天神記(二)





18、 嵐の前




昌泰(しょうたい)元年(西暦898年)、
第60代・醍醐(だいご)天皇の御世。

ここは道真生誕の地、大和の菅原の里。
今は空き家となっている菅原の邸を、道真に長年仕えた
四郎九郎(しろくろう)という男が管理している。
60才になり、頭が白く染まってきたので、
最近は「白太夫(しらたゆう)」と呼ばれる。

この正月は珍しく、都で働いている3人の息子が集まり、
白太夫の還暦を祝ってくれた。
長男の梅王丸(うめおうまる、27才)は、道真のもとで
牛追い(運転手)を勤めている。
腕っぷしの強い、熱血漢。
「親父! おめでとう!」

次男の松王丸(まつおうまる、25才)は、
5年前に時平の牛追いとして就職した。
どこか陰のある、頭の切れる男。
「父上… おめでとうございます」

三男の桜丸(さくらまる、19才)は、宇多上皇の
第3皇子・斉世(ときよ)親王の牛追い。
少女のようにまつ毛の長い、心優しい若者である。
「とおさん、おめでと(はぁと)」

白太夫は、嬉しそうに息子たちを見回す。
「3人とも… りっぱになったな」
この幸せの先に、兄弟父子で血を流し合う、
恐ろしい運命が待ち受けていようとは…


京の都の白梅殿でも、新年の祝いに菅原一族が集まっていた。
54才になった道真のため、長男の高視(たかみ、
23才)が長寿楽を舞う。
妻の宣来子(のぶきこ)は、道真のかたわらに…
孫の雅視(まさみ、4才)は、美しく成長した養女・苅屋
(かりや、 21才)の膝の上に…
誰もが明るく笑い、幸せそうに見えた。

「まもなく、私はこの国の頂点に立つ…
その姿を先生にお見せできないのが、なんとも心残りであるな」
義理の父で、師でもある島田忠臣は、6年前に亡くなっていた。
「父も、私も、幸せでございました… 
あなたとめぐり合うことができて…」
正直、結婚したころは、夫がここまで
出世するとは思わなかったろう。

菅原道真、破滅の時まで、あと3年。



若葉のころ、法性坊尊意は比叡山の奥深く、
誰も知らない洞窟の中にいた。
「老師… お願いいたします」
「では、まいる」
最奥の暗がりで、坐している人物がうなづいた。

陽炎のように、幻のように揺らめくその姿は… 
盛り上がった頭骨、眠たそうな瞼、まさしくそれは
6年半前に入寂したはずの、智証大師・円珍!
「黄不動尊! 出でませい!」
オオオーンと雄叫びを上げ、黄金の巨人が
円珍の頭骨から飛び出す。

巨人の振り上げる拳、蹴りかかる足を、尊意は両手で印を組み、
裂帛の気合で唱える真言(呪文)の力だけで止める。
見えない壁に巨大な拳が阻まれ、火花が散る。

突然、黄金の巨人が口から火を噴いた。
「!!」
尊意の体が、炎に包まれる。


今や比叡山の長老格となっている相応(68才)は、
尊意のことを苦々しく思っていた。
その昔(尊意の少年時代)、弟子として、かわいがった男である。
だがその後、天狗の愛弟子となって魔道を学んだくせに、
ノコノコと比叡山に戻ってくるとは、なんたる図々しさ…

しかし、かつての座主・円珍は、遺書を残していた。
「尊意は、必ず比叡山に帰ってくる。
天台座主を継ぐ男となって…」

相応はもともと円仁の弟子であるので、
円珍に対しても好意をもっていない。
今回のことも、尊意の受け入れに反対する円仁派が、
円珍派に押し切られた形だ。
相応をはじめ、円仁派の不満はくすぶっている。

抗議の意味もこめて、相応は7年間にわたって
山内を歩き回る荒行を始めた。
「千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)」の創始である。

最終的に歩く距離は、地球1周に匹敵する4万キロ。
途中で投げ出す者は、自害しなけれなばらない掟である。
ただ歩くだけでなく、9日間の断食・断水・不眠・不臥
(横にならない)を決行する「堂入り」の行もあり、
まさしく死とスレスレ、極限の荒行だ。

この行を達成した修行者は、信長の比叡山焼討ち以降、
これまでに47人。
(焼討ち以前は、記録が残っていないので不明だそうだ。)
2008年現在、48人目となるべく、星野圓道(えんどう)さんが
挑戦中である。
達成した者は、京都御所に土足のまま参内が許されるという。


「火の観法(かんぽう)・業火滅却(ごうかめっきゃく)!!」
尊意の指が三角の印を組むと… 炎は消滅した。
まるで、停止ボタンを押して、CGの再生を止めたかのように。
黄金の巨人も、いつのまにか消えていた。

「鉄甲護身、滅火(めっか)の法… 見事であった。
だが、そなたが戦うことになる相手は黄不動より、
もっと恐ろしい怨霊であるぞ。
そう… かつての真済阿闍梨よりも…
心しておくがよい」
「いったい何者なのです、その怨霊とは? 老師…?」

円珍が、暗闇に中に薄まっていく。
「この2年間、こうしてそなたを鍛えてきたが、この世に
とどまるのも、そろそろ限界らしい。後を任せたぞ、
次郎坊天狗… 叡山を、仏法を、この国を、帝を…」
円珍の存在が0%となった。

