天神記(二)





16、 空蝉(うつせみ)の




寛平6年(西暦894年)を、もう1度プレイバック。

プロレスラーのような巨漢の僧侶、醍醐寺の聖宝が
吉野の南、山上ヶ岳に入って2日目。
先達(ガイド)を務める箱屋勘兵衛(はこや かんべえ)
という男が、大きなホラ貝を取り出し
ぶお〜 ぶお〜 ぶお〜
それは、日本の山野に初めて響き渡る、
ホラ貝の音であったかもしれない。

どれほどの時が流れたであろうか…
「やっと、お出ましのようじゃ」
いつも笑顔を浮かべている柔和な聖宝の顔が、凄みを帯びた。
バキッボキッと指を鳴らす。

かつて東大寺での修行時代、フンドシ一丁で
牝牛にまたがり、都の一条大路を
「ワシが東大寺の聖宝じゃあ」
と叫びながら、通り抜けたこともある。

「もしそんなことができたら、お前ら全員に、
美味いものをおっごちゃるよ」
と、ケチくさいことで有名な長老が言うので、
ついついやってしまったのである。
それほどの豪傑であった。

野太いホラ貝の音に誘われて、巨大な蛇が姿を現した。
山上ヶ岳の東の山麓、阿古滝に棲みついた大蛇で、この山に
入りこんだ修行者を、片っ端から食らってきた。
今、聖宝の目と、巨大な爬虫類の目が合う。

ところで、こんなアナコンダみたいな大蛇が、
日本にいるものだろうか。
東京の奥多摩あたりでも、戦前まで「丸太棒くらいの太さ」
の蛇が、ゴロゴロいたという。
爬虫類は、死ぬまで成長を続ける。
獲物が豊富で天敵がいなければ、長生きして
どんどん大きくなるだろう。
昔の日本は、今と比べ物にならないくらい
自然が濃く、豊かだったのである。

電光石火のスピードで、大蛇が聖宝の頭にかぶりつく。
と同時に、10メートルはある胴が一瞬にして
聖宝の体を締めつける。
生きたネズミを蛇に与えると、まさにこんな風に餌食にするが、
今の聖宝は手足を動かすこともできない。

「聖宝さまっ」
先達の勘兵衛は青くなった。
勘兵衛は奈良の住人であり、山に入る時は必ず
餅飯(もちい=もち米を干したもの)をもっていった
ので、「餅飯殿(もちいどの)」と呼ばれている。

今でも奈良市内には「もちいどの通り」が残り、勘兵衛の住居跡
には箱屋本店(http://www.hakoya.info/)が営業している。
(でも平安時代に、箱屋勘兵衛なんて名前ありえないから)

「金剛力招来!!!」
聖宝の全身の筋肉が盛り上がった。
大蛇は八つ裂きになって飛び散る。
聖宝の肉体の表面を、筋肉がウネウネと
生き物のように蠢いている。

これほどまで見事なマッチョボディを、人に
見せつけたい気持ちもあったのだろう、
例のフンドシ行進事件の時は。
勘兵衛も、惚れ惚れと聖宝を見上げ、
「さすが聖宝さま… これで、この山にもお堂が建てられます」

この年、聖宝は荒廃していた吉野の金峯山寺
(きんぷせんじ)を復興している。
(金峯山寺本堂は、東大寺大仏殿に次ぐ巨大木造建築)
さらにこの後、この山上ヶ岳にも堂宇を建立。
21世紀の今日でもなお女人禁制の修行場、
大峯山寺(おおみねさんじ)である。

金峯山寺と大峯山寺は、もともと1つの寺であった。
どちらもユネスコ世界遺産に指定されている。
金峯山寺 公式サイト http://www.kinpusen.or.jp/

と同時に、「修験道(しゅげんどう)」という新しい宗教も生まれた。
日本古来の山岳信仰と密教が融合したもので、滝に打たれたり、
火の上を歩いたり、ホラ貝を吹き鳴らしたりするアレである。

修験道を実践する人を、修験者(しゅげんじゃ)、
あるいは山伏(やまぶし)という。
伝説では、修験道の開祖は飛鳥時代の役小角(えん の おづぬ)
ということになってるが、実際はこの頃の密教僧たち、特に
聖宝こそが修験道のスタイルを決定した功労者であろう。



寛平7年(西暦895年)、正月。

「伊勢、なぜ黙っていたのです… こんな大事な… 
おめでたいことなのに」
暗く重たい表情で、温子は切り出した。
「いえ、あの… 心苦しく思いまして…」
あの日以来、温子との関係はギクシャクしたままである。

もちろん、伊勢は悪くない、それはわかっている。
帝のご指名を、一介の女房である伊勢が、
断ることなどできない。だが…

あの日以来、以前にも増して、伊勢が
美しくなったような気がした。
これまでのツンツンとんがったところがなくなり、
円やかに、艶やかになったように感じられ…
温子の気持ちは、釈然としなかった。
その上、帝の子を宿してしまうなんて…

「私に知られるのが、恐ろしかったのですか? 
私が摂関家の人間だから?
お前の子供を殺してしまうかもしれないから?」
言って、すぐに後悔した。
「…ともあれ、今日から宿下がりですね。
体をじゅうぶん、いたわるように」

