天神記(一)





2、 纐纈城(こうけつじょう)




話は10年ほどさかのぼり、承和2年(西暦835年)。

第19回遣唐使のメンバーが、発表された。
42才の円仁も、仏教留学生として、
唐へ渡るチケットを手にした。

この物腰柔らかく、眉の下がった人の良さそうな天台僧は、
比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を開いた名僧、
最澄(さいちょう)の高弟として、すでに名を知られた存在。

目的地は、天台宗発祥の地・天台山(現在の浙江省中部)。
師の最澄は、密教の研究において、
ライバルの空海に遅れをとっていた。
その遅れを取り戻し、延暦寺を日本仏教の中心とすること。
それが円仁の使命である。
そのためには…

「魔道…」
円仁の穏やかな表情の下に、もう1つの
顔があることを、誰も知らなかった。


「そこで暗い顔をなさってるのは、円仁さまではありませんか?」
さわやかに声をかけてきた、もう1人の僧がいる。
見れば、ライバル空海の直弟子にして、若くして
阿闍梨(あじゃり=師範代)に抜擢された、
真言宗の超エリ−ト、真済(しんぜい)、37才。

「し、真済どの…! あなたも遣唐使に…」
ライバル宗派・真言宗の若手ナンバーワン
の登場に、円仁はあせった。

強気な表情を満面に浮かべ、ちょっと渡辺謙のような
風貌の真済は、全身から才気がほとばしるような、
強烈なオーラを発している。
「フフ… たとえ、船が難破しようとも、板切れに
しがみついてでも、唐まで行ってやりますよ」


翌、承和3年(西暦836年)。
遣唐使船団は、いよいよ博多港を出航。
いきなり嵐にあい、3隻大破で中止。

「ほんとうに難破するなんて、死ぬかと思った! 
修行は日本でもできますよ!」
真済、あっさりとリタイア。
しかし、円仁はそうはいかない。


翌、承和4年(西暦837年)。
再チャレンジで、博多港から船出。
逆風が吹いて、またもや大破。

円仁は焦り始めていた。
「魔神よ…」
仏ではなく、まだ見ぬ異教の魔神に、祈りを捧げた。


翌、承和5年(西暦838年)。
「む… 尾を長く引いた星が…」
ハレー彗星が地上から観測できるのは、4ヶ月後の
10月なのだが、円仁にはすでに見えていた。

「ほう… 禍つ星(まがつぼし)ですかな?」
出航を待つ船上で話しかけてきたのは、白髪の上品な老人。
円仁は驚き、あきれた。
こんな危険な航海に、これほどの高齢者を連れていくのか…

老人は、尾張浜主(おわり の はまぬし)と名乗る雅楽師で、
唐に本場の雅楽を学びにいくのだという。
年齢はなんと、106才!

(禍つ星ならば、むしろ我の祝福となるはず…
天魔よ、我を唐土へ導きたまえ… 魔道を成就させたまえ…)
そして、ついに「最後の遣唐使」は出航した。

3度目の正直で、ようやく航海は成功… 
したのは円仁の船だけで、他の1隻は九州沖合で遭難、
もう1隻は南海に漂流してしまう。
(円仁の船も、渚に乗り上げ全壊、さんざんな上陸となる。)
ともかく、円仁にとってハレー彗星は、
禍つ星どころか幸運の星であった。

案じていた106歳の老人も、若者以上に精気にあふれ、
無事に雅楽の勉強に、旅立っていった。
円仁も唐に上陸後、さっそく目的地の
天台山に向かおうとしたが…
ここからが円仁の9年半に及ぶ、苦難の旅の始まりである。


まず、天台山への旅行許可証が発行されない。
「あなた短期留学生ですよね? 短期では天台山まで行って、
勉強して帰ってくるのはムリだから。不許可」
「そ、それなら… 短期じゃなくて、勉強
終わるまで唐に滞在したいんですけど」
「不許可」
「もういいよ… それなら不法滞在してやる」

この後、不法滞在を住民に通報されて捕まったり、
新羅人になりすまして天台山を目指したり、
天台山をあきらめ、かわりに五台山(ごだいさん)を目指して、
約1270kmを歩いたり… そしてついに唐の都・長安に、
五台山から約1100kmを歩いてたどり着く。

仏教研究に対する、とてつもない執念であった。
これほどの執念を燃やし、円仁が学ぼうとしたものは何か?
それは… 天台宗を、比叡山の仏教を、
日本最強の仏教にするための秘法…
ひとことで言うと、「仏教版の黒魔術」である。

魔神の召還、呪殺、セックスを利用した秘儀、
星の運行から運命を読み取る術…
後に天台宗の最奥の秘奥義となる、秘法の数々。


さて、円仁が長安に到着して、さらなる秘法の研究を
続けるうち、武宗帝による仏教弾圧に巻きこまれ、
纐纈城(こうけつじょう)に監禁されてしまったわけだが…

つくづく運のない円仁だったが、後に一連の苦難の旅を、
「入唐求法巡礼行記」と題して、書きまとめる。
これは日本人による最初の本格的旅行記であり、
ライシャワー駐日アメリカ大使が
「マルコ・ポーロの東方見聞録より、史料価値が高い」
と絶賛したらしい。


一方、尾張浜主は1年ほど滞在の後、承和6年
(西暦839年)に、遣唐使とともに帰国。
1年くらいで、じゅうぶん学べたのか?
という気はするが、日本風の雅楽を大成。
雅楽で最も有名な「陵王(りょうおう)」という曲も、
この時に唐から持ち帰ったようだ。



