天神記(二)





12、 獣心(じゅうしん)




もう1度、寛平3年(西暦891年)に戻る。

ここは大和と河内の境、信貴山(しぎさん)。
春先、1人の若い僧が、この山を修行の場と定めた。
美しい顔立ちに精悍さを秘めた、彼の名は
命蓮(みょうれん)、27才。
かつて日本中の雨を止めた鳴神上人の弟子、白雲坊である。


あれは8年前。
妙子に書いてもらった紹介状を持ち、彼が向かった先は
都の東南、笠取山(かさとりやま)の聖宝(しょうぼう)
という名僧のもと。

「雲の絶間さまの知り合いか、そなた」
聖宝は2メートル近い大男で、坊主よりはプロレスラーといった
感じだが顔は柔和で、いつも笑みを浮かべている。

かつて東大寺で修行していたころ、古い僧坊に
巣食っていたアナコンダのような大蛇を、殴り
つけて放り出したという豪傑である。
ただでさえ怪力なのに、法力(超能力)によって
さらにパワーアップするという。

「この山の湧き水は美味いぞ… 醍醐(だいご)のような味がする」
(醍醐とは、古代日本に存在したチーズ?
ヨーグルト?のような幻の乳製品)
後に堂宇が整備され、ユネスコ世界遺産・醍醐寺となる。
公式サイト http://www.daigoji.or.jp/

紹介状の間から、紙が1枚ひらひらと落ちた。
「ん? これは」
「あ… それは返してくだされ」
聖宝が広げてみると、「色即是宙」の文字とキスマークが。

「これは拙僧が預かっておく」
「え… そんな…」
「どうせ、そなたもあの人に童貞を奪われた口だろう。
まったく、困ったお方だ… 私の前では、真面目に
修行に打ちこんでいなさるんだが…」
後でこのキスマークに、チューしてみようと
考えている聖宝であった。


こうして、笠取山での修行が始まった。
想像を絶する困難な修行の末、もともと素質の
あった命蓮の法力は強大になり、ついには
念じただけで、岩を動かせるまでになる。
(実際には、人々の記憶を書き換え、
岩が動いたように思わせている)
そして入門3年後の仁和2年(西暦886年)、
命蓮は特命を帯び、仁和寺へと派遣される。

ここは、宇多天皇が創建した真言宗の寺であるが、
「藤原基経を呪殺すべし」
という恐るべき極秘プロジェクトが始動していた。
そのための祈祷を24時間体制で行うチームに、
命蓮は編入されたのである。
外部に漏れたら、無事では済まない。

気が進まなかった。
確かに基経は傲慢な男だが、仏に仕える者が呪殺など…
2年後、ついに命蓮は仁和寺を脱走。
権力争いでドロドロした都には、ウンザリしていた。

そして、この年… 霊気あふれる、理想の
修行場を信貴山に見出した。
今は、毘沙門天を祀った小さなお堂が1宇あるのみだが、
聖徳太子とのゆかりもある、由緒正しい霊場らしい。


「関白さま(基経)が亡くなったか…」
呪殺かどうか定かではないが、帝の待ち
望んでいた時代が来たのは確かだ。
基経の跡目の時平はまだ若く、他に有力な藤原氏もいない。
源(みなもと)姓をもつ元皇族たちを重要なポジションに
つけるなど、藤原氏を極力排除する方針で、宇多帝は
体制を固めていく。
摂政や関白でなく、帝が自ら政(まつりごと)を
行うのは久しぶりのことだった。

妙子が皇子を出産したというニュースも聞いた。
甘酸っぱい思い出が蘇ってきたが、それを振り切り、
死ぬまでこの山から下りまい… 
と、決意を固める命蓮であった。

「さてと… 腹が空いたな」
この孤立した山頂で、どうやって食料を調達しようか。
そういえば、旅の途中で通った山崎の地…
あそこには、ずいぶんと立派な米倉が並んでいたな。
ようし、ここはひとつ…



藤原時平はある日、女房の「侍従(八重)」を連れて、
新築中の邸を見に行った。
今まで住んでいたのは「枇杷殿(びわどの)」と呼ばれる邸で、
これは現在の上京区清元町の辺り。

新しい邸は、基経が生前から時平のために
造営していたもので、後に「本院」と呼ばれる。
場所は枇杷殿から近く、堀川通と椹木町(さわらぎちょう)通
の交わる北東一帯。
どちらも今は住宅街となってしまっているが、
掘れば何か出てくるだろう。

「本院」の邸は、建物があらかたでき上がっており、
これから庭の造成に入るところ。
がらんとした母屋に上がりこむと、
「まもなく尚侍(しょうじ)さまもいらっしゃる… 
そそうのないよう頼むぞ、侍従」
どことなく気乗りしない様子の時平であった。

