天神記(一)





16、 天狗誕生




源融の邸、「六条河原院(ろくじょう かわら の いん)」。
宮城県の塩釜の風景をミニチュア化して造った
という自慢の庭園には、わざわざ難波から海水を
運ばせて作った池もあり、風情にあふれている。

こんな庭で、炎の道を作ったり、荒っぽいパフォーマンスを
やろうというのだから、もちろん融は乗り気ではない。
「なんで、私のところで…」
これは最近とみに露骨になってきた、基経の
融に対するいやがらせの一環なのだろう。

さて、今しがた火善坊が見せた、火渡りのパフォーマンス。
修験者が集まる寺の祭りでは、現在でも定番になっている。
東京から近いところだと、高尾山の
薬王院などで見ることができる。

薬王院 公式サイト http://www.takaosan.or.jp/

しかし、一般の日本人がこの技を見たのは、
この時が初めてだった。
火善坊が幼いころから続けてきた、根黒寺秘伝の
鍛錬法を比叡山で改良した荒行で、
この後、修験道へと伝わっていく。

そもそも、なぜ火善坊がここにいるのか。
彼は、外道人と組んで伴善男を殺害した後、
比叡山に入門し、根黒寺にとって役立つ技術や
知識(例えば呪殺とか)を習得、持ち帰るよう、
指令を受けていたのである。

しかし、もし彼があの大宅鷹取(おおやけ の たかとり)
だと気づく者があれば、基経は大変
まずいことになるかもしれない…

そうしてるうちにも、庭の中央に丸太が四角く
積み上げられ、その上に火善坊が座った。
火をつけると、人間キャンプファイヤー状態になる。

火善坊は印を結んで九字を唱え、叫んだ。
「火遁(かとん)の術!」
これは比叡山に入門してから、新たに習得した技である。

さて、大昔の「忍者」のイメージというと、大きな
ガマガエルに乗り、巻物を口にくわえ、印を結んで
呪文を唱える人… という感じだが。
「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助が演じた、
「児雷也(じらいや)」の影響であるが、昔は
忍者と妖術師がごっちゃになっていたのである。
この「印を結んで呪文を唱える人」のルーツが、
密教にあることはまちがいない。

炎の中に平然と座っている火善坊は、さらに
サービスとして、口からブオーブオーと火を吹いた。
油も焼酎も、口に含んでいない。
脂分の多い胃液を分泌させ、それを
吹き出しているのである。

このあたりになると、子供には
相当ショッキングなはずだが…
基経は、横目でちらっと帝を見た。
少年天皇は、目をキラキラさせ興奮している。
ちっとも怖がってないな… これでは、本来の目的が…

「なんと下品な…」
鈴を転がすような、しかし氷のように
冷たい声が、帝のとなりから聞こえた。
皇太夫人(こうだいぶにん)、藤原高子(たかいこ)。
この人も、まったく怖がってはいない。

親愛の情のまったくない、絶対零度の
冷たいまなざしで基経を見る。
相変わらず、人形のような無表情の愛らしさ。
妹からこういう目で見られるのが、
基経にはいちばんこたえた。
高子が自分を憎む理由を、基経はよくわかっている。

高子には、愛し合った男がいた。
その男との仲を、基経が引き裂いたのである…
妹を、清和帝の女御とするために。

男の名は、在原業平(ありわら の なりひら)。
平安時代随一の美男子にして、プレイボーイ。
あんな男に、高子を渡してなるものか…
今でも基経の心には、ドス黒い炎が燃えている。

「火は、煩悩を焼き尽くす御仏の教えの
象徴らしいですよ、皇太夫人」
「でも… 凍りついた私の心を
溶かすことはできないでしょう」
「まだ、そのようなことをおっしゃるのか…」
「今の私の心は、雪と氷だけで
できているのですよ。お兄さま」
「………」


一方、道真と金岡は、それぞれメモとスケッチを取り
ながらの鑑賞だが、子供のように素直に感嘆している。
「人間とは修行をすれば、あのようなことが
できるのか… すごいものだな」
「お、次は相応どのか。例の、明子さまに
憑いた悪霊を封じたお方じゃな」

ゴリラのように筋骨たくましい相応が、
座禅を組んで瞑想に入ると、いきなり
その体が3メートルも跳ね上がった。
「道真、見ろ! 足をまったく使わずに飛んでおる!」

次は5メートル、次は10メートル、
跳躍するたびに高度を上げていき…
ギャラリーから、どよめきが起こった。

そして、ついに30メートル… 
その時、道真が何かを見つけた。
「ん? 鷹か? 何かが、こちら
めがけて舞い降りてくるが…」

バシッと、重量のある何かが、ぶつかる音がした。
「あ?」
それっきり、相応は降りてこない。
「相応どのはどうした?」
「まさか、天まで昇ってしまったのか?」

まさしく、相応は天に昇っているところであった。
異変を感じ、瞑想を解いて目を開いた
相応は、信じがたい光景を見た。
はるか眼下に、河原院らしい広大な邸が見える。

それがグングン小さくなり、平安京全体が、
山城の国の山野が、そしてついに、
この時代だれも見たことのない、日本
全土の姿が目に飛びこんで来た。

「どうだ… お前の法力ではとうてい達する
ことのできない、高みを味わう気分は?」
相応は、後ろから何者かに抱きかかえられていた。
空中で、舞い降りてきた何かに捕まったのである。