妊娠中は、御所に勤めることはできない。
実家に帰って、産休を取ることになる。
伊勢は、顔を伏したまま退出した。

温子がふと目をやると、床板の上に点々と
涙のこぼれた跡が…
(私は、なんということを…)
伊勢を泣かせてしまうなんて、初めてのことだった。
温子は、激しい自己嫌悪に襲われた。



この年、菅原道真は権中納言に叙任。
(「権(ごん)」がついてるのは、「中納言のポストは定員いっぱい
だけど、特別にもう1人追加しちゃうよー」という意味)
さらに長女を、宇多帝の女御として入内させている。


8月25日、風雅な文化人にしてヘタレ貴公子である
源融(みなもと の とおる)、没。
生きることにものすごい執着があったようで、死の直前まで
寿命を延ばす仙薬の研究をしていたそうだ。


正確な没年は不明だが、道真と親交のあった
絵師の金岡も、このころ没している。
晩年は和泉(いずみ)の国に住んでいたが、妻に
先立たれて以来、すっかりボケてしまっていた。

「ばあさんや… 御所まで行ってきますよ」
絵筆をもって夜の町に消え3日後、川から
老絵師の遺体が引き上げられた。
事故なのか、あるいは自殺なのか、それはわからない。

ずっと後の寛和(かんな)2年(西暦986年)、
金岡は神として祀られる。
金岡神社 公式サイト 
http://www.kanaokajinjya.com/index.html



9月、伊勢は24才で初めての出産を経験した。
男子である… 行明(ゆきあきら)親王と名づけられた。
皇子であるから、伊勢が自分で育てるというわけにはいかない。
赤ちゃんは母親の手から奪い取られ、
専用の乳母、養育係に預けられる。
(この制度は昭和の時代に、当時の妃殿下である
美智子さまが廃止されるまで続いた)

まもなく、伊勢は御所に戻ってきた。
「よかった… お前が帰ってこないと、私が
追い出したみたいで、体裁悪いから」
「申し訳ありません」
「なんで、そんな浮かない顔してるの?」
温子は笑った… そして、ため息をついた。

「とうとう… 女として無上の幸せを手に入れたのですね…
美貌、才能、名声、そして帝の愛、元気な皇子の出産… 
お前は全てを手にしたのです」
「宮さま…」
「思えば、初めて会った時から、この人に自分が勝る点は
何ひとつない… そんな風に思っておりました。
正直に申して、お前を妬んだことも1度や2度ではない」
「……」

「私など… 実家のため男の子を生む、それだけのことすら
成し得ない… お前が藤原摂関家の娘なら良かったのに… 
私など、単に… お前の踏み台でしか…」
その先は、涙が詰まって、言葉にならなかった。

「宮さま。私は、幸せなど手にしておりません」
それだけ言い残すと、伊勢は自分の局(つぼね)に下がった。



しばらくして帝は再び、伊勢を御寝所に召した。
温子の悲しげな視線を背に受け、伊勢は清涼殿に向かう。

帝の愛は… いや、男たちの愛というものは、いずれ
移ろいいくものであると、伊勢は身にしみていた。
自分の体に宿った命、我が子との絆こそ確かなものであると、
妊娠中は感じていたが、死ぬような思いをして産み落として
みれば、あっさりと取り上げられてしまった。
この世には、何ひとつとして頼れるもの、
すがれるものはないのか…


帝が清涼殿の御寝所に入ると、
「おや?」
そこに、伊勢の姿はなかった。
ただ焚き染めた香の匂いが立ち昇る、まだ暖かい
小袿(こうちぎ)が1枚、残されている。
(小袿とは、貴族女性の準正装の上着)

帝は苦笑して、
「まるで空蝉(うつせみ=蝉の抜け殻)だね…
仕方ない。今夜は、この香りを抱いて眠るとしようか」


温子は眠れないので、廂(ひさし=縁側)
に出て、月を見上げていた。
すると、伊勢が渡殿(わたどの=屋根付きの
渡り廊下)を、こちらに来るではないか。
「伊勢? 今ごろ何かあったのですか? 小袿は?」

空蝉の 羽におく露(つゆ)の 木がくれて 
忍び忍びに 濡るる袖かな

(蝉の抜け殻の、羽に置かれた1滴の露が、木の葉に
隠れて見えないように、人には見せないけれども、
私の袖も涙で濡れているのです)

返事の代わりに口ずさんだのは、この歌だった。
温子の中で、何かが弾け、こみ上げてきた…
伊勢は、決して幸せなんかじゃない… 
幸せなら、こんな歌は出てこない。
そして、伊勢を守ってあげられるのは
自分しかいなかったのに…

温子は自分の袿を1枚脱ぐと、伊勢にかけてやった。
「まったくもう… お前には、いつも振り回されますよ。
しょうがない… 帝には、私からお詫びしておきます」

2人は並んで、廂に腰を下ろした。
「宮さま… あの… あのね… 私の幸せは…」
「あれだけポタポタと露をこぼしておいて、
「忍び忍びに」もないでしょうに」
「え?」

温子は、伊勢の手をしっかりと握りしめた。
「今度はもう、絶対に離さない」
伊勢の顔に、久しぶりに笑顔が戻った。
「幸せです…」

紫式部は後に、伊勢のこの歌にインスパイアされて、
源氏物語の「空蝉」の章を書いたという。