物語は、承和12年(西暦845年)に戻る。
円仁が纐纈城に幽閉され、何日目かの夜。

寝ていると、不気味な風の音が聞こえてくる。
「ちがう… 風ではない…」
しばらくして、かぼそい人間のうめき声だと気づいた。
声をたどって、真っ暗な城内をこっそり歩いていくと…

大きなホールにたどり着いた。
天井から吊るされた、1人の僧侶。
脇の下につけられた切り傷から、血がポタポタ滴り落ち、
下に置かれた甕に、血が溜まっていく。
部屋のすみには、ミイラのように干乾びた
僧侶たちの死体が累々と…

「な、なんという…」
扉のすき間からのぞいていた円仁は、絶句した。
魔道を求め、この国に渡ってきた自分だが、
これはあまりにもおぞましい光景。

「あっ まだ生きてる人が…」
ミイラの山で、もぞもぞ動く者が。
見張りもいないようなので、勇気を出して入ってみる。

生存者を抱き起こし、
「しっかりしてください。ここはいったい、なんなのです?」
どうにか息をついている、紫色の骨と皮ばかりに
なった僧侶が、指で字を書いて伝えるには…

ここに連れてこられた僧侶は、まず、
口のきけなくなる薬を飲まされる。
(食事に混ぜて、気づかれないように)
次に、太って血の気が多くなる食事を与えられる。

そして、じゅうぶん肥えたら、天井から
吊るされ、血を絞りとられる…

纐纈(こうけつ)とは、絞り染めのこと。
円仁はハッとして、思い出した。
長安の町にひるがえる無数の、不気味なほど
鮮やかな、真紅の旗…
「まさか、あれが…」

「そう、あれが聖なる血染めの革命旗… 
道教以外の宗教を殲滅させる、我らの
聖なる宗教革命の御旗なのだ」
ひょろ長い爬虫類のような男が、兵士を連れて入ってきた。

この男こそ、このたびの仏教弾圧の黒幕。
羅浮山(らふざん)の道士、李終南(りしゅうなん)という。
若返りの薬を吐き出す「玉象」という宝貝(パオペエ
=魔法の道具)を使い、宰相・李徳裕(りとくゆう)を
虜とし、さらに皇帝をも洗脳したのである。

「なかなかの法力をおもちのようだが、
この城の秘密を知ってしまった以上」
兵士たちが、円仁を取り押さえる。
「あなたも、この薬を飲むのだ」
怪しげな小瓶を差し出す。

円仁は恐怖に震えながらも、必死に呪法を口ずさむ。
「オン マカソギャ メガッサニョロニョロ オン チュルヤサン プギャー ソワカ…」
それを見て、道士・李終南は、あざ笑う。
「道教の結界が張ってあるこの城で、
密教の真言なんて意味なし」
「魔神よ… 我を救いたまえええっ!」


そのころ…
纐纈城の正門前に、一人の乞食がフラッと現れた。

ボロをまとい、髪も髭も伸び放題だが、
「乞食」と呼ぶには体格がかなり良い。
身長は190センチはあろうか、異様に節くれ
だった筋肉は、縄文杉のようだった。

警備兵が門を固め、月光の下、忽然と現れた、
この異様な人物を警戒する。
「止まれッ」

「神が直接手を下すのは、下衆(げす)なこと… 
わかっちゃいるんだが」
「それ以上近づくな!」
「あれこれ考えるのもめんどくせえ… ま、いいか」

乞食は、拳をグッと握りしめる… 
瘤(こぶ)のような筋肉が盛り上がった。
「止ま…」

ドオオオオンと、何かが炸裂した。
目にも止まらぬ速さで飛びこんできた乞食が、
城門を思いきり、殴りつけたのである。
頑丈な城門は、まさに爆発した。
四散した破片が、警備兵たちに
突き刺さり、あたりは地獄と化す。

「魔神参上… なんてな」
ニヤリと笑った乞食の口元に、牙がのぞく。

その背後には、でっぷり肥えた老人が立っていた。
頬には、大きなコブが…
「あとは、ポチにまかせましょう」

老人が手をヒラヒラ動かすと、3メートルはありそうな、
巨大な牛のような山犬が、空間から現れ…
凶暴な唸り声を上げ、城門から飛びこんでいく。
ありえないサイズの猛犬の乱入に、城内は大パニックになった。


「なんの騒ぎだ?」
円仁の口に、今まさに薬を注ごうとした李終南は、手を止め…
次の瞬間、壁をぶち破って現れる巨大な獣。
そのすさまじい咆哮を耳にしただけで、兵士たちは体が麻痺、
なすすべもなく、次々に噛み殺された。

(バカな… これは幻覚…)
さすがに李終南だけは、山犬がリアルでないことを見抜いた。
山犬はニヤリと笑い、
「幻覚だったらどうするね? 道士先生」
よく見ると、山犬の頬には大きなコブが…

それが、彼がこの世で見た、最後の光景となった。
現実でない、幻の犬の牙によって、
彼の首は引きちぎられていた。


円仁は山犬に追い立てられるように、城外へ逃げ出した。
(魔神が、ほんとうに… 救ってくれた!)
涙を流して感謝する。
だが、城を見下ろす丘の上まで逃げてきた時…

「あなたならきっと、あの城から脱出して
くると思い、ここで待っていました」
「あ、あんたは…」
それは数日前に円仁を捕らえた兵士、
「生涯無敗」の男・李書王。

「やはり、殺しておくべきだった… あなたは危険すぎる」
左右の拳を、虎の爪のように構える。
「即身成仏なさるがいい!」
「ま、待ってくれ!」

ついてない男、円仁。
一難去って、また一難である。