天神記(一)
15、 物狂いの君(ものぐるいのきみ)
貞観17年(西暦875年)。
道真は31才で、島田宣来子(しまだ の のぶきこ)と結婚。
その父、島田忠臣(ただおみ)は、道真が11才で初めて
漢詩を作った時以来の、学問の師である。
「梅花は照れる星に似たり…」
祝いの席で、忠臣は道真の漢詩第1作を吟じて、
新郎を大いに居心地悪くさせた。
道真は、自邸の白梅を思い出す。
ものごころついたころから、ずっとぞばにいる
白梅は、道真にとって母のようでもあり、
幼なじみでもあり、恋人のようでもあった。
宣来子は、道真が思い描いていたような
「白梅の君」なのだろうか?
いや、そんなことを考えるのも馬鹿らしい。
これは現実の大人の結婚であり、
宣来子はごく普通の女性である。
宣来子は、翌年生まれる長男の高視(たかみ)をはじめ、
男女多数の子に恵まれ、その子孫からは、
「更級日記」の作者や、柳生新陰流開祖や、
民主党の菅直人などが出る。
翌年、貞観18年(西暦876年)。
4月10日、大極殿(だいごくでん)が炎に包まれた。
(今回は放火ではない)
日本の大建築ビッグ3の1つであり、即位の礼などの
国家儀式を行う、内裏で最重要な建物である。
大極殿は日本史を通して3回炎上するのだが、
今回がその1回目。
炎上の責任を基経に問う声とともに、
帝が今年で27才になるというのに、
いつまでも摂政がついているのは
おかしい、という声も上がった。
基経は帝の下に参上し、申し上げた。
「お上(かみ)、やめていただけますか」
炎上の責任を、帝に取っていただこうという腹である。
帝は顔色も変えず、ほう、と言った。
「やめてもいいのか?」
「では、よろしいので?」
「正直に言うと、お前の顔を見るのは、もうウンザリなのだ」
基経は何も言わずに、引き下がった。
11月29日、清和帝が突然譲位。
線の細い、病弱な帝であった。
藤原父子にいいように操られ、「応天門の変」
のような謀略事件も経験し、すっかり政治に
嫌気がさしていたのだろう。
ただちに9才の第1皇子、貞明(さだあきら)
親王が天皇の位につく。
同時に、基経が摂政に任じられた。
9才の幼帝なら、摂政がついて文句あるまい。
しかしこの少年天皇、父の清和帝とは
大違いの暴れ者であった。
あいさつに参上し額づいてる基経を、いきなり蹴り飛ばす。
9才とはいえ体はかなり大きく、力もある。
「な、何をなされます!?」
新しい帝は、鼻で笑うと、
「お前が、身分をわきまえるようにな。あいさつ代わりだ」
基経の額で、血管がピクピク動いた。
(高子の入れ知恵か…!)
藤原高子(たかいこ)、この年、35才。
清和帝正室にして陽成帝の母、
そして、基経の実の妹である。
ギスギス・ゴツゴツした基経の妹とはとても思えない、
生きた人形のごとく愛らしい美しさで、
小野小町と張りあうほどであった。
そして兄の基経を、蛇のように嫌っている。
いつの日か夫である清和帝が、しっかりした
自分の意思をもち、基経から独立してくれる
ことを願っていたが、かなわなかった。
だが、この子は… あなたの操り人形にはさせません…
そんな高子の意志を、ヒシヒシと感じる基経であった。
年が明け、元号が改まり、
元慶(がんぎょう)元年(西暦877年)、
第57代・陽成(ようぜい)天皇の御世。
大極殿の再建も始まったこの年、菅原道真は、
式部少輔(しきぶのしょう)に任命された。
文官の人事を司り、大学寮を統括する
式部省(しきぶしょう)の次官である。
同時に、家職の文章博士(もんじょうはかせ)も兼任。
時はサクサクと流れる… 翌年、元慶2年(西暦878年)。
旧都奈良に暮らす藤原継蔭(つぐかげ)という
学者の家に、睦月(むつき)という娘がいた。
貞観(じょうかん)14年の生まれだから、今年7才になる。
ちなみに「日本魔史」では、年齢は原則「数え年」表記である。
娘にしては背の高い、整った
顔立ちの子で、頭の回転が速い。
小野小町の熱狂的なファンで、ほとんどの
小町の歌を暗記しており、
「私も、小町さまみたいな歌人になる!」
と、家族に宣言していた。
ある日、父の継蔭が、すごいお宝をゲットした。
「睦月、これを見てごらん!」
それは… 小野小町の真筆、つまり
小町本人がしたためた文書。
誰かに出した手紙の一部が、巡り巡って
継蔭の手に入ったようだ。
21世紀の現在、小町の真筆はまったく残っておらず、
発見されれば国宝まちがいなしである。
果たして小町は、どんな字を書いていたのだろうか?
