天神記(一)





7、 染殿后(そめどの の きさい)




若くして空海に才能を認められ、天長元年(西暦824年)、
25才という若さで阿闍梨(あじゃり=師範)に任命された
名僧・真済(しんぜい)。
紅葉で有名な高雄の神護寺(じんごじ)で修行、
後に別当(べっとう=住職)となる。
都人からの帰依も篤く、仏教者として、まさに順風満帆な人生。

そんな彼を狂わせたものは、一体何か。



貞観3年(西暦861年)、3月。

奈良東大寺では大仏の修理が完了、落慶供養
(らっけいくよう)が営まれた。
式典には、帝の名代として皇太后・明子
(あきらけいこ、又は、めいし)が参列。

今年33才になるが、その霞むような、
はかなげな美しさは変わりがない。
太政大臣(だじょうだいじん)・藤原良房の娘
であり、先帝・文徳天皇の后。

通称、染殿后(そめどの の きさい)という。
現在の京都御所東側、梨木神社が建つ
あたりに、「染殿」という美しい名の邸があり、
そこに住んでいたので、こう呼ばれる。

明子は子供のころから霊感鋭く、物の怪
(もののけ)に憑かれやすかった。
現代風にいうと、頭の中に受信機があって、
宇宙からの電波を受信してるような、
そんなふるまいが時折見られた。
とつぜん、意味不明な言葉を口走ることもある。
人には見えないものが、見える時もあった。


この夜、東大寺の貴賓用の宿舎で、突然悲鳴が響き渡った。
駆けつけた従者たちは、寝所で倒れている明子を発見。

ところでこの時代、壁で仕切られた
「部屋」というものが、あまりない。
広い屋内空間を御簾(みす)や几帳(きちょう)、屏風(びょうぶ)、
衝立(ついたて)といったパーテーション類で区切り、
プライベートなスペースを作る。
床もフローリングが基本で、貴族や金持ちだけが、自分の
座る辺りのみ、貴重なゴザや畳を敷くことができた。

異変は、御簾で囲まれた明子の
プライベート空間で起こった。
畳から、何かうすぼんやりした物が、
もやーっと生えてきた、と言う。
よく見ると、それは人間の腕。

「あう…」
恐怖に凍りついた明子が見つめていると、やがて、
腕だけでなく肩も現れ、ついには、たくましい
男の上半身が、畳から現れたのである。
ぼんやりしており、顔立ちは定かではない。
ただ、水中でブクブクと呻くうような声で、
「ちぎらせて… ちぎらせてくだされえ…」

ここで悲鳴を上げ、失神。
従者たちは介抱しながらも、またか… という気分だった。
幼いころから、こうした騒ぎはしょっちゅうだったし、
それに大人になってからは…
「欲求不満でございましょうな」
「ええ、それが何より怖い物の怪ですよ」
などと、陰口をたたいた。


欲求不満呼ばわりされる、もっともな理由がある。
明子はもともと、政略結婚で文徳天皇(当時は
道康(みちやす)親王)に女御(にょうご)として
入内(じゅだい)したのだが、親王には、
紀静子(き の しずこ)という、愛する女性がいた。

静子は、古今和歌集にも残る、

思ひせく 心の内の 滝なれや 
落つとは見れど 音のきこえぬ

(思いをせき止めている、心の中の滝。
流れ落ちていても、音は聞えない。
私が帝を強くお慕い申し上げる思いも、そのように激しく
流れながらも声もたてず、静かに胸に秘めているのです)

という歌を贈って、文徳帝を感激させた人である。
しかし明子の父、良房の力が強く、静子は
日陰者の身となり、せっかく生まれた皇子も、
立太子できなかった。
代わりに、明子の産んだ惟仁(これひと)親王
(後の清和帝)が皇太子となる。

こうした経緯から、文徳帝は良房に反感を
もっていたし、明子に対しても、愛情を
もっているとは、とても言えなかった。
文徳帝は、3年前の天安(てんなん)2年
(西暦858年)に、突然崩御。

良房が暗殺したという噂もあったが、ともかく明子は、
30歳という女盛りで後家に、しかも再婚も許されない、
皇太后の身分になってしまったのである。
(皇太后は、先帝の后に送られる称号)

国母(こくぼ=現天皇の母)という、女性と
して最高の地位についた明子だが、
こうして見ると、気の毒な人生である…



都に戻ってからも、奇怪な半透明の
男はたびたび現れた。
しかも、だんだんと肉体の輪郭がはっきりと… 
3次元の映像が物質化するように、本物の
手ごたえのある人間と化してきたのである。

ある時、ついに男の腕が、明子の
帯をつかんで、引っぱった。
が、着物の前をはだけさせ、明子が
座りこんでいると、やがて男は消えた。

もちろん、位の高い僧を呼んで加持祈祷、
陰陽師による占いなどもさせてみた。
しかし、まわりの人間は、
「原因ならわかりきってるだろ、常識的に考えて」
という態度が、丸見えだ。

