天神記(一)





3、 地獄草子(じごくぞうし)




「お願いです! 私はこの国に仏法を
学びに来ただけなんです!」
円仁は、身を投げ出して土下座した。
返事の代わりに、猛烈な蹴りが来た。
血ヘドを吐き、のたうちまわる円仁。

「仏法滅ぶべし… それが我が皇帝の意思!」
刀のようにピンと伸ばしたつま先に、
べっとり血糊がついている。
まさしく、全身凶器の李書王であった。
「それに、あなたのような大物を始末すれば…
紅旗軍から高い評価を得られる」


丘をのんびり登ってくる、2つの人影があった。
もちろん、「乞食」と「コブのある老人」である。
「これ以上の手助けはしねえぞ… 本人のためにならん」
「そうですな… 彼なら、たぶん大丈夫でしょう」


顔を上げた時、そこには眉の下がった、
穏やかな円仁はいなかった。
「うぜェんだよ、お前… どんだけ
俺の邪魔すりゃ気がすむの?」

顔がドス黒くむくんでおり、元の顔の
1.5倍くらいに膨れている。
左右の目の大きさがちがっており、不気味に充血して、
とてつもなく危険な人物のオーラを発散していた。

「!?」
李書王は、自分の蹴りで顔面が腫れたかと思ったが、
よく考えると、蹴りは脇腹に入ったはずだ。
怒り… この穏やかな初老の僧は、怒髪天をつく怒りで、
別人のように変貌を遂げたのだ。

いきなり、円仁は両手を叩いた。
それは手拍子なんてものではなく、何かが
破裂したような、すさまじいラップ音。

「!!」
瞬間、李書王の聴覚が麻痺した。
しかしなぜか、円仁の言葉だけは鼓膜… 
というより、脳に直接届く。
「てめェは地獄に行えええーーーい」


「等活(とうかつ)地獄・鉄磑所(てつがいしょ)!」

地下1万キロの地獄第1層、等活地獄に、李書王はいた。
巨大な鉄の臼にかけられ、肉と骨がすり潰され…
これまで経験したことのない、すさまじい
苦痛に、意識が消滅する。

翌朝、目が覚めると体は元通りだった。
はっとして、あたりを見回すと。
そこには身長5メートルの巨大な獄卒がおり、
李書王をつまみ上げ…
「やめてくれえええっ」
再び、鉄の臼が重々しく回り、李書王はミンチとなる。

翌朝、目が覚めると…
巨大な獄卒が…


こうして3年の月日が過ぎた。
李書王は1000回以上ミンチにされたが、決して
慣れるということはなく、毎回毎回、前日より
2倍は苦痛が増してる気がした。

「そろそろ、次の地獄へ移してやろう」
天井から声が響いた。
「膿血所(のうけつしょ)へ行けーい!」


李書王は、ネバネバした沼の中でもがいていた。
それは吐き気のする匂いの、血の
混じった膿(うみ)の大沼。

もがくほどに体は膿の中に沈み、鼻や口、耳から膿が
流れこんで、吐き気を催す臭気で、肺がいっぱいになる。
意識が途切れると、自然に体が浮き上がった。

しかし顔が水面(というか膿面)に出ると、今度はスズメ蜂
のような虫が飛んできて、目や耳を食い荒らす。
それを避けるには、膿の中に沈むしかなかった。

時間の感覚は失われたが、李書王はここに10年いた。


「そろそろ次いくか。屎糞所(しふんしょ)!」

次は文字通り、糞尿の海である。
全身糞尿につかりながら、異様な飢餓感に襲われ、
他に何もないから仕方なく、糞をすくって貪り食う。
しかし同時に、10センチはあるジャンボ蛆虫が
体にたかって、自分の肉も貪り食われるのだ。

200年の月日が流れ、李書王の心からは人間で
あったころの記憶はすっかり消え去り、
ただ糞を食らうだけの機械と化した。


「さ、次」
以下、省略。


「乞食」と「コブのある老人」は離れた場所で、
この不思議な光景を見ていた。
がっくりと座りこんでいる李書王、
その前に立ちはだかる円仁…
その目は、すさまじい集中力で一心不乱、
李書王を見つめている。

「この世にある、すべての魔術、妖術、仙術、法力、念力、
神通力… その9割は、「言葉」による暗示にすぎん。
つけ加えるなら… 多少の小細工、たとえば儀式、呪文、
踊り、蛇のミイラのような小道具、もっともらしい書物なども、
「言葉」の力を補填する。しかし… しょせんは暗示だ」
語り始めたのは、乞食である。

「だが… 残り1割、本物がいる。本物は暗示の必要はない… 
糸を使うからな」
「この御仁のは、みごとに太い糸ですな…」
コブのある老人の、指さす先に…

円仁の眉間から、李書王の額まで…
1本の光る糸が、結んでいる。
だがそれは、普通の人間には見えないだろう。
物質ではない「何か」によってできた、神秘のケーブル。

「この糸を使い、我と彼の頭を結べば… 
我の頭の中の「世界」が、糸を通して彼に伝わる… 
相手の頭を支配することができる」

コブ老人は得意げに、
「フフ… 私は同時に100本の糸を出せますぞ、荒ぶる神よ」
「荒ぶる神」と呼ばれた乞食は、鼻で笑い、
「だがな、糸に頼ってるうちは、まだまだ2流なんだぜ。魔風よ」
「なんですと?」

