼らは菅家で学んだだけであり、
道真の企みに加担していたわけではない」

「あなたは過去、道真に方略試を落とされたそうだが?」
そんなお前が、菅家一門を救おうというのか?
「それはそれ、これはこれ。多くの優秀な官僚を
失えば、国が傾きます」
「そうだな… 帝と相談してみよう」

時平も、そろそろ潮時… と感じていたので、
清行の勇気ある進言を受け入れた。
実際、国政にも混乱が出始めていたのである。
これがきっかけで、今まで道真の陰に隠れてパッと
しなかった清行は、一気に名を高めることとなった。



かつて、菅原家の牛追いとして勤めていた梅王丸は今、
紀長谷雄(き の はせお)のやっかいになっている。
長谷雄は道真と同い年の悪友であったが、道真の深い学識に
感銘を受け、いつしか彼を師とあおぐようになっていた。

今回の菅原一門の粛清騒ぎの中で、清行が時平を止め
なければ、どこかに飛ばされていたかもしれない。
とりあえず首がつながった長谷雄は、梅王丸を牛追いとして
雇い、情報を集めながら、道真復権の機をうかがっていた。

「ご主人さま… まもなく、白梅殿ですが」
梅王丸が牛車を引く先は、かつての主の邸… 
今は菅原家の女たちが、わびしく暮らしている。
「む… 何か変だな。いつもと感じがちがう」
長谷雄は首をかしげた… 何か、大事なものがないような…

梅王丸は、怒りに体が震えた。
「梅の木がねえ… 丞相の大事にしていた梅が… 
奴ら、切り倒しやがったんだ!」
「いや、切られたのではない。消えたのだ」
声をかけてきたのは、山の匂いがプンプン
するような、ワイルドな僧侶。

「これは… 尊意どのではありませんか?」
長谷雄は牛車から下りて、あいさつを交わした。
「この家に異変が起きたというので、呼ばれてね… 
来てみたら、梅の木が根っこから消えている。
朝起きたら、影も形もなかったらしい」

「あんな古木を、根から掘り起こすとなると、人手が
いりますぞ。まして、夜中に家人に気づかれぬように
盗み出すなど、絶対ムリ…」
そのやりとりを聞きながら、梅王丸の目は潤んできた。
「飛んでいったんですよ… 大宰府へ… 丞相のもとへ…!」



大宰府政庁、またの名を都府楼(とふろう)。
東西110m、南北211m、平安京の内裏を小型にした
ような外観であり、職員1000人以上が働いている。

政庁の南に位置する館が、道真たちの宿舎である。
「なんだ、これは…」
あぜんとするしかなかった。

生垣は壊れて出入り自由、庭は草ボーボーのジャングル、
井戸の底には泥がたまり、家の木材は傾いて、
屋根からも雑草が生えていた。
室内が妙に明るいと思ったら、天井に大穴が… 
鳩も棲みついている。
門弟の1人が、腐った床を踏み抜いた。

隈麿(すみまろ)と紅姫(べにひめ)という、
2人の幼子が泣き出した。
彼らは道真の子供たちの中でも最年少で、さすがの道真も
家族全員と別れるのは寂しいし、子供なら新しい環境に
適応する力もあるだろうと、ここまで連れてきたのだが…
やはり、連れてくるべきではなかった。

とりあえず、白太夫が中心となって、大掃除を始める。
政庁からは、誰も手伝いに来なかった。
この館は後に、榎寺(えのきでら)という寺になり、
現在は太宰府天満宮の飛び地境内・榎社である。

日の沈むころ、どうにか穴をふさいで、床と壁を
ふき清め、なんとか寝られる状態にした。
徒歩15分ほどの距離に、観世音寺(かんぜおんじ)と
いう由緒ある大寺があり、そこから心にしみいるような
鐘の音が響いてきた。
「一栄一落、これ春秋…」
道真はつぶやいた。

栄えたり、没落したり、人生はいろいろある… 
俺は、あきらめない。
上皇がいる限り、都にいつか必ずカムバックできる…
その夜は身分の上下を問わず全員、大部屋にザコ寝をした。


真夜中、道真は目を覚ました… 
庭が、やけに明るい。
1人、庭へ出てみると… そこに、ありえないものを見た。
ジャングルのような庭に、1本の梅の古木が生えている。
ここに到着した時、こんなものは見なかった… 
確かになかった!

そして、すでに時期はすぎたのに今、月光の下… 
白梅が、匂うように咲き誇っている。
「お前… お前は… うちにあった、あの白梅なのか…?」
俺を追って… 遥かな空間を超えて、この
大宰府まで飛んできたのか!

