天神記(二)





2、 鳴神(なるかみ)




元慶4年(西暦880年)。

この秋、菅原道真は高雄の神護寺まで紅葉を見に
行った帰り、清滝(きよたき)という宿場で1泊した。
ここから愛宕山まで山道が伸びていて、2時間ほどの
登山で愛宕神社に着くが、ちょうど山から下りてきた
顔見知りと、ばったり出会うことになった。
かつてのライバル、三善清行(みよし の きよつら)である。

「おや、清行どの。方略式も近いというのに、
物見遊山ですかな?」
方略式とは、役人として正式に任官されるための試験。
「これはこれは道真どの。愛宕権現の
霊験あらたかなのをご存知ないか?」

清行が、得意気に語るには。
数年前から愛宕山周辺では、人とも鳥ともつかぬ
UMA(未確認動物)が目撃されており、
最近では「天狗」と呼ばれているらしい。
その天狗とやらは大変な神通力をもっており、
どんな願いでもかなえてくれるという…

(どんだけバカなんだよ、こいつは…)
昨年のあの事件、乱入した天狗VS密教僧の
サイキックバトルについては、摂政基経から
緘口令(かんこうれい)がしかれていた。
事情を知らないオカルト好きの清行が、
天狗天狗とはしゃぐのは、まあいいとして。
問題は合格祈願のため、わざわざ愛宕山まで
天狗詣でに来たという点だ。

「そんなヒマがあったら、勉強すべきではないのか?」
清行は、露骨にイヤな顔をした。
「もちろん、勉強はしますよ。しかし、人間がいくら努力
しても変えられないもの、例えば天佑とか運とか… 
そこんとこは、神仏や天狗の助けを借りなければ」

道真はそれ以上何も言わず、さっさと都に帰った。
「バカと話してる時間がもったいない」

父の是善(これよし・69才)が亡くなるのは、
この直後の10月11日である。
さらに、12月4日には清和上皇が崩御。



翌年、元慶5年(西暦881年)。

年が明けると、さっそく方略式の試験である。
試験問題は、漢詩の作成。
清行は、愛宕山に7日間参篭もしたし、
友人の弓削是雄(ゆげ の これお)に
運気向上のまじないもしてもらったし、
自信満々で自作の詩を提出する。

ただ1つ計算外だったのは、試験官が
菅原道真だったこと。
「はい、ダメ」

「\(Т◇Т)/落ちたああああああああああああ」
それから10日間、清行は泣きながら
ヤケ酒をくらってすごした。
「ちくしょう、道真の野郎! 覚えてろバーカバーカバーカバーカ」

こうして清行は、「学問の神に試験を落とされた男」
として、歴史に名を残すことになった。



この年、菅原家でもいろいろあった。

菅原家の私塾である「菅家廊下」で講師を務める、
武部源蔵(たけべ の げんぞう)というまじめな
青年が、不祥事を起こしたのである。
道真の妻である宣来子(のぶきこ)付きの侍女、
戸浪(となみ)という影の薄い女と、あろうことか
神聖な講堂で、密会していたのだ。

恋愛には寛容な平安時代とはいえ、中国の学問に
通じ、儒教的な価値観をもつ菅原家の家風では、
許しがたい事件だった。
特に道真は昨年に父を亡くし、家長となったばかりである。
模範を示さねばならない。

結局、源蔵と戸浪は菅原家を追われた。
しかし道真は、都の北10数kmにある芹生(せりょう)
の里に小さな家を買い取り、そこを改装して、里人に
学問を教える私塾とし、2人を住まわせた。

「このご恩は一生忘れません…」
涙を流し感謝する2人だったが、20年後に
血の凍るような恩の返し方をすることに
なろうとは、夢にも思わない。


良いできごともあった。
それは、4才の愛らしい少女・苅屋(かりや)が、
菅原家に新しい家族として加わったこと。

苅屋の母は道真の叔母にあたる人だが、
夫を亡くし、仏の道に生きる決意をした。
一人娘の苅屋を菅原家に養女として託し、自らは
出家し、覚寿(かくじゅ)と名乗って、河内(かわち)
の国、道明寺(どうみょうじ)の尼となる。

この愛くるしい苅屋が20年後に、菅原道真
破滅の発火点になろうとは…
誰も想像すらできなかったのである。



翌年、元慶6年(西暦882年)。

道士・李終南(りしゅうなん)が日本に
上陸してから、17年になる。

かつて唐の武宗帝に取り入って仏教を弾圧し、
纐纈城(こうけつじょう)を築いて、僧侶から
生き血を搾り取った。
そして、突如乱入した巨大な山犬に
噛み殺されたはずだが…
弟子たちの復活の儀式によって、甦ったのである。

山犬を操っていた「コブのある神」を捜し求め来日、
国中をさまよったが、そんな神の存在を知る
日本人は、だれ1人としていない。
現在は正体を隠すため山伏(やまぶし)の姿をして、
「鳴神(なるかみ)上人」と名乗っている。

この年、彼は方針を変え、唐の時のように日本の
帝を虜にして、仏教を滅ぼそうと決意した。
1つには、国家権力を味方につければ、大規模な
「コブ神」探索を行えると考えたから。
もう1つは、「コブ神」は仏教と何か関係がある…
正確に言えば「天竺」の匂いがする…
仏教界を揺さぶれば、姿を現すにちがいない…
という予感があったのだ。


ひょろりと背の高いトカゲのような顔をした法師が、
都の辻々に現れ、奇跡を起こしてまわっている…
という噂が、帝の耳に届いた。
今年元服したばかりの少年天皇は、遊び仲間の
源益(みなもと の すすむ)に命じて、法師を
内裏まで連れてこさせた。

