天神記(一)
10、 伴大納言(ばんだいなごん)
左大臣・源信の邸が包囲された、そのころ。
帝のもとに参上した父子があった。
太政大臣(だじょうだいじん)・藤原良房(よしふさ)と、
その養子、参議・藤原基経(もとつね)である。
※参考 大臣のランクはこうなっている!
太政大臣>左大臣>右大臣>大納言>
中納言>参議>少納言>(以下略)
良房は太政大臣、一番上のポジションだが、天皇の
相談役のような職務で、実権はあまりないらしい。
その子・基経は参議、6番目の地位で、
「宰相(さいしょう)」ともいう。
邸を包囲された源信は左大臣、実質的に最高権力者。
源信を告発した伴善男は大納言、通称
「伴大納言(ばんだいなごん)」である。
さて、帝の前に進み出た藤原良房、この年63才。
染殿后、藤原明子の実父である。
優雅で気品あふれるが、その微妙に焦点の合わない
眼は、何を考えているかわからない不気味さがある。
8年前に、日本史上初の「摂政(せっしょう)」となった男。
摂政とは、帝が幼少のころに替わって政務を執る者。
2年前、清和帝が元服したので摂政は辞したが、
今でも帝に対する影響力は、絶大である。
だから、太政大臣という実権のない名誉職に
ついていても、なんら問題はない。
一方、子の基経は31才。
貴族らしい上品さの中にも、どこかギスギス・ゴツゴツした
ところがあり、目つきが鋭く、サディストの気があった。
女を抱く時に1時間も愛撫している
ような、粘着質のしつこさがある。
14年後に、日本史上初の「関白(かんぱく)」となる男。
関白とは、帝の代理人。
史上最初の摂政と関白なのだから、とうぜん
試験に出る、要チェックな父子である。
さて、この父子が奏上するには、
「軽々しく、左大臣(源信)を犯人とされる
べきではありません。慎重な調査を」
清和帝の母は、良房の娘・明子、
つまり良房は帝の祖父にあたる。
そのうえ8年前の即位以来、帝を
裏で操ってきた元・摂政なのだ。
そんな良房に帝が逆らえるわけがなく、事件の
捜査を担当している右大臣・藤原良相(よしみ)
に命じて、ほどなく包囲を解かせた。
良相は良房の弟だが、兄からライバル視されている。
ヤクザの親分のような風貌ながら、兄よりも
遥かに良心的な人間で、人気があった。
病で死んで地獄に落ちた後、生き返ったという噂がある。
それくらいタフなイメージのある男だったが、今回、帝より
「軽はずみすぎる」と叱責され、メンツが丸つぶれ。
その結果、朝廷における発言力は低下してしまった。
源信も、調査結果がはっきりするまで、お咎め無しと
いうことになったものの、犯人扱いされたことで、
いろいろと噂も立ち、信用が地に落ちてしまった。
左大臣と右大臣が評価ダウンしたことにより、
相対的に伴大納言の地位がアップする。
「太政大臣の小せがれの言うことを
聞いて、正解だったわい…
もうしばらく、奴らにつきあってやるか」
伴大納言は、醜い顔に笑いを浮かべた。
5月29日、園城寺(三井寺)にいる
円珍のもとへ、朝廷から使者が来た。
当寺を正式な天台道場と認可する、
証明書が発行されたのだ。
この時より、園城寺は「天台寺門宗」
という独立した宗派となる。
この「寺門」に対して、比叡山延暦寺は
「山門」と呼ばれるようになるが、
寺門VS山門の果てしなき抗争の歴史は、
確実に幕を開けつつあった。
8月3日、都の下級役人が住んでいる一画。
路上で、2人の子供がケンカをしていた。
1人は、伴大納言の家人である、
生江恒山(いくえ の こうざん)の子。
1人は、舎人(とねり)という雑用係の小役人、
大宅鷹取(おおやけ の たかとり)の子である。
お互い髪の毛をつかんで、もみ合っていると、家から
恒山が飛び出し、鷹取の子を、思いきり蹴飛ばした。
「このクソガキッ うちの子に何しやがる!」
倒れた子は、そのまま起き上がってこない。
そこへ鷹取が駆けつけ、
「ひ、ひ、ひどい! こっ子供のケケンカじゃないですか!」
どもる癖があるらしい…
ぐったりしている我が子を、抱き起こす。
「文句があるなら、我があるじ、
伴大納言さまのところまで来い」
恒山は、今羽振りの良い伴大納言の家来
という自負もあり、大威張りである。
鷹取は、恒山をにらみつけ、
「い、い、いばりやがって… あ、あの日、俺が何を見たか…
お、お役人に話せば、お前の主人は、
