天神記(一)
17、 魔道(まどう)
それは牛でも即死させるような、すさまじいパンチだった。
衝撃力500Kg以上あったろう。
盾となった尊意は、後ろの道真ごと吹っ飛ばされた。
天狗は、池のほとりに引き上げられた相応を見下ろす。
「お前がすべての不幸の源… 楽には死なせまいぞ」
ジャンボサイズの高下駄を履いた足が、失神している
相応の、ゴリラのような頭を踏みつける。
「おやめなさい」
嵐の中を、鈴を鳴らすような、しかし
氷のように冷たい声が響きわたった。
高子が、装束を暴風にはためかせながら、
庭に降り立っている。
「尊いお坊さまの頭を、足げにするとは…
下がりなさい、下郎。
そのお方は、お前が取り憑いて困らせていた
明子さまを、救ってくださったのです」
天狗は、高子を見つめた。
「俺が… 明子…?」
その油断をついて、あらぬ方向から
火炎放射が吹きつけられる。
「うおおおおッ」
顔を焼かれ、天狗は池に落ちた。
火善坊が、高子の足元にひざまずき、
「こ、皇太夫人さま! い、い今のうちにお逃げください!」
しかし、返ってきたのは氷のような眼差しだった。
「何をする、下郎。私は、あの者と話していたというのに」
池を割って、怒り狂った天狗が姿を現す。
眼が真っ赤に充血し、完全に正気を失っている。
「おのれ… この…」
「どりゃああああああああああああああッ」
そこへ飛びこんできたのは、血まみれの尊意である。
天狗にタックルをかまし、水中へ引きずりこんだ。
さすがの火善坊も、あぜんとして、水面に
沸き立つ泡を見つめるしかない。
「そ、尊意… 無茶すぎる…」
やがて、海底火山が噴火したかのように
水面を突き破り、翼を広げた天狗と、尊意の
からまった塊が、空へと昇っていった。
すさまじい水しぶきを浴びても、高子はまったく動じない。
「空へ行ったか… このままでは相応さまの二の舞に…」
天狗は、尊意を締め上げたまま、
一気に高度を上げていく。
「貴様… 生きていたとは… しぶとい奴」
「法力は自信ねえが、体力ならあり余ってるんでな」
尊意はふてぶてしい笑顔を浮かべた。
「いい度胸だ… ならばこのまま天に
昇るが、泣き出すなよ、坊主」
雲をつきぬけ、日本列島を
はるかに見下ろす高度に達した。
地平線と宇宙空間の境界線に、
太陽が輝いているのが見える。
「なんてきれいなんだ… これが、俺たちの
住んでる世界か… こんないいもの見せて
もらったんだ、死んでも悔いはねえや」
純粋な感動を浮かべている尊意の顔を見て、
天狗はフッと笑みをもらす。
「そうか… ならば、死んで生まれ変わってこい。その時は…」
天狗は手を離した。
尊意は、うっとりと目を閉じた。
流れ星となって、地球に落下いていく。
それを見守りながら、天狗はつぶやいた。
「その時は、俺の弟子にしてやる」
「あいにくだが… その時は、もう来ない」
天狗はハッとした、まさか…
大気圏と宇宙空間の境目であるこの亜宇宙で、
話しかけてくる者があるとは…
振り向いた時はすでに遅く、黄金の巨人が、
2枚の翼をむしり取った後だった。
「黄不動…」
「さらばだ、真済… 星となって燃え尽きるがいい」
重力に捕まり、地上へと落下していく
天狗に向かい、巨人は合掌した。
すさまじい衝撃とともに、天狗は大地に激突した。
そのショックで、失われた記憶が
激流のように流れこんできた。
エリートとして歩んだ人生、恋に溺れ
のたれ死に、怨霊と化して束の間の逢瀬…
「明子さま…」
涙が、とめどもなく流れた。
一方の尊意は、意識を取り戻した
相応が、なんとかキャッチ。
単なる怪力ではなく、法力によって重力を一瞬だけ
消滅させ、衝撃を和らげたのである。
道真は金岡の肩を借りてなんとか立ち上がり、
まだ失神している尊意の顔をのぞきこんだ。
「尊意どの、ありがとう… 若いのに、なんて勇敢な…」
道真35才、尊意14才。
後に道真は尊意を師とあおぐことになるが、実際には
2人の年齢差はこれほどあるのである。
