天神記(二)
6、 包丁式(ほうちょうしき)
仁和(にんな)元年(西暦885年)、
第58代・光孝天皇の御世。
弓削是雄(ゆげ の これお)は、陰陽師と
しての最高位、陰陽頭に任命された。
さっそく、祝いを述べにかけつけたのは…
「これはこれは、雲の絶間さま。わざわざ恐縮です」
弟子とはいえ、妙子は前帝の寵妃であり、
是雄は平伏して出迎えた。
「先生、おめでとうございます! はい、おささ(酒)」
以前よりきれいになった妙子は、冴えない小男の
是雄に抱きつかんばかりである。
是雄は粕漬け(奈良漬)を出して接待する。
昨年、友人の藤原継蔭から奈良土産に甕ごと
もらったもので、漬けてから半年ほどたって、
ちょうど食べごろになっていた。
奈良漬を肴に、酒(どぶろく)をくみかわしながら、
是雄はまず、陽成帝が廃位されたことについて、
悔やみを述べた。
せっかく帝の愛を得たというのに、ついてない女で
あるが、本人はカラッとしている。
「これで私もお上も、のんびり暮らせますから…」
そういいながら、妙子は自分でもってきた
酒の杯を、ホイホイと空ける。
それを見ながら是雄は昔を思い出し、
少し不安になった。
「いつぞやの、飛鳥(あすか)の時の
ような騒ぎは困りますぞ…」
かつて是雄は妙子を伴い、大和の
飛鳥へ旅したことがある。
かの地には、「蘇我馬子(そが の うまこ)の墓」と
呼ばれる巨大な岩を組み合わせた墳墓があり、
その周辺に妖怪が出没するというので、
調査&お祓いに出かけたのだ。
みごとに是雄が妖怪を封じこめ、
後は祝いの酒盛りとなった。
酔っぱらってハイテンションになった妙子は、
巨岩の上に登ると
「にょほ〜ほほほほほほほ(⌒3⌒)ノ」
白い素足をさらして、踊りまくったのである。
これを地元民が目撃。
「狐が美女に化けて、岩の上で舞っておる!」
という噂が広まり、以来この墳墓は「石舞台
(いしぶたい)」と呼ばれるようになった。
「すごいですよね、私。伝説になりましたから」
すでにテンションが上がっている妙子は、鳴神を
誘惑した時の冒険を、熱く語ってきかせた。
是雄は、この作戦を進言したのが、菅原道真
というところに引っかかった。
「菅秀才か…」
継蔭から聞いた話が気になって、是雄は
道真の行く末を占ってみたのだが…
「近いうちに、ちと悪いことが起きるな…」
「えっ そうなんですか?」
「しかし、彼の運気は相当強い。この災難を
乗り越え、さらなる栄光を手に入れるだろう」
「なーんだ。よかったですね」
だが、是雄の顔は晴れない。
「しかし… さらに、その先…
何かとてつもなく恐ろしいことが…」
「先生! そんな先のこと考えちゃらめっ!
さ、おささをどうぞ」
不幸になりそうな人を放っておけない
タチの是雄は、どうもスッキリしない。
この年の秋。
四条大路にある邸で、妙ちくりんな髭を
生やした鯰(なまず)っぽい顔の男が、
右手に包丁を持ち、左手に竹ばしを持ち、
鯉(こい)をさばいていた。
みごとな腕前で、決して材料に
手で直接触れることがない。
たちまち、活け造りができあがった。
まだ醤油のない時代なので、塩と酢と
わさびが添えてある。
「我が包丁式、ここに成る…」
帝から依頼されていた、新しい
「包丁式」がここに完成したのだ。
「包丁式」とは、料理の作法や技術のこと。
その名も、「四条流庖丁道」。
ミシュランのレストランガイド東京版が発売されたこの日
(平成19年11月22日)、この人物について書くことに
なるとは、なんと不思議な巡り合わせであろうか。
星のついた150のレストランのうち、6割は日本
料理だそうだが、この藤原山蔭(やまかげ)こそ、
日本料理の神である。
光孝帝はもともと、時康(ときやす)親王といい、
仁明(にんみょう)帝の第3皇子であった。
皇室も予算は限られているし、まず即位する
可能性のない三男坊なので、それなりに
質素な生活を強いられた。
身の回りのことは自分でやったし、趣味も
兼ねて料理も自分で作った。
帝になって、まず期待したことが
「さて、どんな美味いものをいただけますかな?」
ということだった。
ところが出された膳は、鯛(たい)や鮑(あわび)や鴨など、
食材こそ豪華だが、ブツブツと乱暴に切ってあるし、
衛生的にも問題ありそうな、ひどいものだった。
「これはいけませんな… 自分で料理した方がマシかも」
「即位後も自炊した」と書いたが、
そういう事情があったのですね。
こうして自ら厨房に立ちながら、さらに宮中の料理作法の
