天神記(二)





3、 雲の絶間(くも の たえま)




陰陽師・弓削是雄の占いの結果、鳴神上人の
居場所は都の北方、岩尾山の滝壺と出た。
都の東を流れる賀茂川の、源流となっている滝である。

「さて、どうしたものか…」
基経は博学で知られた菅原道真を召して、
何か策はないか問うた。

「天竺(てんじく)の、一角(いっかく)仙人の
話はご存知でしょうか…」
「知らない。どういう話?」

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今は昔、天竺の波羅奈(ぱらな)国… 
というとブッダが初めて説法をした、聖地サルナート
(鹿野苑)のあるところ。

ここに、鹿の胎内より生まれたため、額中央に
1本の角の生えた男がいた。
ユニコーンのような角ではなく、鹿っぽい
2股に別れた角である。
その名を一角仙人といい、すさまじい
超能力の持ち主であった。

ある時、大雨の後の山道で、
仙人は滑って転んでしまう。
「あーあ、服がドロドロ… こうなったのも雨のせい、
雨を降らせた龍神のせいじゃ!プリプリ」

怒りのあまり、龍神たちを水瓶に閉じこめてしまった。
雨が降らなくなって困りきった国王は…

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「なんと、今の状況とそっくりではないか! 
で、国王はどうしたのだ?」
「旋陀夫人(せんだぶにん)という美女を送りこみまして…」
お色気で誘惑し、酒でグデングデンに酔わせたという。

「おもしろや盃の、めぐる光も照りそふや。
紅葉襲(もみじがさね)の袂(たもと)を共に翻し翻す。
舞楽の曲ぞおもしろき…」
酔っ払った仙人が、美女といっしょにヘロヘロになって
舞を舞う様子を、道真は実演してみせた。

こうしているうちに龍神が水瓶を脱出、再び雨が
降るようになりました、というお話。

基経は、微妙な顔をした。
「うーん… あなたからこういう話を聞くとは… 
もっとまじめな人柄と思っていたが」
彼は、道真がムッツリスケベなのを知らない。

道真が進言したこの「お色気作戦」、基経は
乗り気ではなかったが、帝が乗ってきた。
では、だれを鳴神上人のもとへ送りこむか?
白羽の矢が立ったのは帝の寵妃の1人、
藤原遠長の娘・妙子(みょうし、又は、たえこ)。



帝の母、皇太夫人(こうだいぶにん)・高子(たかいこ)の邸。

「お入り」
高子は几帳を下げさせ、廂(ひさし=廊下)に
控えている若い娘を呼びよせた。
顔にはふだんあまり見せない、
優しい笑顔を浮かべている。
「タエ… 世話になります。帝をお助け申し上げておくれ」

この時代の女性にしてはありえないほどの、
キビキビした動作で高子の前に進み出た
娘は、伏していた顔を上げた。
タレ目の愛嬌のある顔。
長い髪を、動きやすいように後ろでしばっている。
いわゆる、正統派の美女ではない。

かつては、高子に仕える「女房」であった。
女房とはワイフの意味ではなく、
高貴な人に仕える侍女である。
女房は「女房ネーム」が与えられ、
独自の「女房ことば」を使った。
ちなみに、言葉の頭に「お」をつけるのは、
「女房ことば」が起源らしい。
(おかか、おかず、おこわ、おなら、など)

妙子の女房ネームは、「雲の絶間(くものたえま)」という。
下級貴族の藤原遠長の長女で、娘ながら
兄たちにまじって弓を習ったり、馬に乗ったり、
とにかく活発な娘であった。

頭脳も優秀で、女性はふつう習わない漢文をスラスラ
読みこなし、さらに弓削是雄に弟子入り、陰陽道の
勉強までしているという、スーパーガールぶりである。

「宮さま、元気を出してください。私が必ず、
雨を降らせてご覧に入れます!」
「絶間… そなたが失敗すれば、帝は譲位することに
なるでしょう。殿方をうまく誘惑できますか?」
高子は初めて会った時から、この娘が
大のお気に入りだった。
妙子も、実の母以上に高子を慕っている。

「1度… 誘惑というのをしてみたいと… 
思っておりました」
首まで赤くしてもじもじする妙子を見て、高子は
私が男だったら、こんな娘を抱いてみたいかも
しれない… などと考えた。
会話をしているとまるで色気のない妙子だが、そのスラリと
引き締まった健康的な体は、目のくらむようなナチュラルな
セクシーさを発散している。

帝も、そういうところにぞっこんになったのだろう。
「物狂いの君」と呼ばれた暴君が、「雲の絶間」の
言うことには素直に従う。

「よいですね、絶間… 必ず無事に帰ってきておくれ。
帝のため… そして、私のために」
「はい… それでは雲の絶間、出陣いたします!」



途中までは護衛の兵士が随行していたが、岩尾山に
ついてからは、妙子が1人で山道を登っていく。
アウトドア好きの妙子は、まったく苦にならない。

滝壺近くの川で、持参した男物の装束を
取り出し、洗濯を始める。

「そこで何をしている? ここは女人禁制の、
神聖な修行場であるぞ」
声をかけてきたのは、山伏の姿をした若者。
髪を長く伸ばし、妖しいまでの美少年である。

(うわ… これが鳴神上人?)
予想もしていなかった美形の出現に、
思わず胸がキューンとなる妙子。

「亡くなった主人の形見の… 小袖を洗濯
したいのですが、水がなくて…
ここまで来れば、きれいな水があるだろうと…」
しどろもどろに説明しながらも、ついチラチラと
若者の方を、いやらしい目で見てしまう。

