天神記(二)





13、 御盾(みたて)




昭和20年(西暦1945年)、第124代・昭和天皇の御世。

12月16日、元首相・近衛文麿(このえ ふみまろ)は、
東京都杉並区荻窪(おぎくぼ)にある自邸・「荻外荘
(てきがいそう)」で青酸カリを飲み自殺した。
A級戦犯として巣鴨拘置所に出頭を命じられており、
この日が最終期限だった。
現在はラーメン激戦区として知られる荻窪に、
荻外荘は今も残っている。

もし文麿が巣鴨に出頭していれば、天皇を戦犯に
するための証言を取られるはずだった。
天皇を守るための自害… 
だとすれば、まさしく「御盾(みたて)」として死んで
いったことになるが、真相はわからない。
(ちなみに巣鴨拘置所の跡に建つのが、
現在のサンシャイン60である。)

近衛文麿は、日本最初の関白・藤原基経から
数えて37代目に当たる。
祖父の忠煕(ただひろ)は、最後から
2番目の関白となった人物。
「政治権力を持ち、皇室と密接な関係にある藤原氏」という
意味では、文麿が「最後の藤原氏」と言えよう。
荻外荘も、「枇杷殿」「本院」といった藤氏長者の
邸の系譜に連なる、最後の家となった。

杉並区で、藤原氏の歴史は終わった。



いつのことかも定かでない、遥かなる神代(かみよ)の昔。

高天原(たかまがはら)より、葦原中国(あしはらのなかつくに
=日本)の筑紫(つくし=九州)の日向(ヒムカ=宮崎県)に、
天孫・瓊瓊杵尊(ニニギのみこと)が天下った。
太陽神・天照大神(アマテラスおおみかみ)の
孫にあたる神である。

「天下り」というと、最近は悪い意味でばかり耳にするが、
本来は神が地上に降り立つことを意味する。
ニニギの天下りは特別に、「天孫降臨
(てんそんこうりん)」と呼ばれる。
(宮崎県には、宮内庁が認定したニニギの陵墓が残っている!)

これが、皇室の祖先が日本に降り立った
最初の瞬間、ということになる。
GHQによって天皇が神であることが否定され、歴史の
教科書にもニニギなんて出てこないが、宮内庁がニニギを
実在の人物(神?)として扱っている以上、天孫降臨は
日本政府の公式の見解ということにならないだろうか。


ニニギには、大勢の家臣団が随行していた。
その1人が、天児屋命(アメノコヤネのみこと)である。
職業は神官であり、おそらく占いとか、死者の霊を呼び
出したりとか、いろいろな呪術が使えたのだろう。
彼は地位も高く、終生ニニギのそば近くに仕えたと思われる。

アメノコヤネから数えて10代目の子孫が
国摩大鹿島(くになず の おおかしま)。
名前から察するに、恐らくこの人物から
「鹿島」の地と関わるようになったのだろう。


常陸(ひたち)の国(=茨城県)の鹿島は、日本列島がカクッと
曲がる曲がり角のすぐそばにあり、日の立ち上る方向に面した、
まさしく「ランド・オブ・ライジング・サン(日出ずる国)」である。
漢字では「常陸」と書くヒタチの国だが、「日立」の方がふさわしく、
天孫降臨の地・日向(ヒムカ)と不思議な好一対になっている。

そして、ヤマト朝廷と東北の異民族が対峙する最前線
でもある鹿島には、神武天皇のころ創建されたという、
武甕槌大神(タケミカヅチのおおかみ)を祀る社があった。
(現在の鹿島神宮)
鹿島神宮 公式サイト http://www.bokuden.or.jp/~kashimaj/

タケミカヅチとは、恐るべき戦闘能力を持った武神、剣の神。
出雲(いずも)の王・大国主(おおくにぬし)に国譲りを
承諾させた後、東日本でも戦いまくって、ヤマト王権に
逆らう勢力を次々にねじ伏せていった。

その正体は何者なのか、素性が謎に包まれた神であり、
なぜそこまで皇室に尽くすのか、その理由も不明である。
わかっていることは、「布都御魂剣(フツノミタマのつるぎ)」
という恐るべき霊剣(鹿島神宮の宝物館で、これのレプリカが
見学できる。必見!)を使うこと、その他いろいろな不思議な
術を操るということ。


