天神記(二)





11、 時の砂




寛平3年(西暦891年)。

人魚の肉を食った女・八重は、関白・
藤原基経の邸で正月を迎えた。
基経の長男・時平(21才)の女房となったから。
女房といってもワイフの意味でなく、
高級な侍女のことだが、主人が男性
であれば、寝所に侍ることもある。

「お嬢さま… 仲平さまとうまくやってるかな…」

八重は、いずれ睦月が自分を置いて
旅立っていくことを知っている。
自分とちがい、限られた「時の砂」
しかもっていないのだから。

しかし睦月の死ぬところなど見たくはない、
その前に睦月の元から去らねばならない。
睦月が幸せの絶頂にいる今が、
距離を置くのにいい機会。
今なら私がいなくなっても、お嬢様の
心の穴を埋めてくれる人がいる。

そんなことを考えていると、門の前で
車から降りる男を見た。
「ふーん。あれが噂の菅原道真か」
中年を越え、だいぶアクの強い顔になっている。


基経は顔色がかなり悪くなっていたが、
身なりを整え、道真を迎えた。
「あなたは文章博士であるが、これからはその職を
いったんおいて、もっと重要な仕事をやっていただく。
位もそれに見合ったものにする。
なにしろ、私はもう長くはないし、子供たちは
まだ若い。あなたに… あなたに、子供たち
を支えていただきたいのだ」

道真は、深々と頭を垂れた。
ここまで、俺を信頼してくれているとは…

「あなたの昇進については、帝からも
存分にせよと承っている。
例の阿衡事件で、あなたに助けられたと
思し召しておられるようだ」
基経は苦笑した。

関白と帝という2大権力者から愛された
道真は、実に幸せな男といえよう。
役職名を羅列しても面白くないから省略するが、
この直後から道真は昇り竜のごとく、出世街道
を駆け上がっていく。
だが同時に、破滅の刻まで10年を切り、
カウントダウンが始まっていた。


1月13日、基経の容態が悪化した。
「とき… 時平… 帝の御世を… 
御盾(みたて)となりて…」
「なんですか、父上? 御盾とは?」

時平は派手な顔つきの、華やかな雰囲気を
持つ貴公子だったが、その目の奥には
どこか暗い陰と酷薄さがあった。
今も死にゆく父を前に、心から
悲しんでいるふうでもない。

「決して… 皇室から離れ… からみついて…」
病床の基経は、それ以上は声が出なかった。
やがて、絞り出すように…
「我が時の砂… 尽きたり…」

陰謀に生きた男・基経、逝く。
21才の時平は、摂関家の家長と
いう重責を担うことになった。
邸の空気が変わったのを、八重は感じた。


そのころ都の南、深草に住んでいた上野岑雄
(かんつけ の みねお)という歌人は、基経の
訃報を聞き、その死を悼む歌を詠んだ。

深草の 野辺の桜し 心あらば 
今年ばかりは 墨染に咲け

(墨染=喪服の色)

これ以後、深草の墨染寺(ぼくせんじ)という寺では、
桜がピンクではなく薄墨色に咲くようになったという。
(京阪本線「墨染駅」下車徒歩3分)



「いくらコレオさんの願いとはいえ、それは
まずいよ… 不正行為じゃないか」
自称・菅原道真のライバル、三善清行
(みよし の きよつら)はこの時44才、
肥後介(ひごのすけ=熊本県副知事)
に任じられたばかりである。

今日は友人の陰陽師、弓削是雄(ゆげ の これお)と
ともに比叡山延暦寺へ参拝に来ている。
是雄は相変わらず風采の上がらない
小男で、年齢不詳な外見。

「清行さん、頼むよ。とても気の毒な人でね…」
「座主の円珍どのにバレたら、えらいことになるぞ」
肥後へ発つ前に、道中の無事を祈願しよう
と出てきたのだが、とんでもないことに
つき合わされることになった。


是雄は去年、都の通りで1人の
年老いた僧を見かけた。
思いつめた表情で、凶相を示す赤い光が額に
出ており、気になって後をつけてみると、やはり
鴨川に身を投げようとしていた。

寸前で自殺を止め、事情を聞くと、
「試験に落ちた」と言う。
前にも書いたが、この時代の僧侶は国家公務員
であり、正式な僧になるには国家公認の寺で
試験に受かり、「戒」を授からねばならない。

自殺しようとした老僧は、60才を超えてるのに
いまだに見習い僧で、今年も資格試験に落第
したと言うのだ。
今風に言うと、40浪くらいしてる就職浪人
なわけだが、本人はあまりの情けなさに
絶望して、生きる気力を無くしていた。

「私は陰陽師だが、まだ完全に運気が
去ったわけではない、とお見うけする」
とにかく今年1年、死ぬ気で勉強して、
来年もう1度だけチャレンジしなさい。
それでダメなら完全にダメだから、
その時は死になされ。

