天神記(三)





4、 大宰府(だざいふ)へ




もう1度、鶏の声が騒がしく響いた…
が、今度のは甲高いし下手くそで、明らかに
人間の鳴き真似とわかる。
「もしかして… さっき鳴いたのもイタズラか?」
「どうりで、やけに早いと思ったよ!」

役人たちも睡眠時間が短縮されたことに、腹を立てている。
イタズラ者を捕まえて、とっちめてやろうと、
鳴き声の主を探し始めた。
「何やら、様子がおかしいですな」
従者の白太夫が、道真の側に控えた。

無顔は、機を逸した。
「どうも、出発にはまだ早いようです。しばし、お待ちください」
自分も捜索に加わるふりをして、道真のそばを離れた。

先ほどの鳴き声が意味するもの… 
それは、無顔が鶏の鳴き真似をして、一行を暗いうちに出発
させようと仕組んだのを、察知した者がいる… ということだ。
いや、それ以上のことまで、見られたかもしれない。
一刻も早く、(他の役人たちよりも早く!)声の主を捕え、
正体を見極め、始末しなければ。
道真は後でいい、道中で殺すチャンスはまだある…

(…あそこだ!)
闇でもきく無顔の鋭い目が、草むらから
飛び出す小さい影をとらえた。
雅視は、裏口から飛びこんで、木戸を閉める。
塀の上に、音もなく無顔が降り立つ…


武部源蔵は道真を裏切り、雅視を討った… 
ということになっているので、役人に
顔を見られるのはよろしくない…
名残惜しいが、早目に玄関から奥の間へ下がった… その時。
裏庭から、子供のうめき声が。

「雅視さま!」
裏庭に飛び出すと、まさに雅視が押さえつけられ、
無顔が針を振り上げている…
源蔵は空中をダイブして、無顔に飛びつく。
なんとか抜け出した雅視は、縁に上がり、
「武部先生!」

「早く! 逃げ…」
無顔ともみ合っている源蔵は、それだけ言うのが精一杯だった。
助けを呼ぼうと、雅視は家の中へ。
「あんじゅさま! 苅屋伯母さま! 来てください!」

異常を察知して、道真と門弟2人、白太夫、覚寿、
苅屋が集まってきた。
「雅視、お前はいったい何をしているのだ?」
「怪しい者が! 裏庭で、武部…」
ちょうどその時、頭から血を流した源蔵が入ってきた。

「源蔵! …賊か?」
「実に身の軽い奴で… 取り逃がしました。
雅視さま、お怪我は?」
「大丈夫です。それより気をつけて! 
あいつは役人に化けてる!」
白太夫が源蔵を介抱し、苅屋が台所へ水を汲みに行く…
源蔵の手の中には、5本の針が隠されていた…

「きえーい!!」
「ぐはあぁっ」
顔面から血を噴き出し、のけぞる源蔵。
覚寿が、すりこぎ棒で激しく打ったのだ。
道真たちは、この老尼が狂ったのかと思った。

「気をつけなされ! 賊は、ここにいる。
源蔵どの、着物が左前になってますぞ」
「え… それじゃ、武部先生は…」
もちろん、裏庭で冷たくなっている。

顔を朱に濡らしながら、無顔は己の痛恨のミスを悟った。
こうなった以上は… ここにいる者すべて、死んでもらうしかない。
「取り押さえろ!」
2人の門弟が、無顔につかみかかる。
一瞬の後、2人の首筋に太い針が突き立っていた。

3本目の針が、道真の眉間に迫ったその時…
障子を貫いて… 閃光の白刃が、無顔の左脇腹に突き刺さる。
「ゲフッ」
崩れ折れるその体に足をかけ、刀を抜き取る男…

ここまで道真を護送してきた、役人の1人である。
「危ないところでしたな…」
眼帯をしたその男は、ニヤリとし、
「拙者、春日の神人… 太岐口獣心と申す者」


集まった役人たちは、あぜんとする他なかった。
死体が4ツ… 仲間の役人が1人、道真の門弟が2人、
武部源蔵(実は無顔)。
本物の源蔵の遺体は、獣心が床下に隠していた。

雅視を討った源蔵が、さらに道真の命まで奪って、
時平の歓心を買おうとした…
道真は、源蔵にそのような濡れ衣を着せたくは
なかったが、獣心が
「そういうことにしなさい。でないと、話がややこしくなる。
それに… この御仁も、あなたに恩返しができて本望なはずだ」

死んだ者たちの供養を覚寿に託し、道真一行は
旅立たねばならなかった。
無顔… 陽成帝廃位、道真左遷といった事件の裏で
暗躍した男、道明寺で眠りにつく。


昼の休憩時間、獣心は道真の牛車に近づいて、ささやいた。
「雅視どのですが… 機転がきくし、勇気もある。
いいお孫さんですな」
やはり、あの子が雅視と見抜かれていたか… 
道真は苦い顔をしたが、獣心の言葉は意外なものだった。

「雅視どのを… わが太岐口の家に、
養子としていただけませんか?」
「なんですと!? 養子とな?」
獣心は、苦みばしった顔に笑みを浮かべ、
「お恥ずかしい話ですが… 種が悪いのか畑が悪いのか、
いまだ跡取りに恵まれず」

「ご兄弟は?」
「弟が2人いましたが、早死にしました。あとは、女ばかり… 
養子でも探さなくてはと思っていたところ、左大臣がこの国を
滅ぼすほどの… フッ、秀才少年がいるというので。
弟子に首を討たれたと聞きましたが、どうせ偽装にちがいない
と思い、あなたについてきたところ… 
雅視どのの活躍を、拝見する機会を得たわけです」