た、ただ、ただではすまないぜ!」
これを、周りの野次馬たちが聞いていた。
そしてとうとう役人の耳に入り、鷹取は
検非違使(けびいし)に連行される。
検非違使とは、現代の警察のようなもの。
鷹取は、はじめ口をつぐんでいた。
しかし蹴り倒された我が子が、そのまま死亡
したという知らせを聞き、怒りに涙をにじませ、
どもりながら、語り始めた。
あの応天門が炎上した日… たまたま
通りかかった鷹取は、見てしまった…
応天門からコソコソと走り去る、伴大納言、
その子・中庸(なかつね)、伴家の雑色
(ぞうしき=雑用係)である豊清の3人…
その直後から、煙が立ち上り始めたのだ。
鷹取は恐ろしくなって、何も見なかったことにした。
帝は報告を受けると、勅命を出し、
伴大納言ら3名を捕らえさせた。
3人は杖でメッタ打ちにされる、激しい拷問を受けた。
「な、何かの間違いじゃ… 参議の基経どの
に聞いてくれ… わしらはあの日、参議どの
に言われて、邸にこもって…」
杖で打ちのめされ、それ以上の言葉は出なかった。
今回の捜査からは右大臣・藤原良相は外され、
良房が直接指揮を取っている。
鷹取一家も、あの日以来、ふっつりと姿を消した。
処罰が決まった。
伴大納言こと善男は伊豆へ、
その子・中庸は隠岐(おき)へ流罪。
左大臣・源信は無実が証明されたわけ
だが、精神的打撃は大きかった。
この直後、「宮仕えは恐ろしきものなり」
と言って、宮廷を去ってしまう。
良房は事件を解決した功を称えられ、
再び摂政に任命された。
そして、古代からの名門氏族である大伴氏(伴氏)は、
この事件で決定的に没落したのである。
ある秋の日、基経の邸に1人の
旅の僧が現れ、基経と面会した。
その顔は、かつて「大宅鷹取」と呼ばれた男に似ていた。
「今回も、お前たち根黒衆(ネグロス)には世話になった」
僧は、深々と頭を垂れ、
「ひ、ひ、火を扱う仕事がご、ございましたら、
こ、この火善坊をご指名くだされ」
12月8日、基経は参議から中納言へと出世する。
翌年、貞観9年(西暦867年)。
菅原道真、23才。
定員2名の狭き門、「文章得業生」に選抜された。
今でいう、大学院生のようなものらしい。
同時に、国家公務員として初めて任官されることになった。
社会人デビューである。
役職は、下野(しもつけ)の国(=栃木県)の、
権少掾 (ごんのしょうじょう)。
※参考 国司のランクはこうなっている!
守(かみ)>権守(ごんのかみ)>介(すけ)>
権介(ごんのすけ)>大掾(たいじょう)>
権大掾(ごんのたいじょう)>少掾(しょうじょう)>
権少掾(ごんのしょうじょう)>大目(だいさかん)>
少目(しょうさかん)>史生(ししょう)
ただ、実際に栃木県に赴任するわけ
でなく、あくまで名目だけのようだ。
都で勉強を続けながら、中級公務員の給料が
入ってくるよう、朝廷が計らってくれたのである。
右大臣・藤原良相は去年から、ふせっていた。
伴大納言の讒言(ざんげん)に乗せられ、勇み足で
無実の源信を追求したことに対し、世間から強い
批判を浴びたこと、無能扱いされるようになったこと
などの原因により、ウツ状態になっていたのである。
食欲がなくなり、酒ばかり飲んで、血圧が高くなった。
10月10日、藤原良相(55才)、心不全で没す。
翌年、貞観10年(西暦868年)、2月。
伊豆に流されていた伴善男(とも の よしお)が、
自室で変死した。
外傷がまったく見当たらず、心臓発作と思われた。
善男につき従っていた、家人の生江恒山一家も、
不審火で全員焼け死んだ。
貞観10年の閏(うるう)12月28日は、西暦では
年が改まって869年2月13日となる。
職を辞して隠居していた、かつての
左大臣・源信はこの日、狩に出かけた。
それが、彼の元気な姿を見た最後となる。
彼は狩猟中、落馬して泥沼にはまりこんだ。
救助され、邸にかつぎこまれたが、数日後に死亡。
これで、藤原良房・基経父子にとって邪魔な
人間は、全て死に絶えたことになる。
「応天門の変」以後の、藤原氏による政治支配
体制を「摂関(せっかん)政治」という。
テストに出るので、赤線を引いておきたい。
また、応天門事件の全貌を描いたスペクタクル絵巻
「伴大納言絵巻」は、出光美術館で公開中。
出光美術館 公式サイト
http://www.idemitsu.co.jp/museum/