(私、欲求不満なんかじゃないもん…)
33才の明子だが、少女のように
爪を噛んで、落ちこんでいた。
電波系の不思議ちゃん女性にはよくある
ことだが、明子もまた、心の中に空想の
恋人を、作り上げていたのである。

彼がいるから、夫から愛されなくても、寂しくない。
1人きりになって、現実の男が
抱いてくれなくても、だいじょうぶ。
私、男女の睦み合いなんて、
もともとあまり好きじゃないから…

もしかして、畳の中から現れるあの男が、空想の
「恋人」の実体化したものではないか?
ちがう、彼はあんな化け物じゃない。
でも… だんだん顔立ちがはっきりとしてくる「畳男」の
面影に、なんとなく、見覚えがあるような気がした。
そして、その記憶には、ほのかに甘い匂いが…

「ちがう! そんなわけない!」
このままでは、そう遠くないうちに、畳男は
全身を現し、明子を犯すだろう。

父の良房に、もっと本格的に邸を
警備してくれるよう、武士の手配を…
それから、もっと法力の強い高僧を
見つけてくださるよう…
何度も何度も、文を書き送った。


やがて、染殿が紅く染まる秋が来た。
畳男は、ついに全身を現した。
「我が腕に抱かれよ… 明子…」

獣のような、悪鬼のような面相が、すぐ目の前にあった。
鋼鉄の腕が、着物を引き下ろす。
明子の腰に手を回し、息もできないほど、強く抱きしめる。
死体のような、異臭がした。
(だれか…)

従者たちが御簾を切り裂いて、
明子の空間に乱入してきた。
武士たちは身分が低いので、ここまで入ってこられない。
「こ、皇太后さま…?」

「明子ィィ… 睦びあおうぞ!」
そこには、着物を脱ぎ散らかし全裸に
なった、明子がただ1人いた。

その面相は獣のような、悪鬼のような、
すさまじいものに化している。
声も、野太い男の声だった。
「なんだ、お前ら… 邪魔をする気かああ?」
明子は、従者たちをギロッと見た。

「だ、だれなんだ! お前は…」
従者たちは、腰を抜かしていた。
さすがに、欲求不満だなんて考えるものは、もういない。
これは、明らかに悪霊の憑依であった。

明子は、悪魔のようにニヤリとすると、
「我は高雄の、真済阿闍梨である! 今はまだ、
力が足りぬ… だが30日後には必ずや、皇太后を
我が物とする。我の力、思い知るが良い…」
突然、明子は崩れ折れた。
しばらくして抱き起こされた時は、もとの顔に戻っていた。


1時間後、正気を取り戻した明子は、
真済の名を聞いてショックを受けた。
これまで物の怪に憑かれた時、
いつも助けてくれた、あの方…
知性と教養があり、高い法力をもち、
優しく頼りになる真済さま…

「たしか、去年亡くなられたはず…」
それが、このような恐ろしい怨霊と
なって、私を苦しめるとは…
そもそも、なぜ私を?
真済さまは、私を好いていたのか…?


知らせを聞いた父の良房は、ようやく事態の異常さに
気づき、この怨霊を調伏できる高僧を、探し始めた。
30日以内に、なんとかしなければ…
そして、1人の僧に白羽の矢が立った。



そのころ… 都の北西、愛宕(あたご)山。
神護寺のある高雄山からは、谷を越えたとなりの山だ。

頬にコブのある男が、この険しい山を軽々と登ってくる。
「このあたりも、いい感じの血の色に染まってきたな…
彼の様子はいかがかな、ギドラ道人?」

双六盤を前に、1人でサイを振っていた男が顔を上げる。
「ああ、大師しゃん… にゃがにゃが
言うごときかにゃぐてよ」
顔中イボだらけの、不気味な男。

「ふむ… 動き回ったりするのかね?」
差入れの酒を、イボ男に手渡す。
「おとなしゅく寝でるんだげどね… 
念力を使っちぇ悪さすんだば。今にょ時期は、
脳もあばり使っちぇあダメなのよ」
「たしか体が固まるまで、7年を要するんだったね?」


2人は、連れ立って洞窟へと入っていく。
「しがし、あんたもなじぇ、こんな術を研究しちゅるの?
双六に負けちゃから、なんでも教えじゃうげどさ」
コブ男は、品のいい笑いを漏らし、
「私は、悪魔的なものに魅せられるタチでね…」

洞窟の奥には、何かが横たわっていた。
コブ男は、それをうっとりと眺め、
「長く生きてきたが、これほどおぞましい、
これほど芸術的な術は、久しぶりに見る…
怨念の力を利用し、寄せ集めの死体に
新しい命を吹きこむとは…」

それは、2メートルを超える人間の体。
全身に、妙な線… 接着した境界線のようなものが走り、
左右の手足の大きさも、ちぐはぐだった。
「怨霊遷化(おんりょうせんげ)… 恐るべき秘術…」

横たわってる男の、獣のような顔の中で、
両の眼がくわっと開いた。
「……めいしぃ… むつびあおうぞ…」