尚侍とは、「ないしのかみ」とも読むが、天皇の秘書軍団とも
いうべき内侍司(ないしのつかさ)というセクションの長官。
宮廷女官の最高位であり、陰の実力者。

これから時平が会う「尚侍さま」とは、基経の
腹違いの妹、藤原淑子(よしこ)である。
この年54才、基経のふところ刀として、宮中での
数々の秘密工作をサポートしてきた。
基経亡き今、実質的に藤原摂関家の
リーダーのような立場にある。

時平は、この伯母が好きでないし、恐ろしかった。
2年前、彼女から極秘の指令を受けたことがある。
まだ5才の敦仁(あつひと)親王に接近し、
それとなく監視せよと言うのだ。

敦仁は宇多帝と、その最愛の女性・胤子との
間に生まれた皇子である。
この皇子が皇太子になるのは、なんとしても防がねばならぬ。
皇太子には、温子の産む皇子がならねばならぬ…

母親に甘えるあどけない皇子を遠目に見ながら、
なんという罪深い一族なのだろうと、自らに流れる
血を呪わずにはいられない時平であった。
あの皇子は俺が守ってやる… 
そんな気持ちすら湧いてきた。
それが通じたのか、幼い皇子は不思議と
時平になつくようになっていた。


しばらくして、淑子がやって来た。
「尚侍さま、わざわざどうも。さっそくその辺をご案内しましょう」
「邸など、見なくとも結構」
「え… それじゃ、今日はなんのために…」

「今宵、あるお方がここを訪れます… 
そこの女房を接待のために残して、他の従者は全て枇杷殿に
帰らせなさい。私たちは今夜泊りになりますから、明日の朝、
車で迎えに来るよう言っておいて」
淑子の目つきが常になく険しく、緊張感が漂っている。

「いったい、どなたが… まだ、調度も何もないのに…」
「春日の使者です。何もないほうがよろしい。
盗み聞きされないからね」
「春日? っていうと… 奈良の氏神さまですか?」

淑子がまっすぐに時平を見た。
「あなたは今宵、藤原氏の実質的な長者
となるのですよ、参議どの」
時平はこの3月、参議に昇進している。

※参考 大臣のランクは以下の通り
太政大臣>左大臣>右大臣>大納言>中納言
>参議(時平)>少納言>(以下略)


夜中になった。
「本院」には、時平と淑子と八重の3人だけである。

「いらっしゃったようです」
男が1人、月の光を浴びて、母屋の前に立っていた。
八重は淑子に命じられて、離れに引き下がった。

「吉田神社の神人頭… 太岐口獣心
(たきぐち の じゅうしん)である」
右目に眼帯をした男が、ずかずかと母屋に上がりこんできた。
時平は、不快そうに男を見て、
「吉田神社… 神主の霊道はどうした? 
たかが神人ふぜいが、非礼にもほどがあるぞ」

獣心と名乗る男は、冷笑を浮かべた左目で時平を見下ろし
「非礼と思うなら斬ったらどうだ? 
腰に吊るした剣はオモチャか、小僧?」
時平の目が光った。
「俺を甘く見るなよ、下郎」

言うが早いが、抜き放たれた刃が獣心の胴をなぎ払う… 
かに見えたが、剣は獣心の体を素通り… 
「!?」
獣心の体に「波紋」が現れ、そして消えた。

「水月の術… 水面(みなも)に映った月を斬るが如し。
鹿島七家に伝わる神術の1つである」
「か… 鹿島七家!?」

「我が太岐口の家は、表向きこそ春日神社の神人に
身をやつしているが、元を正せば鹿島七家の1つ… 
タケミカヅチ大神を鹿島へと導いた岐(クナド)の神を祀りし、
常陸(ひたち)の国、息栖(いきす)神社の神職を、
神代(かみよ)の昔より務める家柄である。
そして今は… 魔人(まびと)さまの命を受け、鹿島七家の
影の任務を遂行する、影の一族」

時平は混乱しながらも、「鹿島」という名前に、
説明できない恐怖が湧き上がるのを感じた。
藤原氏の源流、鹿島… そして、遥かいにしえの… 
神代(かみよ)の昔の物語…
「マビト… なんだ… 聞いたことがあるが、思い出せない… 
だが、はるか昔の人間のはず…
今この時代に、生きているわけがない人間だ…」

「魔人さまは生きておられる。
国摩魔人(くになず の まびと)様こそ、天児屋命(アメノコヤネ
のみこと)の直系の子孫、鹿島七家の宗家であられる。
そして、うぬら藤原氏とは…」
ビッと時平を指さし
「魔人さまが操る、傀儡(くぐつ=操り人形)にすぎんのだ」

頭を殴られたような衝撃を、時平は味わっていた。
彼の父、基経は清和帝や光孝帝などの天皇を
傀儡のように操ってきたではないか…
その藤原摂関家が、得体の知れぬ、何者とも
知れぬ人物の傀儡だと?

突如ぽっかりと開いた、時空を超えた暗黒の穴に
時平は飲みこまれようとしていた。
そして否応無しに、藤原摂関家の宿命を知ることになる。