天神記(二)
9、 入内(じゅだい)
仁和4年(西暦888年)、8月17日。
基経とモメてる渦中の宇多天皇は、都の北西・御室
(おむろ)に、真言宗の仁和寺(にんなじ)を創建。
後に日本史上最初の法皇となって、ここに住む。
(ちなみに健康器具や自動改札機を作っているオムロン
という会社は、御室で創立したのでオムロンだそうだ)
ユネスコ世界遺産・仁和寺
公式サイト http://web.kyoto-inet.or.jp/org/ninnaji/
9月15日、絵師・巨勢金岡(こせ の かなおか)
は御所にいた。
仁明天皇以降に出た優れた漢詩人たちの肖像を、
障子絵に描く仕事を受注したのである。
そのラインナップは菅原道真、その師匠
にして義父でもある島田忠臣。
富士山に登り、羅城門の鬼と合作したという都良香。
昼は内裏の政庁で働き、夜は冥府に下って
閻魔大王の秘書を勤めたという怪人・
小野篁(おの の たかむら)、などなど。
「こうして並べてみると、壮観だの。漢詩人と
いうのは、なんともクセモノぞろいだわい」
日本人は和歌に劣らず、漢詩も
たくさん作ってきたのである。
和歌に比べると、なじみが薄いというか、
作品を目にする機会も少ないが…
教科書にのるのはたいてい、李白など
本場中国の作品である。
しかし漢詩人たちには、不思議で
オカルト的なエピソードが多い。
漢詩を作る=中国の書物を自在に読みこなせる
=道教や陰陽道の知識が豊富=妖術が使える
にちがいない(笑) という連想なのだろう。
漢字そのものにも、魔力や呪力を
感じていたのかもしれない。
さて、金岡は仕事の合間に、「温子さまの
入内が正式に決まった」という噂を聞いた。
ということは、基経の関白就任をめぐる
今回の騒動も、まもなく決着ということか。
また、「小野小町2世」と呼ばれる天才少女が、
女房として出仕するらしい、とも耳にした。
金岡は、部屋を見回す。
新しい妃や小町2世も、これらの
障子絵を目にすることだろう。
私はやがて消えるが、私の絵は長く残って、
御所の人々を見守ることになる…
今回が、彼にとって最後の大仕事になりそうだ。
そのころ伊勢(睦月)は、温子の髪をくしけずっていた。
いよいよ決まった入内を前に、
温子はナーバスになっている。
「どうせ私の髪はお前のように長くはないし、
色もなんか薄くて見苦しいです><」
「何も言っておりませんのに。ねえ、うさ子」
「胤子さまの髪も床に届くくらい長くて、
黒々してるのだろうか」
「胤子さまだって、どうせ私の美しさにはかないませんよ」
「ああ、なんてことを>< でも、お前がいると心強いです。
胤子さまって… どんなお方なのでしょうね?」
「胤子さまご自身は、大人しいというか
地味なお方ですよね。
ただその出生に関わる物語が、
たいそう興味深くておありです」
「胤子さまのご出生? 聞かせてたもれ、その話を」
「それでは身分の低い者ですが、私専属の語り部が
おりますので、その者に語らせたいと思いますが、
御前にお通ししてよろしゅうございますか?」
こうして侍従(八重)が参上し、胤子の物語を語り始めた。
かつての摂政、藤原良房(よしふさ)さまの弟君に、
良門(よしかど)さまという方がおられます。
(紫式部のひいひいお爺さまに当たる方でございます。)
良門さまのご次男・高藤(たかふじ)さまは、
お若いころ、たいそう見目麗しい貴公子で
あらせられまして、ある時、山科(やましな)
へ鷹狩りにお出かけになりました。
山科というのは、京の都と大津の
間にある盆地でございます。
ところが途中で雨にあい、郡司の宮道弥益
(みやじ の いやます)という者の家で雨宿り
されることになりましたところ、その家には
列子(たまこ)さまという、美しい年頃の
お嬢様がおられまして、お2人は一目あい
見たときから、恋に落ちたのでございます。
父親の弥益が、どうしてもと勧めますので、
高藤さまは一晩お泊まりになりましたが、
列子さまの美しさが忘れられず、夜中に
忍んでいかれたのでございます。
「列子さん… 私のものになっておくれ…」
「高藤さま… 明日は都にお帰りになり、私の
ことなど忘れておしまいになるのでしょう。
イヤです… 私をお捨てになってはイヤ…」
高藤さまの若くたくましい肉体に、列子さまの
白い柔肌が蛇のようにからみつき
「………」
「…………」
「……これ。なぜ、そこで止める?」
「温子さまが、ああ申しておられる、早くつづきを」
「この部分、自粛いたします」
「ええええええーっ」
「伊勢。お前はこの者に、夜ごとこういう
物語を… な、なんて…」
「めっそうもございません><」
「ひどい時は1日3回くらい、男女の睦み合いの物語を」
「おだまり!」
「まあ、しかし。おおよそ読めてきましたが…
この時に宿した子が胤子さまですね?」
「明らかに父親は、こういう展開を期待してますよね。
地方の郡司といえば、都の貴族に比べ低い身分。
娘が高藤さまの子を宿せば、出世の糸口になる…」
さて、翌日。
高藤さまが帰宅なさいますと、父上の良門さまは
たいへんお怒りになりました。
なんの連絡もせず外泊するとは、こちらは一晩心配
して胸を痛めていたというのに、なんという不良な
息子だ、もう2度と鷹狩りに出ることは許さん!