「こ、これは…!」
この時代、文書は全て漢字で書かれている。
正式な文書は漢文形式だし、和歌も「万葉仮名」という、
日本語と同じ音の漢字を使って表記された。
※万葉仮名の例
安(あ)以(い)宇(う)衣(え)於(お) …など
「読めない… けど、なんかかわいい…」
それは、極端に崩した草書体の万葉仮名…
どれも角が取れ、くるくるした丸っこい字になっている。
翌日から、睦月はこの小町風の
書体を、熱心に練習し始めた。
なんとしても、自分のものにしたかった。
翌、元慶3年(西暦879年)。
陽成帝の腕白を通り過ぎた乱暴ぶりに、
基経は苦りきっていた。
何しろ歴代の帝の中でも屈指の暴君、
「物狂いの君」である。
女官を縛って、池に突き落とす。
罪人を御前に引き出させ、矢で射かける。
子供のイタズラでは、済まされない。
死人が出ないのが、不思議なくらいだった。
騒ぎが起きると、決まって
「文句があるなら、基経に言え!」
だった。
裏で高子が糸を引いてるのは、明らかである。
(なんという餓鬼か…)
今や日本国中逆らう者などいない、泣く子も黙る基経を、
12才の少年が、ここまで振り回す。
痛快だ、と感じる者も、いたにちがいない。
基経は円珍を呼び出し、相談することにした。
円珍は3年前より帝に仏典の講義を
するため、内裏に通っている。
この年66才、すっかり老いたが、異様な
おむすび型の頭骨は相変わらず。
「まともにお諭し申し上げて、お聞き入れ下さる
お方では、ありますまい…
ならば、我ら比叡山が一山をあげ、帝に天台宗門
法力の真髄をご覧いただくのが上策かと」
なるほど… と、基経はうなづいた。
山法師どもが何か恐ろしいパフォーマンスを行って、
少年天皇をビビらせるというわけか。
その上で、大人の言うことを聞くよう、みっちりお説教をする。
「では老師、その案でよろしくお願いします」
そのころ、3年前に譲位した清和上皇は今、
ひたすら仏の道に励んでいた。
都の北西、水尾(みずのお)という、現在でも交通不便な
山間の村で、ハードな断食修行をしていたのである。
生まれて初めて、と言っていいだろう。
上皇が、自分の意志で「やる」と決めたことが、これだった。
1ヵ月後。
月が昇るころ… 会場は左大臣・源融の邸、
六条河原院(ろくじょうかわらのいん)。
この風雅な邸は現在、一部が東本願寺の飛地境内である、
渉成園(しょうせいえん)として残っている。
渉成園 公式サイト
http://www.tomo-net.or.jp/guide/syoseien.html
「比叡山延暦寺、法力御上覧の儀、始めませい!」
見学者は帝、その母・高子、摂政・基経、
邸の主・融の他、朝廷の主だった面々。
特別に記録係として、秀才の誉れの高い文章博士の
菅原道真と、絵師の金岡が招かれている。
延暦寺の法師たちが、入場してきた。
客席に向かって深々と礼をすると、まず1人目が進み出る。
あらかじめ大池の前に、まるで道のように
枯れ枝が敷き詰めてあった。
今、そこに油を少々まき火をつけると、
たちまち炎の道ができ上がる。
「おおっ 基経、何が始まるのじゃ?」
早くも帝は、ワクワクしている。
「まずは、火の行法ですな」
しかし次の瞬間、基経は思わず
心臓が飛び出しそうになった。
「比叡山・火善坊、火渡りの術を御上覧に入れまする!」
炎の道をゆうゆう歩いていくあの男、顔はよく見えないが…
というより、あの男の顔も定かに覚えていないが…
応天門を焼き払った、あの火善坊なのか?
そのころ、都の上空北西方向から、異様な物体が
六条河原院めざして飛来していた。