そのように説得してその場は別れ、
そして1年が立った。


「だからといって… 術を使うというのは…」
試験が行われるお堂が見えてきた。
「大丈夫、2週間ほどバレなければ… 問題ない」
「どういうこと?」
2人は木立の間に隠れた。

ちょうど、試験官たちがお堂の方に歩いてくる。
是雄は蛸のような魔神の絵図が
書かれた紙を広げ、印を結んだ。
「ぷりぷりタコ明神… 
ぷーるぷるのぷーりぷりー」

試験官たちはお堂に上がりかけたが、
たちまちクニャクニャ〜と脱力して、
タコのような状態で失神する。
「さ、清行さん… たのんだぞ」

清行は、あらかじめ用意してあった
法衣に着替え、頭巾をかぶった。
ここまで来たら、最後までつき合うしかない。

清行がお堂に入ると、例の老僧が
思いつめた紫色の顔で待っていた。
「えー… それでは、ただ今より
試験を行いましょうかね」

オカルトマニアの清行は、密教の知識も豊富にある。
適当に答えやすそうな問題を出題、
老僧は7割くらい正解した。

「はい、合格ですよ」
「ええええっ 本当ですかッ」
老僧は腰を抜かして呆然とし、涙をダラダラ流す。
清行はなんとなく後ろめたい気持ちで、
そそくさとお堂を出た。

本物の試験官たちは、是雄の催眠術に
よって偽の記憶がインプットされていた。
彼らは実際に老僧に試験を行い、みごと
合格したのだと思いこんでいる。
1週間後、老僧は戒を授かり、国家公認の
正式な僧侶となった。


さらに1週間後。
清行は、例の老僧が病死したと聞かされた。
「コレオさん。あんた、知ってたんだね? 
あの人の寿命が残りわずかと」
「最後にいい夢を見せてあげられた… よかったよ」
「あんた… 優しいな」

是雄は、意味不明な文字の書かれたお札を取り出し、
「今回の件では、あんたにもずいぶん世話になったね。
お礼といってはなんだが、この札をあげよう」
「なに、これ?」
「燃やして、その灰を飲むんだ。そうすると、あんたが
死んだ後… 一瞬だけ生き返ることができる」


清行が肥後に旅立ってしばらく後、天台座主の
円珍が、是雄を訪ねてきた。
「陰陽頭… このたびは、うちの修行僧が
お世話をかけましたようで」
「これは円珍老師… 見抜かれておいででしたか」
是雄は苦笑したが、円珍は別に責めるふうでもない。

「陰陽頭には、人の寿命が見えておられるようだ… 
私に残された時の砂は、どのくらいでしょうな?」
是雄は目をそらした。
「はて… 常に見えるというわけでもないので…」

「実は… 情けない話ですが、私が唐から
持ち帰った経典の翻訳や整理が、いまだ
済んでおらぬのですよ。
本当ならば帰国して後、残り一生を近江の
園城寺にこもって、その作業に費やす
つもりでいたのですが。
座主などなったばかりに、くだらない
雑事に追われてしまい… 
今寿命が来ても、無念で死に切れないのですよ」

是雄は、まっすぐに円珍のおにぎり頭を見つめた。
「あと… 半年と少々、ですか」
ふうー… と、円珍は息を吐き出した。
「よかった… それだけあるのか。
これからすぐ戻り、自分のやるべき
ことを全力でやろう」



このように是雄には、死期の近づいた人の
寿命を読む能力があったのだが…
この力には、死角もあった。
自らの死期は読めないのである。

夏に突然、是雄は倒れた。
健康診断のない時代なので、倒れた時は
たいてい手遅れになっている。
そういえば作者も、長いこと健康診断を受けていない。

病の床で是雄は、自分の後を継ぐ人材が
育っていないことを気にかけていた。
せめて、あの子が… もう少し成長する
までは生きていたかった…
彼が大和の鴨(かも)の里でスカウトした、
天才霊感少年… 鬼丸(おにまる)。


夢か幻か、はたまた予知能力か、是雄は
自分の葬儀の風景を見ていた。
鬼丸少年がいる、奈良の藤原継蔭もいる。
肥後から2週間近くかけて、清行もかけつけてくれた。
「雲の絶間」こと妙子が、清行の肩に
すがりついてワンワン泣いている。
みんな、さよなら…

円珍は是雄の供養のため、経を上げていた。
是雄が自分より先に逝くことは、わかっていた。
稀代の霊能者・円珍にも、死期を
読む能力はあったのである。
ただし自らの死期が見えないのは、是雄と同様。

「今年中に私は死ぬ。ついては、
皆に言っておくことがある」
円珍は弟子たちを集め、葬儀方法その他を遺言。

いよいよその日が来ると、住坊を掃除させ、
花とお香をそなえさせた。
「この部屋に、御仏や菩薩さまが
お集まりになっておられる…」

是雄の予言通り、円珍は10月29日に78才で入寂。
後に朝廷より、「智証大師」の称号を送られる。