天神記(二)





1、 都良香(みやこ の よしか)




元慶(がんぎょう)元年(西暦877年)、
第57代・陽成(ようぜい)天皇の御世。

1人の男が、富士山の頂上に立とうとしていた。
日本史上初の快挙である。
このころ、まだ活発な火山活動が続いている
富士の頂上で、男が見たものは…

「頂上は、直径500メートルくらいの広さがあった。
その中央はくぼんで、飯を炊く甑(こしき)のようで、
底には池(火口湖)があり、池の中には大きな岩が
あって、うずくまった虎のような形をしていた。
甑の中は蒸気が満ちており、池の色は純青で
煮立っている。」

現代でいうと、草津温泉近くの白根山の火口が、
ちょうどこんな風であろうか。
クレーターと火口湖の様子が、うまく表現されている。
この「富士山記」の著者は、都良香(みやこ の よしか)
という学者だ。

口ひげをたくわえ、眉の濃い、藤岡弘のような
男らしい容貌で、体もがっしりと鍛えてあり、
学者のイメージからかけ離れた人物。
興味の対象は徹底的に調べないと気がすまない
マニアック気質を反映し、目がちょっと普通でない
というか、狂気が宿っている。

だが、果たして良香は本当に富士山に登ったのだろうか?
富士山周辺で、登山経験者から聞き取り調査をした、
もしくは都から一歩も出ず、聞きかじった話と想像で
書いたという可能性もある。
もし自身で登ったにしろ、ろくな装備もないこの時代、
山に慣れたガイドの存在は必須だったはずだ。



良香が生まれたのは、承和(じょうわ)元年(西暦834年)。
本名を桑原言通(くわはら の ことみち)という。
生まれつき腕力が強くて、俊敏だった。

菅原道真が8才の時に漢文の教師になったという説も
あるが、そのころ良香はまだ19才で、文章生にも
なっていないし、ちょっと無理があるように思う。
学者の家同士のつき合いで菅原家に出入りしていた、
といった程度だろう。


斉衡(さいこう)2年(西暦855年)に、道真が初めて
漢詩を詠んだ時、ちょうど良香も居合わせた。
例の、「梅花は照れる星に似たり」というやつで、
これを聞いた良香は感激し、

「道真クン! 君はなんて才能豊かな奴なんだ! 
ボクらは10才以上も年が離れてるけど、これからは
対等の友達づきあいをしてくれたまえ!」
オーバーアクション気味に道真の手を握った。
道真は、なんて暑苦しい奴… と、閉口。


貞観(じょうかん)2年(西暦860年)に良香は文章生
となり、以後学者として出世階段を昇っていく。

貞観12年(西暦870年)、道真は方略試を受けるが、
この時の試験官が
(げっ 暑苦しいおっさん!)
「道真クン! 君のもてる力をすべてぶつけるんだ! 
青春の悔いを残すんじゃない!」

この時の良香の出題、道真の回答、それに対する
良香の評価、これらが全て現在も残っているという
から、驚きである。
(都氏文集・第五巻、菅家文草・第八巻)

「いろいろ細かいミスはあるし、作文のルールから
外れてるけど、文章はいきいきしてるし、文体も
見るべき点があって、評価できなくはない。
まあ、ギリギリ合格といったところですな」
学問の神様、ギリギリ合格である…


さて方略試に合格した後、道真が良香の家に
あらためて礼に行くと、ちょうど良香と門人たちが、
庭で弓の稽古をしていた。
「これはこれは… 今評判の菅秀才だ。
いっしょに弓でもどうです?」

(あいつ、頭はいいかしらんが… 体動かす方は、
からっきしにちがいない)
(恥をかかせてやろうぜ)
門人たち、いじめっ子オーラ出しまくりである。

道真はなんなく、百発百中の腕前を見せ、
門人たち、あんぐり。

「さすが、道真クン! いつのまに弓の作法まで
習得していたんだ! いいか、お前たち! 
これが文武両道というものだ! もっと汗を流せ!」
道真は暑苦しいので、早々に退散した。


貞観13年(西暦871年)に、渤海(ぼっかい)国から
使者が到着、翌年に入京。
良香は、接待役に任命された。
遠い異国への旅や冒険にあこがれる良香は、
異常な気合を入れて、この役を務める。
使者が帰る時は、お互い抱き合って熱い涙を流し、
贈り物を交換した。