「老師… ありがとうございました…」
この洞窟には、始めから、尊意ただ1人しかいなかった。



そのころ、京の都、東五条院。
現在の中宮(ちゅうぐう)温子の住居であり、廃位された
伯母の高子も、ここにやっかいになっていた。
ここは、高子が幼少のころ養育された家でもある。
初めての恋人、業平が忍んで逢いに来た家でもあった。

伊勢は、しばしば高子の部屋に遊びに行っては、
和歌のコーチをした。
かわりに業平のことや、いろいろな昔話を
聞くのが楽しみであった。
ある日の高子が詠んだ歌は秀逸で、伊勢を感動させた。

雪のうちに 春はきにけり 鶯(うぐいす)の 
こほれる涙 いまやとくらむ

(雪はまだ残っているのに、春が来てしまった。
鶯の凍れる涙は、今は融けているだろうか)

業平と無理矢理に引き裂かれて以来、
高子の心は凍りついたままだという。
その氷を融かすかと思われた、熟年になってからの
善祐との情熱の恋。
しかし、それもまたスキャンダルとなり、高子の廃位、
善祐の流刑という破局に終わった。

高子のこれまでの人生を知る伊勢は、
この歌に涙をおさえることができない。
「高子さま… せめて、私に物語を書くことを、お許し下さいませ。
後世に、あなたさまや業平さまの思いを、
残したく思うのでございます」

高子は、いつもながらの何を考えているのか、わからぬ表情で、
「かまいませんよ。実名さえ出さなければ… 
例えば業平さまのことは… そう、
『昔、ある男がおりました』みたいな書き方をすれば」

「昔、男ありけり…」
伊勢は、紙と筆を取った。

「伊勢物語」という、古典文学がある。
作者も、いつ成立したかも不明だが、だいたいこの頃である。
在原業平をモデルにしたっぽい主人公が登場し、
高子っぽい女性とのロマンスも描かれている。
しかしタイトルの「伊勢物語」が、なぜ「伊勢」なのか
理由は定かではない。



夏も終わりというころ、温子は東五条院の斜め
向かいにある朱雀院(すざくいん)に引っ越した。
ここは現在、日本写真印刷鰍フ敷地になっている。
(携帯電話やニンテンドーDSのタッチパネルを作っている会社)

朱雀院は、天皇が譲位後に住む御所であり、
今は宇多上皇が住んでいる。
温子は再び、夫である上皇といっしょになれたわけで、秋には
2人で仲良く「女郎花合(おみなえしあわせ)」を主催した。

「女郎花合」とは、歌合せの一種だが、歌を書いた紙に
各自持参した女郎花の花を添えて提出する。
ちなみに、「おみなえし」に「女郎花」の字を当てたのは、
菅原道真という説あり。
「女郎」はこの時代、貴族の令嬢を意味する、
「マドモワゼル」みたいな言葉だった。

伊勢は、なじみの顔と再会。
立派な髭を生やしたいかめしい顔、がっしりした体格。
「あら… 大将軍。お久しぶり」
「その呼び方はおやめください! 
伊勢どの、今日は負けませんぞ」

伊勢が「大将軍」とあだ名をつけたその男は、
歌のライバルでもある。
将軍のような外見の内側に、乙女ちっくな繊細な心をもつ男。
紀貫之(き の つらゆき、33才)であった。

6年前の「寛平御時后の宮の歌合せ」の時、貫之は
伊勢と同じ「春」のテーマで歌を詠み、そして敗れた。
この勝負がきっかけで、貫之は伊勢に尊敬の気持ちをいだく。

平仮名も練習して、使いこなせるようになった。
「うふ…」
平仮名を書いていると、いかつい髭の大将軍は、
つい乙女のような心持ちになってしまう。

実際、平仮名はこのころ、貴族の女性の間に
爆発的に広まりつつあった。
宇多上皇の文書の訓注にも、片仮名に替わって平仮名が登場。
(公式文書で初めての、平仮名の使用)
さらに、7年後の延喜(えんぎ)5年(西暦905年)には、
紀貫之が古今和歌集の序文を平仮名で書くという、
画期的な試みを行うことになる。

この女郎花合では、残念ながら伊勢も貫之も、
どんな歌を詠んだのか伝わっていない。
代わりに、時平のなかなかいい歌が残されている。

をみなへし 秋の野風に うちなびき 
心ひとつを たれに寄すらむ




翌年、昌泰2年(西暦899年)には、
伊勢の産んだ行明親王が早世。
数え5才であった。
自らの腕に抱くことの、ほとんどなかった、初めての我が子。
伊勢はただ、惜別の歌を詠むことしかできなかった。

死出の山 こえてきつらむ ほととぎす
 恋しき人の 上かたらなむ


死出の山を越えてきたのだろうか、あの不如帰(ほととぎす)は…
恋しいわが子の、身の上を語っておくれ

親王の父親である宇多上皇、かつて親王の誕生を妬んだ温子、
自身もさんざん愛する者たちとの別れを経験してきた高子…
手を合わせる人々の胸に、伊勢の歌が深く染みこむ。

「すぐに会えますよ… お嬢さまに残された時間だって
あっという間にすぎますから」
久しぶりに再会した八重は、大した感情もこめずに言う。

まさしく、時はたちまちにして流れ、やがて10世紀を迎える。
日本史上最も奇怪な事件が多発した、魔の世紀を…



天神記(二) 完