しかしこの時代、電話があるわけでなし、
連絡といっても難しいものです。
まして高藤さまはとうに20才を過ぎてらっしゃい
ますし、少し過保護ではないでしょうか。
ともかく、高藤さまは外出もできない、
列子さまに連絡もできない…
このまま、6年の歳月が過ぎたのでございました。
6年後、ようやく高藤さまは外出を許され、
山科の宮道の家をお訪ねになりました。
「長いこと待たせたね… 約束どおり
帰ってきたよ、列子!」
「私もお約束どおり、他の殿方からの求愛は
いっさいお断りしまして、あなたさまだけを
お待ち申し上げておりました…」
列子さまのお隣には、小さな女の子が
ちょこんと座ってらっしゃいました。
後に宇多天皇の更衣となられる、
胤子さまでございます。
宮道の家はその後、勧修寺(かじゅうじ)
というお寺になりました。
勧修寺の公式サイトをご紹介したいのですが、
まだないようでございます。
「6年も訪ねてこないなんて、おかしいですよね…
なんらかの方法はあるだろうに」
「こっそりと使いの者に手紙をもたせるくらい、
あっこでもできそうです><」
「その6年の間、高藤さまには他に
女性がいましたね。まちがいなく」
「…ともかく、胤子さまのお生まれに
難があることはわかりました」
「そこをつけば、こちらの勝利の
突破口が見えてきそうですね!」
10月、温子入内。
ほぼ同じタイミングで、菅原道真の書状により、
橘広相に対する追求はお流れに。
帝と基経の和解が成った。
内裏とは、複数の建物(殿舎)を渡り廊下で
連結した構造になっている。
帝の住まい=清涼殿(せいりょうでん)
胤子の住まい=承香殿(じょうきょうでん)、清涼殿の北東
温子の住まい=弘徽殿(こきでん)、清涼殿の北
毎夜、承香殿に通う帝の姿が遠くに見えた。
温子のところには、まったく寄ろうとしない。
「伊勢… どうしよう……」
「もうしばらく… 様子を見ましょう。ことと
次第によっては、胤子さまを…」
「伊勢、お願いだから過激なことはやめておくれ><」
11月、温子は妃として2番目のランク
である「女御(にょうご)」に昇格。
12月、入内から2ヶ月が過ぎても、帝の
訪れは、ただの一夜もなかった。
温子はすんすん泣いてる日が多くなり、伊勢と
侍従は少しでも主人の気分を晴れやかにしよう
と、いろいろがんばったが…
「夜中にこっそり、「郡司の娘」って書いた
張り紙を承香殿に張ってきますよ。
精神的に胤子さまを追いつめるんです」
伊勢もいいかげん、テンパってきた。
そんな時、突然… 帝からの使者が、
「お出ましになられます」
と告げてきたので、大急ぎで準備をする。
伊勢が全身全霊をこめ、温子の髪とメークを整えた。
帝は優しかった。
「せっかく来てくれたのに、体調がすぐれず、長いこと
顔も出せずにいて、すまないことをしたね…
おや、うさぎさんが2匹いるのかな?」
ぬいぐるみのうさ子と、赤い目をした温子を見比べて。
温子はほどなく最初の緊張も消え、
笑顔を見せるようになった。
「実をいうとね… だいぶ前から胤子にせっつかれ
てたんだ。弘徽殿によってあげなさいって。
きっと寂しい思いをなさってますからって」
「そうなんですか… 胤子さま、お優しい…」
「うん、優しい人だよ。仲良くしてあげてね」
温子は非難するように、じろっと伊勢の方をにらむ。
伊勢はこそこそと退出し、温子は
初めて帝の腕に抱かれた。
翌、寛平(かんぴょう)元年(西暦889年)。
帝の確かな愛情が感じられるようになった。
基経に対する嫌悪は消えないが、温子に
罪がないのは帝もよくわかっている。
父親とはまるで似ていない温子の「永遠の少女」の
ようなところが、帝の心を溶かしはじめていた。
温子はすっかりきれいになり、伊勢の
目にもまぶしく映るようになった。
「伊勢。お前にもすっかり苦労をかけましたね…
今度は自分の人生を楽しむ番ですよ」
「はあ…」
「伊勢は… 男の方との恋愛は、まだなんでしょう?」
にっこり微笑む温子のプリンセスのオーラを
浴びながら、伊勢は
(負けた…)
と、感じていた。