貞観18年(西暦876年)には、文章博士となる。



そして元慶元年(西暦877年)、良香は冒険への欲求を
抑えられなくなり、富士山へと挑むことになる。

出発に先立ち、良香は骨阿闍梨(ほねあじゃり)
という不気味な男と接触した。
ふつうは呪殺や裏工作を頼む相手であるが、今回は
「道中では護衛を、山では先達(せんだつ=ガイド)をして
くれる、身が軽くて山に慣れてて、腕の立つ男を紹介して」
というオーダーをした。

しばらくして、「猿丸」という10代半ばくらいの少年が来た。
鋭く研ぎすまされた顔に、暗く冷たい瞳。
右頬に爪で切り裂かれた傷跡があり、それを隠すために
ボロ布を、首から鼻の辺りまで巻きつけている。
さらに獣の皮でできたマントを、頭からすっぽりかぶっていた。

「若いんだから、もっと笑ったり泣いたりしたらどうだ! 
涙は心の汗だ!」
道中、いくら良香が熱く語っても、猿丸は無表情のまま。
だが、三河の国に入ったころ、猿丸が珍しく話しかけてきた。

「先生。もしよろしければ道中のなぐさみに、私に漢詩や
歌の道を教えていただけないでしょうか」
良香は喜んで、教授した。

幼いころから殺しや盗みの訓練しか受けていない
この少年は、もっと魂を揺さぶる何かに飢えていた。
そして優秀な頭脳と、鋭い感受性をもっていた。


ついに富士のふもとに到着、アタック開始。
しかし、中腹の流砂の激しいところで、良香は
ついにそれ以上すすめなくなる。
「猿丸、ここから先は1人で行ってくれ! 
なんとしても、頂上を…」

流砂を乗り越え、絶壁をよじ登り、薄くなる酸素と
立ちこめる有毒ガスに耐えながら、猿丸はついに、
高度3776メートルの頂に立った。
1786年のモンブラン登頂まで、これが
人類の到達した最高地点である。



こうして「富士山記」を発表した良香は、
京の都で時の人となった。
彼の漢詩も再評価され、「菅原道真以上」との評判が立つ。

ある時、彼は馬に乗って遠出をし、都に戻る帰り道、
新しい詩を練っていた。

ちょうど羅城門の下を通りがかった時、
気、晴れては 風、新柳の髪を梳(けづ)る…
と吟じた後、続きが浮かばなくて、詰まってしまった。

すると… 楼門の上から、聞き覚えのある声で
氷、消えては 波、旧苔の鬚(ひげ)を洗ふ…

良香は一瞬目を丸くしたが、やがてニンマリとして
「合格である!」
従者たちがオロオロして、
「先生、今の声はいったい…」

「羅城門の鬼が、下の句をつないでくれたようだ… 
それにしても、なんとも詩才のある鬼であることよ」
振り返ると、深まる夕闇の中、楼門の上に立つ
少年のような影が見えた。
去りゆく良香たち一行に向かい、礼を
しているようにも見える。

これが、良香が猿丸を見た最後であった。


このニュースは都で広まり、「気晴れては風…」
の詩もたいへん評判になった。
しかし道真はズケズケと、
「下の句を作ったのは鬼だろ? 鬼に作ってもらった詩を
偉そうに自慢するとは、良香はどんだけバカなんだよ」

これが良香の耳に入り、
「なんてことを言うんだ、道真は! 俺は許さない!」
2人はすっかり、不仲になってしまった。

とにかく、このころの道真の評判は悪い。
道真自身の口の悪さ、態度の悪さが原因である。
道真は、バカに向かってバカと言いたい気持ちを
抑えることができない男であった。
遠まわしに言うとか、オブラートに包むとか、とてもできない。

とうぜん世間、とくに同業の学者たちからの風当りは強い。
「道真はクソだね。多少頭がいいからって鼻にかけやがって」
「道真の漢詩って何あれ? クズばかり」

道真叩きがピークに達したころ、さすがの彼もへこんで
「あーうるさい。出家でもするかなあ」
と、こぼしていたという。
しかし、それでも出世はトントン拍子である。
摂政の基経に、気に入られていたから。



元慶3年(西暦879年)。
道真の位階(いかい)が、「従五位上」にアップした。
位階とは、役人のランキングである。

一方、良香は6年前に「従五位下」になって以来、
ストップしたままである。
つまりこの年、良香はとうとう道真に
追い抜かれてしまったのだ。
「認めない! 断じて認められないよ、こんなこと!」
良香は怒り狂った。

「文徳(もんとく)実録」という史書を編纂中であったが、
抗議の意味で職を辞し、とある山にこもって、
それっきり行方不明になってしまった。
良香、46才の時のこと。


100年後、ある人が山の洞窟で良香を目撃したという。
壮年のまま元気で、相変わらず暑苦しかったそうな。