新しい規範を定めるべく、多趣味な文化人で古今の
できごとに詳しい藤原山蔭に、相談をもちかける。
こうしてできあがった「四条流」は、その後いくつ
もの流派に分かれながら、現在の和食界でも
なお、大きな影響力を有している。
一流料亭の板長になるには、四条流の習得が必須とか。
四条流によると、「和食の真髄は
包丁さばきにある」らしい。
他の国の料理と違い、煮たり焼いたり味付けしたりと
いうのは、包丁さばきの後に来る、瑣末なことなのだ。
日本刀を生み出した、優れた製鉄・刃物製造
技術があればこその、包丁第一主義だろう。
このように、中国から伝来した食文化の模倣を超え、
山蔭によって日本料理の新しい歴史が始まったわけ
だが、彼にはもうひとつ、後世に残したものがある。
それが吉田神社である。
吉田神社 公式サイト
http://www.geocities.jp/kyoto_yosidajinjya/
現在の京都御所のちょうど真東、
吉田山に鎮座する吉田神社。
貞観(じょうがん)元年(西暦859年)、山蔭は
藤原氏の氏神である奈良の春日神社から、
タケミカヅチノミコトをはじめとする4座の神を、
この地に勧請した…
というのが表の歴史であるが、この裏には日本史を
揺るがす、恐るべき秘密が隠されていたのである。
翌、仁和2年(西暦886年)、正月。
基経の長男(16才)の元服式が執り行われた。
場所は、光孝帝のプライベートな御殿
である仁寿殿(じんじゅでん)。
さらに帝自ら、長男に冠をかぶせて
やる大サービスぶりである。
(どんな冠か興味ある人は、「垂纓冠(すいえい
のかん)」で画像検索してみて)
16才の少年は正五位下の位を授かり、
「時平(ときひら)」という名を与えられた。
庭に積まれた山のような祝いの品々、居並ぶ
上流貴族を見回す、その華やかで不敵な顔は
基経の絶大なる権力を受け継ぐプリンス、
基経2世としての貫禄がみなぎっている。
(これが… 人を殺し、陥れ、内裏に放火まで
して作り上げた親父の王国か…
藤原氏とは、一体何なのだ? 帝を倒して、
この国の王になりたいのか?)
上っ面は笑顔を浮かべ、父・基経を見つめる。
(あんたが欲しかったのは富と力か?
俺は違う… 俺には理想がある)
それを見返す基経は、息子の胸の内を読んでいた。
(いずれ、お前にもわかる時が来る…
藤原氏とは何なのか…
その時、俺はこの世にいないだろうがな)
1月16日、菅原道真は讃岐守(さぬきのかみ)
=讃岐(香川県)の国司に任命される。
讃岐といえば、雨が降らなくて水不足なのが難点だが、
瀬戸内海に面した、気候の温暖ないいところ。
(讃岐うどんの登場は江戸時代)
しかも国司といえば地方長官、ワイロをもらったり
税をちょろまかしたり、要領さえ良ければひと財産
作れる、あこがれのポストである。
しかし、都でエリートコースを歩む者から見れば、
これは左遷以外のなにものでもなかった。
「俺は、ワイロとかちょろまかしとか、
そんなものはいらないんだ!
讃岐なんて、海を越えて行くような
遠いところ… ちくしょう…」
道真は荒れて、家の者に当り散らした。
道真の躍進を妬む学者たちの声に、
基経が押されてしまった結果だが、
しかし基経も、このまま道真を地方
長官で終わらせるつもりはない。
必ず呼び戻す…
俺は、お前を気に入ってるのだから…
陰謀の世界に生きてきた基経にとって、道真の
ような裏表のない、己の実力のみで勝負する
バカ正直な男は、まぶしかった。
いずれ時平が関白となる時…
道真がそばにいて、時平を助けてくれたら…
基経は、道真のために送別会を開いてやった。
「明日から見る新しい風景を、あなたは
どんな詩にするだろうか」
基経からこんな言葉をかけられ、
道真は泣き出してしまった。
仁和3年(西暦887年)。
藤原山蔭は包丁式の全てを、嫡子(ちゃくし)の
有頼(ありより)に相伝し終わった。
「どうにか、間に合ったわ…」
包丁を置き、腹のしこりに触ってみる。
かなり大きくなってる…
まもなく激痛が始まるだろう。
翌、仁和4年(西暦888年)、山蔭は死んだ。
有頼が駆けつけた時、正座のまま、前のめりに
なっている山蔭の手には、血塗られた包丁と
竹ばしが握られていた。
床には、癌に侵された直腸が切除されて
転がっており、血溜まりができている。
山蔭の死に様は固く秘事とされ、外部の者が知る
ことはなかったが、後に有頼が語ったところでは、
直腸の切り口は実に見事であったという。