神人か… あまり高い身分ではないが、
寺に隠れているよりはマシかもしれない。
道真は承諾し、覚寿への手紙を書いた。
獣心は難波(なにわ)の港まで道真を送ると、
嬉々として帰っていった。
「道中、くれぐれもお気をつけて。刺客は
あれが最後とは思えません」

こうして雅視は太岐口家の人間となり、表向きは春日神社の
神人として、裏では藤原摂関家を監視する鹿島七家の
エージェントとして、生涯を送ることに。
後に、雅視から4代目(ひ孫)に当たる永家(ながいえ)が、
春日神社の神領である「柳生(やぎゅう)の庄」という
土地の奉行に任じられる。
後世、あまたの剣豪を生み出した「柳生一族」の起源である。
古文書に、「柳生一族の祖は菅原道真」とあるのは、
このような次第による。



時平は、骨阿闍梨(ほねあじゃり)より、
道真暗殺失敗の知らせを聞いた。
「もうよい… もう、お前らの手を借りるまでもない」
この不気味な男とは、これっきり手を切るつもりだった。

「さようでございまするか。ちょうど我々も… 道真公にこれ以上
関わってはならぬと、大僧正より沙汰(さた)がありまして」
「何? 根黒寺の大僧正が… なぜだ?」
「さあ? 我ら下っぱには、知りようもございませぬな… 
ただ、何やら恐ろしい予感が」

骨と別れた後、時平は舎人の松王丸を呼び出した。
「手下を連れて、筑紫(つくし=九州)へゆけ… 
何をするか、わかってるな?」
松王丸は、凍りついた。
ついに、この時が…


覚寿は源蔵を荼毘(だび)にふした後、出家した苅屋を
使者にして、芹生の里、源蔵の妻・戸浪のもとへ、
遺髪を届けさせた。

「わざわざ、ありがとうございます…」
涙ながらに席を外す戸浪を、苅屋は
痛々しくて見ていられなかった。

戸浪は土間で、短刀でのどを突いて自害した。
苅屋が駆けつけた時は、すでに手遅れで、
血で書いた文が残されていた。
「私がこの手にかけた小太郎さんが、あの世で
寂しくないよう、いっしょに遊んであげます」
立て続けに夫婦2人の死に直面した苅屋は、
もはや仏にすがるしかなかった。


「む、む… 無顔が…」
どもりながら、年老いた火善坊は泣いていた。
「み、道真を、わ、わ、私に」
「ならぬぞ、火善坊。お前まで、任務に私情を挟んでくれるな」

骨阿闍梨の頭には、掟を破った外道人・安梅の
記憶が、苦々しく残っていた。
「お前が、せがれの顔を焼いた時… 
親としての情は捨てたはずじゃないか」
それはちがう… 顔を焼いたのは、
あの子に生き延びてほしいから。
火善坊もまた、掟を破り、九州へと向かうのだった。



難波(大阪市)から博多(福岡市)まで、
瀬戸内海を船で30日かかるという。
道真一行は、周防(すおう)の国の国府に着いた。
現在の山口県防府(ほうふ)市である。

防府といえば、漂泊の俳人・種田山頭火
(たねだ さんとうか)の生まれ故郷。
「うしろすがたのしぐれてゆくか」(しぐれる=涙を流す)
今の道真の心情にピッタリの句であるが、
山頭火の誕生は、1000年近く先の話。

「周防へよくいらっしゃいました、菅丞相。
私は国庁から遣わされた藤井といいます」
「同じく、清水です。ここでは、ゆっくり骨休めをしてください」
親切そうな2人の役人が、一行を迎える。

国司の土師信貞(はじ の のぶさだ)は、朝廷の
命令に違反してまで、道真を厚遇してくれた。
久しぶりの酒とご馳走、立派な邸でゆるりと体を休め、翌日出発。
親切な藤井・清水の役人コンビが、いつまでも船を見送っていた。

後に、国司の館に道真の霊を祀ったのが、
現在の「防府天満宮」である。
防府天満宮 公式サイト 
http://www.hofutenmangu.or.jp/
11月の御神幸祭では、道真の送迎をした役人コンビの子孫、
藤井さんと清水さんが代々、奉行を勤めるしきたりである。


博多に着いた時、長旅の疲れと精神的ストレスで、
道真の髪は真っ白になっていた。
上陸しても、足元がフラフラしている。
地元の漁師たちは道真を見て、身なりこそボロボロだが、高貴な
オーラが出ているし、身分のある方に違いないと思った。

「どうぞ。よろしかったら、こちらでお休みください」
ゴザもないので、綱をとぐろに巻いたものを
敷物がわりに差し出した。
「む… これはありがたい」
遠慮なく、道真はそこに腰を下ろし、体力が回復するのを待つ。

この場所が、現在の博多区綱場町、
「綱敷(つなしき)天満宮」である。


牛車を調達し、再び陸路を大宰府に向け出発。
途中、川を渡る時、道真は水を一口飲もうと、車を降りた。
と、水面に映る顔… 白髪頭の老人のように
しなびた顔を見て、ショックを受ける。
「う… うわああああああ」

ここが現在の「水鏡(すいきょう)天満宮」であり、
福岡市の繁華街「天神」は、これに由来する。
「天神」といえば「親不孝通り」、屋台にラーメン、もつ鍋…
紀元前、日本で最も早く稲作が始まった先進地域、
21世紀にはアジアで最も住みやすい都市に
選ばれる福岡も、このころは寂れた田舎である。
先に進むにつれ、道真の絶望は増していく。


そして終着点、大宰府に到着。