どういう経緯があったか詳細は不明だが、このタケミカヅチを
祀る社の神職に、国摩大鹿島は任命された。
さっそく大鹿島が祝詞(のりと)を奏上していると、タケミカヅチの
神霊が現れ、不思議の術の数々を伝授してくれた。

重力を消滅させたかのように、宙を舞う… 
体の一部を、刃や岩に変える…
不思議な鈴の音を鳴らして、死者を生き返らせる…
こういった術を何のために使うのか、そして大鹿島の
使命は何なのか、タケミカヅチの神霊は告げた。

「天孫(あめみま=歴代天皇)の御盾となって、お守りすること…
その御世が、千代に八千代に、さざれ石が巌(いわお)となって、
苔の生すような長い長い間、終わりなく続くように…」


大鹿島から7代目(アメノコヤネから16代目)、国摩真人
(くになず の まびと)という人物が、鹿島に伝わる不思議な
術を集大成し、「東国七流」と呼ばれる体系に整理した。
別に、彼がこれらの術を編み出したわけではなく、タケミカヅチ
から伝わる秘伝をまとめただけなのだが、「鹿島神術の祖」と
崇められ、以後、彼の嫡流は「真人」の名を襲名するようになる。
「真人」の名は神秘性を増し、いつしか
「魔人」と書かれるようになった。

この「東国七流」こそ、やがて生まれる日本剣術の、
大いなる源流である。


時は流れ、アメノコヤネの子孫たちも、いくつかの
支族に分かれていった。
中でも特に重要な7つの家系を「鹿島七家」というが、
それは以下の通り。

1、国摩(くになず)氏
アメノコヤネの直系の子孫、鹿島七家の宗家である。
ある時点で歴史から名を消すが、影から鹿島七家を支配。
長者は代々、「真人(魔人)」を名乗るしきたり。
「国摩」の名は一部の武道関係者を除いて、
ほとんど知られていない。

2、中臣(なかとみ)氏
初代「真人」の子、中臣鎌子(かまこ)を祖とする、
鹿島神宮の宮司の家系。
一般的に、鹿島の宗家といえば中臣家と思われているが、
実は国摩の分家にすぎない。
有名な中臣鎌足(かまたり)を輩出する… 
つまり、藤原氏の源流。

3、卜部(うらべ)氏
中臣氏と同じく、アメノコヤネを祖先とする一族。
いつごろ本家から分かれたか、卜部氏は
いろいろ種類があって複雑だ。
鎌倉時代に吉田神社の神主になって「吉田」姓を名乗る家系が
1番メジャーな卜部氏と思われるが、この家系から「徒然草
(つれづれぐさ)」の著者、吉田兼好が出ている。
また、「吉川」姓の家系は、剣豪・塚原卜伝
(つかはら ぼくでん)を生み出す。

4、香取(かとり)氏
香取神宮の宮司の家系。
香取と鹿島は密接な関係があるが、謎の部分も多い。
香取神宮 公式サイト http://www.katori-jingu.or.jp/

5と6は不明である。

7、岐(くなど)氏(太岐口家)
タケミカヅチを鹿島へと導いたクナドの神を祀る
息栖神社の神職の家系。
息栖神社 公式サイト 
http://www.bokuden.or.jp/~kashimaj/syokai14.htm



時は7世紀。
仏教の伝来とともに、渡来人系の蘇我(そが)氏が勢力を
伸ばし、特に蘇我馬子(そが の うまこ)の代になると、
逆らう者は帝すら亡き者にするほど、専横を欲しいままにする。

鹿島神宮では7人の神官が集まっていた。
いずれも「鹿島七家」の長者たちである。
宗家である国摩真人が、重々しく一同に告げた。
「鹿島の大神より、勅命が下された… 
鎌足(かまたり)を大和に遣わす」

中臣家の鎌足… 智謀に並外れたものがあり、
秘密工作員として特別な訓練を積んだ若者。
蘇我氏を倒し、鹿島七家の工作員が直接、朝廷の
奥深くに入りこんで、天孫(あめみま)を守る。