このころ、帝と摂政基経の関係は急速に悪化、
基経は職務をボイコットして内裏に出仕しない
日も多かった。
ちょうどこの日も、不在である。

「鳴神でございます… 帝のお望みを、
なんでもかなえてご覧にいれます」
「なんでもか?」
「はい。まずは、ご寿命を延ばして…」
「いや、それは後でいい。朕(ちん)は世継ぎがほしいのだ」

鳴神はひれ伏したまま、意外そうな顔をした。
「恐れながらそちらの方は、まだそのお年でありますし、
これからいくらでも…」
「すぐにほしい。基経が、次の帝の候補を探し始めた」

御簾の向こうでは、陽成帝が若々しい傲慢な顔に、
不敵な笑みを浮かべている。
「奴め、朕をやめさせるつもりらしい… 
が、父上のようなわけにはいかぬぞ」
皇太子が生まれれば、基経も軽々しく次の帝… 
とは、言い出せまい。

「かしこまりました… では、無事に皇子ご誕生の折には」
鳴神が開いた「仙道宗」を朝廷で認可し、鳴神寺に
戒壇(かいだん)建立を許可していただきたい。

戒壇とは、国家公認の正式な僧となるため、
「戒」を授ける「受戒」の儀式を行う場所。
つまり鳴神とその弟子たちを、比叡山や東大寺と同様、
国家権力と結びついた宗教団体として認めよ、
と要求しているのだ。
恐るべき野望、と言わねばなるまい。

帝が軽々しく要求を飲むと、鳴神はさっそく
祈祷に入ることを約束、退出した。
そして10日後には見事、寵妃の1人が懐妊したのである。



この年、人魚の肉を食らった女・八重(やえ)は、
数え100才となった。
見た目は18才のころと、まったく変わりがない。
あちこちを流浪したあげく、今は宇治で
産婆をして食いつないでいる…
いや、食わなくても死なないのだが、
とりあえずヒマなので働いている。

アンニュイでめんどくさがりだが、年をくってる
だけに物知りで、なんでもこなす。
そのため、この不気味な流れ者の女に、
いつしか村人も心を許すようになった。

さて、この日も陣痛に苦しむ妊婦の
処置をしていたのだが…
この妊婦は、かつて歌人として名をはせ、宇治山に隠棲
していた喜撰(きせん)法師の隠し子という噂だった。
喜撰は、ちょうど20年前に没している。

そして、いよいよ出産… 
もう世の中に驚くことなんてない、と思っていた
八重だが、驚いた… いや、思わずのけぞった。
膣から吐き出されたのは、ヌラヌラと
した白い蛇だったのだ。

か弱い、細い泣き声が、産婆小屋を満たす。
よく見ると、天使のような愛らしい女の赤ちゃんだ。
産声すらも、耳に優しく響く。

八重は、ふーっと息を吐いた。
疲れているのだろうか?
なぜ、あんな… 蛇の幻影など見たのだろうか?
とりあえず無事出産、よかったよかった…

後日、女の子は「沙織(さおり)」と名づけられた。
後の清姫の母である。



翌年、元慶7年(西暦883年)。

懐妊から十月十日で、陽成帝の寵妃は無事、男子を出産。
鳴神は、源益を通して祝いのメッセージを伝える
とともに、約束を実行するよう迫ってきた。

帝は基経に、新しく戒壇を設けることが
可能かどうか、はかってみた。
「問題外です」
この件は、これっきりとなった。


ある程度予想はしていたが、たかだか
15才の少年になめられるとは…
私の力を、見せつけておく必要があるようだ…
怒りに震える鳴神は、不思議な形の壺を取り出した。

「宝貝(ぱおぺえ)… 龍神壺(りゅうじんこ)!」
宝貝(ぱおぺえ)とは… 古代より中国に伝わる、
仙人が作り出したマジックアイテム。

かつて鳴神が李終南であったころ、「玉象」という
宝貝を使い、皇帝を虜にした。
これはクリスタル製の象の置物のような外見で、鼻の
下で雄黄(ゆうおう=硫化砒素鉱物)を15日間焚くと、
煙を吸収・精製し、丹砂(たんしゃ=硫化水銀)の
粉末として吐き出す…
というもので、この粉末を飲むと、ふつうは死ぬので
決してマネをしてはいけないが、中国人はこれを
不老不死の霊薬と信じていた。

「玉象」は皇帝が崩御した後の混乱で
行方不明となってしまったが、鳴神は、
他にもいくつかの宝貝を所持していた。
その1つ、「龍神壺」の恐るべきパワーとは…

鳴神は、とある滝壺に結界の縄を張り、その
中央から龍神壺を革紐でぶら下げると、
壺に向かって呪文を唱え始めた。
龍神壺には、滝の水がどんどん流れこむ形だが、
水があふれ出る気配はない。

「龍神壺の封印を解いた今、三千世界の
龍神すべて、この壺に…」
龍神が閉じこめられると、雨が降らなくなるのである。


日本全土を、記録的な旱魃が襲って3ヶ月。
朝廷には、鳴神からの脅迫状が届いていた。
雨を降らしたければ、約束通り鳴神寺の
戒壇設置を認可されよ…
いわば、気象兵器を使ったテロであった。

「お上、これはどういうことなのです。そもそも、
鳴神寺とは一体どこにあるんです!?」
あまりの非常事態に、出仕せざるを
得なくなった基経はどなり散らした。
が、帝は聞こえないふりをする。
せっかく生まれた皇子も風邪をこじらせ、
すでに亡くなっていた。

恐怖の異常気象に襲われた日本は、
果たしてどうなるのか?