「そうか。よし、いっしょに来い」
「そんな… まだ、会ったばかりなのに…」
「はあ? 上人に洗濯をしてもいいか、
うかがいにいくのだ」
若者は鳴神上人の弟子、白雲坊と名乗った。

「白雲坊さま… 女の人とちゅーしたことありますか?」
「はあ? あんた頭は正気か? ほら、ここだ」
滝壺にのぞむ岩場に、小さなお堂があった。

白雲坊に連れられ中に入ると、中央の祭壇で
鳴神らしき人物が、座禅を組んでいる。
そのトカゲのような容姿を見たとたん、
妙子はゲンナリした。

祭壇のわきに、もう1人弟子が立っており、
黒雲坊と名乗った。
ちょっと品のいいナイスミドルで、髪を総髪
(長髪のオールバック)にしている。
(ああ、こっちの人だったら…)
ついドロドロした目で見てしまう、妙子であった。

「話にならん。いかなる理由があろうと、
女人がここにいることは許されぬ。
すぐに立ち去れ…」
鳴神が冷たく言い放つのを押さえて、
「あっ その本… 『尸条書(しじょうしょ)』
ではありませんか?」
隅の書棚を指さし叫ぶ。

「ほう? 尸条書を知っているのか?」
尸条書とは、忌まわしき魔道書「ネクロノミコン」
の漢語訳である。
ウマイヤ朝末期のダマスカスで、ネクロノミコン原著が
執筆されたのが西暦730年だから、かなり早い時期に
中国に入ってきたことになる。

「わー 『三皇経』もある、これは『霊宝経』じゃないですか!」
鳴神の、妙子を見る目が変わった。
ただの洗濯女ではないようだ…


それから1時間ほど、2人は占星術や魔術や妖術など、
オタッキーな話題でえんえんと語り合った。
ついには、鳴神は白雲坊に小袖を洗濯してくるよう命じ、
黒雲坊に、この時代まだ珍しいお茶と菓子を用意させた。

「申し訳ないです。つい長居しちゃって…」
「いや、あんたのような博識で一風変わった
女人と語らうのも、愉快なものだ。
ところであの小袖、形見と言ってたようだが… 
ご主人を亡くされたのか」

「は、はい… 1年前に… 
たくましい人だったんですが…」
ほぅ… と溜息をつく妙子の頬は、しゃべりすぎで
ピンク色に上気している。

鳴神は改めて、妙子をまじまじと見つめた。
すっぴんに近いくらい、ほとんど化粧もしておらず、
騒がしい色気のない女と思っていたが、よく見ると
束ねた髪の下のうなじとか、軽くはだけた胸元とか、
匂い立つような若々しいエロスを漂わせている。

それに、この時までまったく自覚がなかったのだが、
鳴神はタレ目スキーであった。
生き生きした表情の妙子を見ているうちに、
愛くるしくてたまらなくなり、生まれて初めて
萌えスポットを直撃された気分になったのだ。

「たくましい、というのは床の中でのことか?」
「な、なんてことを…!」
耳まで真っ赤になって顔から湯気を出す妙子は、
怒ったような目で鳴神を見る。

しかし口元が笑っているので、鳴神も
つい調子にのってしまった。
「床の中では、どんなふうだったのだ?」
「そんなこと言えませんっ」
「いいではないか、今度はあんたの
秘密の物語を読ませてもらう番」
「そんな… ゴニョゴニョったりチョメチョメって
なんて… 人に言えません…」

「なに? よく聞こえな…」
鳴神は、身を乗り出した。
「…アレのソレのXXXをケダモノみたく… 
ヌルヌルしてキモチイイノ…」
妙子はうつむいて、すっかり小声になっている。

あろうことか、鳴神は身を乗り出しすぎて、
祭壇から転落してしまった。
「先生!」
黒雲坊が、あわててかけよる。
それより早く、妙子が鳴神を抱き起こした。
「ごめんなさい! だいじょうぶですか?」

鳴神は生まれて初めて、若い娘の
匂いにつつまれていた。
至福を感じるとともに、ある記憶が
ムクムクと蘇ってくる。

彼の師、一角仙人はかつて天竺で女に
たぶらかされ、大恥をかいたことがある。
ついに天竺にいられなくなって、唐の
羅浮山(らふざん)に流れてきた。

鳴神はその過去を知って以来、師を蔑むようになり、
ついには隙を見て一角仙人を殺害、その宝貝
(ぱおぺえ)である龍神壺を奪ったのだ。

身を起こした鳴神は、疑わしい目で妙子を見た。
「あんた、もしや… 私を誘惑するため、朝廷から
送りこまれたのではないだろうな?」
「にょほほほほほほほほほ」
と、妙子は女房笑いをかまし、にっこりした。
「へえ、私ってそんなに色っぽいんですかね… 
ちょっとうれしいかも」

「先生、そういう企みがあるなら、ふつうは
もっと美女を送りこむでしょう」
割って入った黒雲坊には、妙子の魅力は
まったくわからないようだ。

「それもそうだな… 考えすぎか…」
鳴神は、真剣なまなざしで妙子を見つめ、
「なあ、あんた… 独り身なら、いっそのこと
私の弟子にならんか?」

ここが正念場である。
妙子も表情を改め、きっりっとした顔で鳴神を見る。
目が、かすかに潤んだ。
「うれしゅうございます… 鳴神先生」