まず、眉間から糸を出す時点で、かなりの精神力を消耗する。
それに、相手の脳とダイレクトに糸を結んだとして、
もし相手の精神力が勝ってる場合、反対に自分が、
相手の世界に支配されてしまうこともありうる。
自分と相手の脳を、1本の糸で直接結ぶというのは、
それだけリスクがあるのだと、乞食は説明した。

「糸で結ばないで、どのように術をかけます?」
乞食は、夜空をまぶしそうに見上げた。
「魔風よ… お前には見えないか…」
「何をですかな?」

「苦労して糸なんか出さなくっても… この地上の
生きとし生けるもの全て… 全ての生命は始めから、
見えない糸でつながってるんだよ」
この地球という星は、生命を結ぶ無数の糸によって、
繭(まゆ)のようにくるまれているのだと、乞食は言う。

それは、まさに巨大なネットワーク。
家族同士を結びつける見えない糸のネットは、先祖を
同じくする血族のネットに結ばれており…
血族ネットが集まって、国の民全てを結ぶネットとなり、
人類という種の全てを結ぶネットとなり、ついには…
地球上の全生命が接続する、ネット空間が出現する。

「なるほど… つまり、目の前にいる2人の場合…
日本人と唐人だから、少々遠回りになるだろうけど、
どこかの誰かを経由して、2人を結びつける、糸の道筋が
あるわけですな… その道筋を見つけ出せれば…
自分がわざわざ糸を出さなくてもいいし、
相手からも自分を見つけにくい」


などと話しているうち、全てが終わったようだ。
李書王は大地に崩れ、円仁は走り去っていった。
コブの老人は、ため息をついて
「この世は奥が深い… まだまだ長生きして、
修行をつまにゃいかんですな」

乞食は、円仁の後ろ姿を見つめながら、
「あいつは、もう大丈夫だ… 自力で日本に帰れるだろうよ」
ニヤリと、牙をむいて
「そして、必ずや… 日本で波を立てる。大波をな」

コブの老人は、李書王を抱き起こし、
「まだ息はあるが、廃人になっておる… しかし、この体は
よく鍛えてあり、捨てておくにはもったいない… 
どれ、私がもらいうけるか」

老人は、頬のコブを引っ張った。
ぬちゃあああ… と、イヤな音がして、頬から離れる。
震える手で李書王の頬にコブをつけると、
ズチュッ…グチュウ…と、肉が同化する。

コブの取れた老人は、崩れ折れた… 
かと思うと、たちまち腐り果て、目も
当てられぬ腐乱死体と化す。

李書王はゆっくり立ち上がると、陶酔した
目つきで頬のコブをなでた。
「いい… いいですな… この体」
乞食は苦笑した。
「便利な野郎だ…」



翌年、承和13年(西暦846年)。

仏教弾圧の果て、唐の武宗帝は、33才の若さで崩御。
道教の指導者である李終南を失い、半端な素人知識で
丹薬(水銀)を調合、中毒を起こしたのである。
水銀は不老不死の霊薬といわれるが、
大変危険な有毒物質だ。

こうして、「会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ)」と
呼ばれる宗教弾圧は終了した。



翌、承和14年(西暦847年)。

円仁は「国外追放」という形で、唐より帰国。
遣唐使に選ばれてから、12年の歳月が流れていた。

この年、尾張浜主は「雅楽頭(うたのかみ)」に任ぜられた。
宮廷の歌舞を司り、楽人の指揮を取る役職である。
雅楽師として生まれ、栄誉の頂点に立ったのである。



1年飛んで、嘉祥(かしょう)2年(西暦849年)。

少年阿古(あこ)は、5才になっていた。(数え年)
生まれたのは奈良の菅原の里だったが、
今は京の都にいる。
この家には、優美な紅梅と白梅が1株ずつ、植えてあった。

梅は、飛鳥時代ごろに遣隋使が持ち帰ったという。
中国の晋(しん)の時代、皇帝が学問に励んで
いた時に梅の花が開き、怠ってる時は萎れて
しまったという伝説がある。
そこから「好文木(こうぶんぼく)」とも呼ばれるが、学者の
家の庭に植えるには、ふさわしい樹木であった。
ちなみにこの時代、梅干は薬の一種であり、高級品である。

阿古は家の軒先に座り、咲き誇る
紅梅を、でれーっと見ていた。
上品な香りが鼻腔いっぱいに広がり、
筆を取ると、さらさらと何かを書きつける。
それは、彼が生まれて初めて詠んだ歌であった。

美しや 紅の色なる 梅の花 
あこが顔にも 付けたくぞある


家人から褒められると、得意げになって、
「私は将来、紅梅のような人を妻にしたいですね」
などと、とんでもなくマセた口をきいた。
しかも将来、白梅の方に心変わりするのである。