「よいな、鎌足。お前の使命は… 
帝の御盾となって、お守りすること。
その御世が、千代に八千代に、終わりなく続くようにすること」


皇極(こうぎょく)2年(西暦643年)。
蹴鞠(けまり)をしていた若き皇子、中大兄皇子
(なかのおおえ の おうじ)の靴が脱げてしまう。
その靴を素早く拾い、うやうやしく捧げた男こそ… 中臣鎌足。
この出会いこそ、天皇家と藤原氏の長い旅の始まりであった。

皇極4年(西暦645年)、「大化の改新」の始まりである。
宮中で、蘇我入鹿(いるか)の首が血しぶきとともに舞った。
中大兄皇子と鎌足の、血塗られたクーデターである。
朝廷の実権を握った皇子は、残りの蘇我一族を攻め滅ぼした。


天智2年(西暦663年)。
滅亡の危機に瀕した朝鮮半島の百済(くだら)を救おうと、
中大兄皇子は軍隊を派兵するが、唐と新羅(しらぎ)の
連合軍に敗れてしまう。
逆に、日本が唐に攻めこまれる危険性が高まった。

翌、天智3年(西暦664年)。
皇子は国家防衛のため、九州に防人(さきもり)
という兵団を配置する。
主に東国から徴兵された農民たちで編成され、九州に
派兵される前に皆、鹿島神宮で武運を祈った。
(これを「鹿島立ち」という。)

今日よりは かえり見なくて 大君(おおきみ)の 
醜(しこ)の御盾と いでたつ我は


万葉集:に収録された、防人の歌である。
「醜い、卑しい私だが、この身を大君(天皇)の盾と
して捧げるため、旅立っていく」
といった意味で、三島由紀夫が結成した
「楯の会」は、この歌からの命名である。

霰(あられ)ふり 鹿島の神を 祈りつつ 
皇御軍(すめらみいくさ)に 我は来にしを


という歌もあり、どちらも大東亜戦争時に復活、
愛唱されることになる。


天智8年(西暦669年)。
重病の床にいる鎌足は、死の直前、「藤原」の姓を賜る。
鎌足の子孫は、寄生植物である「藤」の名の通り、
皇室にからみつき寄生し、栄華の礎を築いていく。


和銅3年(西暦710年)、奈良・平城京に遷都。
この年、鎌足の次男・不比等(ふひと)は奈良の都の東、春日の
御蓋山(みかさやま)に鹿島の神を遷して祀り、春日神社とした。
後の世界遺産、春日大社である。
春日大社 公式サイト http://www.kasugataisha.or.jp/

鹿島神宮で神の使いとして大事にされていた
鹿たちも、おすそ分けされ、移ってきた。
現在、鹿たちがブイブイいわせている奈良公園は、
もともと春日神社の境内である。
移ってきたのは鹿だけではない。
太岐口家を始め、鹿島七家の者たちも多数やって来た。

春日神社は、鹿島七家の奈良支局なのである。
(そして吉田神社は、春日神社の京都支局)
皇室と皇祖神(アマテラス)に狂信的なまでの
忠誠を尽くす、タケミカヅチの見えざる手は、
奈良にも京都にも伸びているのである。



元慶4年(西暦880年)には、鎌足から8代目の基経が
関白に就任、藤原氏の繁栄は、揺るぎないものとなった。
だが藤原氏の真の使命は、「帝の御盾となる」ことである。
究極的には、帝から政治的実権を奪い、
自らが日本国の支配者となること。

なぜなら、もし帝が自ら政治を行い、失政した場合、
民の非難は帝に向かうことになる。
そうなれば皇室を打倒し、新たなな王朝を
築こうとする者も現れるだろう。
中国の歴史などは、まさにそれの繰り返しである。

天命が革(あらた)まることを「革命」という。
藤原氏が全ての政治を行えば、民の非難は
藤原氏が盾となって受け止めることができる。
万が一革命が起こっても、革まるのは藤原氏であり、
皇室は生き続けることができる。
(東京裁判では、まさにこの通りとなった。)

「天孫(あめみま)の御盾となって、お守りすること。
その御世が、千代に八千代に、さざれ石が巌(いわお)となって、
苔の生すような長い長い間、終わりなく続くように…」

タケミカヅチの意志は、少なくとも20世紀までは
生き続けたわけである。
そして、21世紀の現在は…