天神記(二)





8、 伊勢の御(いせのご)




仁和4年(西暦888年)、第59代・宇多天皇の御世。

少し時が戻って、この年の正月。
奈良の学者、藤原継蔭(つぐかげ)の邸。
娘の睦月(むつき)が、17才になった。
昔の人は数え年なので、正月にいっせいに年をとる。

「うちの娘はどういうわけで、こんなにも
ひょろりと伸びてしまったのか?」
親が不思議に思うくらい、背が
すらりと伸びて163cmもある。
真ん中で分けたつややかな髪は床に届き、
この時代にしては大きな目、大きめの口、
きりっとした眉。
日本人離れした美貌を、
「小野小町を思わせる」
と言う人もいた。

「八重さんはいくつになったの?」
「100才から先は覚えてない」
睦月は大口を開けて笑いかけたが、
ピタリと止め、しげしげと八重を眺める。

このアンニュイでミステリアスな美貌の侍女は、
4年前に会った時から、まったく変わってない。
今の2人は、どう見ても同じ年頃の娘にしか見えない。
「ふーん。そういうこともあるのかもね」

睦月は八重に顔を近づけ、大きな目で
無遠慮に眺めまわした。
「八重さんが物の怪だろうと、天女だろうと、
どうでもいい。おもしろいから」
「おそれいります」
八重は、目をそらした。

初めて会った時から物怖じせず、好奇心まるだしで
八重に接し、裏も表もないあけすけな性格の睦月が、
だんだん好きになっていた。
しかし、いずれはお嬢様も私を残して、
遠い世界へ旅立っていく。
夫や子供たちとの別れを思い出し、あんな思いを
するなら、必要以上に人に関心をもちたくない
八重であった。

「お正月だし、何かおもしろい話して」
「越後(えちご)の国の松山という村で、
聞いた話でございます」
0.1秒も間を空けずに、ロボットのように
話し始める八重に、睦月はめんくらい
「八重さんて、日本中行ってないところはないんじゃ…」

「そこの村人は昔、鏡というものを見た
ことがなかったそうでございます」
「鏡がないって、どんだけ田舎…」
「その村には、庄助どんというたいへん親孝行な方が
おりまして、その孝行ぶりがたいそう評判になりまして、
国司さまよりごほうびを賜ることになりまして、国司さまは
何がほしいかと聞かれたそうでございます」

「庄助どんは、若いころ死に別れたおとうに
会いたいと答えたそうでございます。
国司さまは、つづらに鏡を入れて庄助どんに
与えると、申されたのです。
ててご(父親)に会いたいときは、人のいない
部屋でこのつづらを開けてみよ…」

「わかった! 庄助どんは鏡に映った
自分の顔を父さまと思って…」
「それ以来、庄助どんは暇ができると納屋に
隠したつづらを開けて、中に映った自分の
顔に話しかけていたそうでございます。
しかしある日、不審に思った奥方が、つづらと
話してる庄助どんを見てしまい」

「庄助どんが野良に出ているころを見計らい、
こっそりとつづらを開けてみたのでございます。
すると中には、女の人がいるではありませんか。
くやしい。うちの人はこの女と浮気を。むきいい。」
八重はまったく無表情のまま話しているのだが、
睦月は笑い転げた。

「庄助どんが家に帰ると奥方が責め立て、ついに
とっくみあいになったのでございます。
そこへ、村の尼寺の安寿さまが通りがかり、
けんかをお止めになりました。
事情を聞いて、その女人と私が話してみましょうと
申され、つづらを開けたのでございます。
そして、2人のところへ戻って申されるには…」

「………」
「その女人は、浮気のおわびに頭を丸めて、
尼になりましてございます」
「(≧▽≦)ぎゃははははははははは!!」
腹を抱えて床を転がる睦月。
そこへ、父の継蔭が血相を変えて飛びこんできた。