「来てしまいました… ご迷惑でしたでしょうか?」
道真は、顎が外れんばかりに驚いた。
幹のかげに、女が1人立っている… 
これほど美しい女人は、見たことがなかった。

朧(おぼろ)に霞んだ瞳、どこまでも上品で清楚な顔立ち…
だが、どこか… どこか、見覚えがある、
会ったような記憶がある。
「あなたは… この梅の精か…」
「道真さま。私は、あなたがお生まれの頃より、
ずっと見守ってまいりました。
これからも… お守りしたいのです」

道真は、この世にありえざる女… 
いや、女神にすがりついた。
その胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくり、
いつしか眠りについていた。


翌朝、庭で目を覚ますと、女の姿はない。
「やはり、夢か…」
しかし、振り返るとそこに、見上げるような梅の古木があった。
さすがに、花は咲いていないが… 
まぎれもなく、それは現実に存在していた。

やがて、門弟や従者も異変に気づいて、騒ぎ始めた。
「都から、丞相を慕って…」
「こんな不思議なことが、この世にあるのか…」
今の道真は、都を遠く離れた寂しさを忘れられそうな気がした。



時平の舎人・松王丸は、大宰府へ下る途中、手下らを
待たせておいて、道明寺に立ち寄った。
覚寿は留守であり、苅屋が松王丸を接待する。
源蔵・戸浪の夫婦、そして源蔵が都から運んできた小太郎の
亡骸(なきがら)が、3つの塚に埋められていた。

松王丸は息子と、息子を手にかけた
夫婦の墓に手を合わせる。
苅屋は、戸浪の最後の言葉を伝えた。
「小太郎さんが寂しくないよう、いっしょに遊んであげます…」
どうか皆、来世では幸せにな… 祈る松王丸であった。

ふと、一心に祈る自分を、苅屋が優しく見守っているのに気づく。
改めて見ると、斎世親王が一目で恋に落ちたのも
無理なからぬ美しさだった。
朧(おぼろ)に霞んだ瞳、どこまでも上品で清楚な顔立ち…

そう、「飛梅」の精は人間の姿をとる時、
この苅屋をモデルとしていた。
あるいは、道真の心の奥底に眠っている、この美しい養女への
ある種の欲望が、あのような幻影を生み出したのだろうか。

この人も、不幸な方だ… 
松王丸は憐れみの念を禁じえなかった。
苅屋は、一度にこれほどの不幸に襲われ、恐ろしい体験もし、
ほんとうなら精神に異常をきたしてもおかしくなかった。
しかし、覚寿がそれを許さなかった。

覚寿は、苅屋を厳しく叱咤すると、
「丞相の身が案じられてなりません。
ここはしばらく、お前にまかせます」
と言い残し、大宰府へ旅立ったのである。
松王丸はイヤな予感がした… 大宰府で会うかな。



大宰府を目指す者は、もう1人いた。
根黒衆(ネグロス)・火善坊である。
難波の港を目指し、暗い浜辺を早足に進む… と、
「火善坊。道真を殺すことはならぬぞ」

周囲に視線を走らす… 
夜釣りをしている、あの爺… 
頬に、大きなコブがある。

根黒衆を率いる大僧正ですら逆らえない、
謎の首領がいると聞いた。
確か名前は… 魔風大師!
「あれには、使い道があるのだ」

そのかたわらに、獣皮のマントをすっぽりかぶった男… 
猿丸が立っている。
手には、長い革ひものついた山刀。
「魔風大師に逆らう者は… 殺す…」
殺人マシーンの、冷たい瞳が光った。

(火… 火はないか…)
火種を起こす時間は、もはやない。
火善坊は、周囲に目を走らせる。
10メートルほど右後方に、朽ち果て、捨てられた小舟。
沖には、夜行性のイカを捕る漁船の漁火(いさりび)が…

(あれだ…!)
火善坊は、3度の跳躍で、小舟の陰に隠れた。
たちまち飛んでくる山刀が、小舟を紙細工のように粉砕する。
ビッ! と、沖の漁火を指差す火善坊。

猿丸の目が、チラッとその方を… 漁火を、つい見てしまう。
火を見たことにより、「火のイメージ」が猿丸の脳内に発生する。
その「イメージ」を、火善坊は見逃さなかった。
印を結び、真言を唱える。

これは、比叡山での修行で身につけた技である。
「イメージ」の火種から生まれた巨大な火の玉が、
猿丸を飲みこむ。
「!!」
もちろん幻覚であるが、一瞬、猿丸は行動不能になる。

その一瞬のスキに、バラバラになった小舟を燃やし、
本物の火を手にした火善坊。
火さえあれば、もはや無敵である。
「ワ、ワ、ワシは、さ、最後くらい… 
オオオ親らしいこと、してやるんじゃ!」

脂分の多い胃液を口内にため、人間火炎放射器
となって吹き出す。
今度はまぎれもない、本物の炎に包まれる猿丸… その瞬間。
火善坊の肉体は爆発し、火球に包まれた。

「惜しい男を失くした… 老いて、あれほどの域に
達しながら、私情に溺れるとは」
魔風大師は、嘆いた。
猿丸が、いち早く吹き出した「牙つぶて」… 
すさまじい肺活量で発射する「前歯」が、火善坊の喉を貫き… 
オイルのような胃液が漏れ、引火したのである。

応天門を焼いた男、火善坊、逝く。
しかし、その魂は20世紀の京都に転生し… 
再び、貴重な建築を焼くことになる。
詳しくは、三島由紀夫の「金閣寺」を参照。