「だ、だれだお前は!?」
「我が恨みを、今こそ晴らす… といえばわかるだろう」
最後の方は、相応の耳に届かなかった。
高度1万メートルの上空で、
謎の男は手を離したからである。
相応は流星となって、雲を通り抜け落下していった。

塩釜の海を模した池に何かが落下し、
水柱が立ち昇った。
「相応さま!」

相応の弟子の、尊意(そんい)と
いう若い僧が池に飛びこむ。
まだ14才ながら、たくましい野性味のある少年で、
ゴリラのような相応をかついで、無事に池から上がった。

その時… 大地を揺るがし、何かが庭に着地した。
月光の下、2枚の大きな翼を広げ、
立ちはだかるその異形の姿…
「も、基経… あれは… 人か? 鬼か?」
「あのようなもの、見たことも聞いたこともありませぬ…」

その場にいる、全ての人間が凍りついた。
身長は2メートル以上あろうか、筋肉で膨れ上がった
ような肉体は、異なる人間の部位をつなぎ合わせた
ようにチグハグで、アンバランスだった。
頭部は人間らしいが、鼻から顎にかけて突き出しており、
そこだけ狼か山犬のように見える。
そして背中から、鳥ともこうもりともわからぬ、
巨大な翼が生えていた。

道真は、吹き出る冷や汗をぬぐいながら、
「あんな化け物、古今のいかなる書物にも記録がない… 
あえて名づけるなら、天から降り立った狗(いぬ)… 
天狗(てんぐ)と呼ぶべきか」

そのつぶやきが耳に入ったのか、裂けた口に
牙をのぞかせ、怪物はニヤリとした。
「天狗か… いい名だ…」
現代の我々がイメージする、鼻の長く伸びた天狗の姿は、
ずっと後、室町時代ごろにでき上がったものである。

「よく聞けい! 我は愛宕(あたご)山、太郎坊の住人、
真済阿闍梨(しんぜいあじゃり)である!」
その名は、姿以上の衝撃を一同に与えた。
「な、なんと…」
「明子さまに妄執し、怨霊となったあの真済か…」
「18年も前に、除霊されたはず…」


あの時。
相応が放った、すさまじい念力が空間を超え、
愛宕山に横たわる真済の頭脳を直撃。
まだ固まってない真済の頭部は半壊し、ギドラ道士が
応急処置を施したものの材料が足りず、
やむなく山犬の頭部を利用した。

その後、体がしっかり固まり、動ける
ようになるまで8年を要した。
背中の翼も、この時期にギドラ道士が、
実験的に接合したものである。

真済は、明子のことも含め、記憶の大半を失っていた。
魔風大師は、このような姿になったのは
すべて、比叡山の相応によるものと教え、
真済の復讐心を煽り立てた。

真済は太郎坊という僧坊を建て、相応に
打ち勝つ外道の魔力を身につけるべく、
10年以上も修行に打ちこんだのである。


それまで、どっしりと腰を下ろして
いた円珍が、立ち上がった。
「僧侶の身でありながら外道に堕ち、三宝(仏・法・僧)に
害をなさんとするとは… 愛宕山の太郎坊天狗よ、
心を入れ替え、仏の道に立ち帰るのだ!」

その言葉に答えるように、天狗は
左手に、数珠をかかげもった。
そして右手で大きなヤツデの葉を取り出すと、
呪言を唱えながら、大きく振り回す。

風が巻き起こった。
六条河原院だけが台風の直撃を受けたかのように、
風速40メートル以上の暴風が吹き荒れる。
池の水が、津波のように盛り上がった。

帝のまわりの人間たちは、パニックに包まれた。
帝一人が、目を輝かせている。
基経はとっさに、高子をかばった。

もちろん、この風はすべて幻影である。
そして円珍も今、大いなる幻影を生み出そうとしていた。
左右の瞳が激しく振動… 振眼(しんがん)である。
「黄不動尊!」
盛り上がった頭部から、雄叫びと
ともに黄金の巨人が飛び出す。

道真は魅入られたように、その対決を見ていた。
怨霊遷化によって甦った異形の化物と、
超能力密教僧の戦い。
それは今から30年後の、己の姿でもあった。
そして、道真が戦うことになる宿命の敵も、この場にいる…

超人的なスピードとパワーをもつ天狗が、黄不動を圧倒。
金色に輝く10メートルはあろう巨人を、
その4分の1しかない天狗が殴り、蹴り、
投げ飛ばし、踏みつける。
円珍の盛り上がった頭骨がピシッと
音をたて、血が吹き出した。

「円珍さまーッ!」
若い尊意が、悲痛な叫びを上げる。
「円珍さまの法力が通じないなんて… 
そんなバカな… ん?」

道真が、吹き荒れる風の中を
進み出て、天狗の前に立った。
「真済どの… あなたに、お伝え
しなければならないことがある」
「ん〜?」
左右大きさの異なる凶悪な眼が、道真をにらみつける。

「皇太后が… 明子さまが… あなたを待っておられる」
天狗は、道真を見つめた。
「明子… 知らぬ。なぜ、俺を待つ?」
「真済どの! 忘れてしまったのか?」

天狗は眼を閉じた。
「知らぬ… 俺は知らぬ… 
明子など… 俺は知らぬッ!」
クワッと血走った眼を開くと、道真に
向かって拳を振り上げた。

「あぶないッ」
尊意が、飛びこんでくる。
グシャアアアッと肉と骨の潰れる
音がして、血が飛び散った。