「睦月! た、たいへんなことになったぞ!
まさしくこの瞬間から、睦月の前に、
激動の運命が幕を開けようとしていた。
腹をかかえて笑い転げる平和な
少女時代は、終わりを告げたのだ」
「お父さま、落ち着いて。セリフでなく
地の文を読んでますよ」

「お前が指名されたのだよ… 関白どのの
ご息女の、女房に… しかも、そのご息女は… 
近々、入内(じゅだい)なさる…」
「な… (“゚ロ゚”;)ナンダッテー!!」
入内とは、天皇の妻になることである。


睦月は美貌だけでなく、歌の才能も
小町の再来と評判が立つほどである。
関白基経からお呼びがかかっても、不思議はないが…

「お父さま! 私、都に行く。
待ってたんだ、この時を… 
小町さまみたいな歌人になって、
天下に名を轟かせてやる!
それに、うまくいけばお父さまの役職ももっと…」

睦月の家は、「藤原」の一族ではあるが、過去に
権力闘争に敗れ、落ち目になった藤原氏である。
政治の世界では居場所がないので、やむなく
学問で身を立てることにしたのだが…
その学問の世界でさえ、菅原一門に押されている現状。

今、菅原道真は都にいない。
私がうまくやれば、我が一族が学問の
要職を占有できるかもしれない。
菅原道真… あんたは天才漢詩人かもしれないけど、
この睦月さまだって、天才歌人なんだからね…
17才の少女の大きな瞳に、野望の炎が燃え上がった。

「睦月… なんか1人で都に行っても
ぜんぜん大丈夫そうだな」
「心配しないで、お父さま。八重さんが
そばにいてくれるから」
「えっ 私も行くんですか?」
「行くのでございます」


こうして基経の娘、温子(おんし、又は、あつこ)の
女房として勤めるべく、睦月は都に上った。
女房ネームは「伊勢(いせ)」。
父の継蔭がかつて、伊勢守(いせのかみ
=伊勢の国司)だったことによる。

睦月の身の回りの世話をすべく、八重も同行した。
こちらは、「侍従(じじゅう)」という侍女ネームがついた。
侍女の身分ながら、その美貌と博識ぶりは
睦月に負けないくらい評判を呼び、やがて
「侍従の君」と称されるようになる。



さて、いよいよ主と初対面である。
「伊勢というのはお前ですか… 
大和出身なのに伊勢ですか。
私は都以外は知りませんが、どうぞよろしくね」
かわいいが、どこか気の強そうな声である。

深々と顔を伏せたまま、こういうタイプとは合わない
かもしれない… と、睦月は考えていた。
甘やかされて育った、お嬢様タイプ。
八重の情報によると、睦月と同じ17才。
ちなみに「伊勢」という名は、睦月が
自分で選んだわけではない。

「顔を上げていいですよ。私が藤原あつ子です」
顔を上げると、ぼろきれで作ったうさぎのぬいぐるみ…
らしきものが、睦月の目の前に突き出されていた。
「これが藤原うさ子です」

( ゜,_ゝ゚)プ… という顔をしてしまったのだろう。
同じ17才とはいえ、自分とは知的レベルが
ちがいすぎるようだ。
「い、今… 笑いましたね?」
「めっそうもございません」

うさぎを抱きしめ、顔を真っ赤にして怒る温子は、
ぱっちりした目に茶色がかった髪の、声の
印象の通り、かわいい少女だった。
が、そこらへんにふつうにいそうな顔立ち… 
と言えなくもない。
今、目の前にいる睦月の輝くような美しさに、
明らかに圧倒されている。
しかも座ったままでも、身長の高い睦月は威圧感がある。

「長い… ヘチマのように長い方ですね」
無理して、睦月を笑い返したつもりだったのだろう。
睦月のこめかみに、血管がピキッと浮かび上がった。
出会った瞬間、すでに最悪の関係となっている2人である。

「何が長いって?」
突然、基経が入ってきたので、睦月は再び平伏した。
「お父さま! …髪がたいそう長くて、すてきな方ですね」
基経は睦月のいる前で、おもむろに温子をだっこした。