そして、謡曲「雷電」に描かれた2人の対決の
時へ向けて、カウントダウンは始まった。
法衣を血に染めた姿も痛々しい円珍もまた、
火善坊に支えられ、なんとか立っていた。
尊意がいなければ、円珍1人では
天狗に勝てなかったろう。
「恐るべき魔物であったな…」
地面にめりこんでいる、天狗の体を見下ろす。
落下の衝撃で右腕は肩からもげ、
背骨と腰骨は粉々になっていた。
「すべての記憶を取り戻したか、真済阿闍梨…」
「お恥ずかしいかぎりです、円珍さま…
長いこと、悪い夢を見ていました…」
「残された時間はわずかだろうが、御仏の道にお戻りなされ」
「いえ、それはできません… いったん魔道に堕ちたうえは、
残された命を魔道の者として、まっとういたします」
とつぜん、天狗は立ち上がった。
背骨も腰骨も折れ、念動力だけで体を直立させている。
「円珍さま! あ、危のうございます」
火善坊が円珍をかばうが、円珍は動かない。
天狗は、手を上げて制した。
「お待ちなさい。御仏に仕える者に
仇なすことは、もういたしますまい。
むしろ、私の学んだ魔道の力をもって、
あなたたちをお守りします」
「なんと… 魔道をもって、仏道を守護すると?」
「はい… 私が死んだ後も、それこそ怨霊となって、
我が魂は愛宕山にとどまり、比叡山に害をなす者を
たたり殺しましょう… そのかわり」
天狗は、尊意の方を見た。
まるで磁石に引き寄せられるように、尊意の体は
相応の腕からもぎとられ…
天狗の残された左腕に捕まった。
「何をする!」
「この者をいただいてまいります…
なかなか、見こみのある若者…
弟子として、2代目の天狗に育てたい」
天狗の周りを、風が渦巻いていた。
「尊意を返せ、化物!」
と叫んだのは相応で、円珍は
「真済! 明子さまに近づくことはならぬぞ!」
天狗が風とともに消え去る瞬間、
「誓いましょう…」
というつぶやきが、かすかに聞こえた。
たとえまともな人間であっても、皇太后との
恋など、許されるものではない。
まして相手は魔道に堕ちた怪物…
真済は理性を取り戻したのだし、当然の決断である
と頭ではわかっている。
だが道真は、なんとなく悲しかった。
こうして、とんでもない展開となった「法力御上覧の儀」は、
1人の死者も出さず、行方不明者1名で無事終わった。
ただ河原院の庭はグチャグチャになり、
源融が半狂乱となったが…
結局、帝はまったく怖がる様子もなく、
面白い見ものに大満足。
基経のもくろみは外れた。
翌年、元慶4年(西暦880年)。
2月、大極殿が無事に再建なる。
12月4日は、西暦では翌年にずれて881年1月7日
となるが、この日、厳しい断食修行を無理に行った結果、
清和上皇が崩御。
同日、藤原基経は太政大臣となる。
源融は、基経の天下でこれ以上職務を続けることに
苦痛を感じ、職を辞し隠居した。
時は流れ、元亀(げんき)2年(西暦1571年)9月のこと。
織田信長は、比叡山延暦寺を焼き討ち、
約3000人の僧を殺戮した。
そして、天正10年(西暦1582年)。
真済と円珍の戦いから、703年が過ぎたこの年。
愛宕山太郎坊天狗が、その誓いを果たす時が来た。
5月26日。
明智光秀は、備中高松を攻略中の羽柴秀吉の
援軍のため、比叡山のふもと坂本を出陣。
丹波の国、亀山城に入る。
翌27日、愛宕山に戦勝祈願のため参詣。
この時から、光秀の様子がおかしくなった。
何か、目つきが変わっている。
しかし、戦の前の緊張状態の中であり、
異変に気づく者はいない。
この日は愛宕権現に宿泊、翌28日には
連歌の会を催してから、亀山城に戻った。
この時に有名な、
「時は今 あめが下しる 五月かな」
の句を詠んでいる。
翌29日、信長は本能寺へ入る。
翌6月1日、光秀は出陣した。
その瞳には、魔道に堕ちた、人外のものの炎が宿っていた。
「敵は本能寺にあり…」
愛宕神社 公式サイト http://kyoto-atago.jp/
天神記(一) 完