「そうだろう、あっこ。この人はいずれ
高名な歌詠みとなる人だ。
しっかりと歌の勉強をさせてもらいなさい」
帝と対立して世間を騒がせている男とは
とても思えない、とろけるような表情である。

「こんなふうにだっこできるのは、今のうちだけだよ。
中宮さまになったら、あっこはもう父さまの娘ではない、
神さまのような存在になってしまうからね」

顔を伏している睦月の耳に、温子の
すすり泣く声が聞こえてきた。
「お父さま… あっこはどこにも行きたくないです…」
睦月は、温子の置かれている状況を、
今さらながら理解した。

この子供っぽさの抜けない娘は、
ただ1人嫁いでいく… 
帝のもとへ。

しかも、帝にはすでに夫人がいる。
源定省と呼ばれた臣下時代に妻とした、
藤原胤子(いんし、又は、たねこ)である。
2人の間には、すでに皇子も生まれている。
そこに、温子は割りこんでいかなければならない。

胤子を押しのけ、帝の愛を獲得し、男子を産む。
それが藤原摂関家の繁栄のため、
温子に課せられた使命なのだ。
思えば、過酷な運命である。

ちなみに、胤子は現在「更衣(こうい)」という位であり、
これは妃としては3番目のランクである。
温子も同じ「更衣」として入内するが、父親が
権力者なので、すぐに2番目のランクである
「女御(にょうご)」に昇格、やがては最高位
である「中宮(ちゅうぐう)」となるだろう。


この後、睦月は基経と2人きりで、面接することになった。
「入内したら、あの子のそばにいるのはあなただけです… 
くれぐれも、くれぐれも… 娘をよろしくお願いします」
権力のため娘を道具に使う非情な男と、娘を心から
気遣う父親と、両方の顔をもつ基経を、睦月は見た。



しかし、入内は先延ばしになり、
なかなか予定が決まらない。
帝が、「基経の娘などまっぴらごめんだ」と、
抵抗しているらしい。

どうやら、阿衡(あこう)の紛議を丸く収める
かわりに、温子の入内を認める、そういう
取引が水面下で行われているようだ。

自分を嫌っている相手のもとへ嫁がねばならない、という
事実に温子は落ちこみ、めそめそすることが多くなった。
「せめて私が、ヘチマのように美しくて才能があったら、
帝も私を好いてくれるだろうに…
私ってかわいそうだよね… ねえ、うさ子」

「今しがたヘチマと聞こえたのは気のせいと存じ上げ
ますが、美しさの方はどうにもならなくとも、歌の方は
勉強しだいでマシになるものでごさいます。
入内までに少しは気のきいた歌でも詠めるよう、
おなりあそばされてはいかがかと存じますが、
私など、今週すでに30首ほど…」
睦月は、自作の歌を記したメモ紙を広げた。

その丸っこい草書体に、温子は興味をひかれた。
「なんです、この文字は? 性格に似合わぬ、
かわいい文字を書くではありませんか?」
「かつて小野小町が使っていた… 
小町仮名とでも申しましょうか」
小町独特のクセのある草書体を、睦月がさらに発展させ、
もはや漢字の原型をとどめていない文字である。

「ヘチ… じゃなくて伊勢、この字を教えてたもれ。今すぐ」
かわいいものに目がない温子はさっそく、
「あつこ」「うさこ」と書いてみた。
「これまで歌はどうも苦手でしたが、この文字で書けば
自分の気持ちを素直に表現できそうな気がしますね…」

ほんの束の間にしろ、温子は
つらいことを忘れたようだった。
「ありがとう、伊勢」
にっこり笑う温子を見て、睦月は
初めてかわいいと思った。

「温子さまなら大丈夫です… 帝のお心を
振り向かせることができますよ。
2人でがんばりましょう。藤原胤子がナンボのもんです」
「うん!」
2人はしっかり、手を取り合ったのである。