天神記(一)





1、 長寿楽(ちょうじゅらく)




その魂は、『月の都』に永く住んでいた。
時が来た。
魂は、『沼』へと入っていく。
『沼』の中に、無数の『星』が見える。

できれば「唐」という国に生まれたいと、魂は思った。
どの『星』が「唐」につながってるのか、わからない。
わかっても、自力で泳ぐことはできない。
ただ流されるだけ。

ひたすら、念じた。
強い念があれば、強い縁(えにし)があれば…
「唐に生まれたい」と思うこと自体、
前世で唐と縁があるからであろう。
1つの『星』が大きくなり、ホワイトホールとなった。

魂はカプセルに包まれ、外宇宙に飛び出す。
と同時に、彼の『時の砂』は流れ始める。
過去の情報にアクセスする、全ての回線が閉じられていく。
つまり、前世の記憶が急速に失われるということ。

しかし、その寸前、彼の目にあるものが映った。
それは明らかに、美しい楷書体が
びっしり書きこまれた唐の書物。
それに手を伸ばし、彼はほほえんだ。
その瞬間、すべての記憶はホワイトアウトした。



承和(じょうわ)12年(西暦845年)、
第54代・仁明(にんみょう)天皇の御世。

新春。
京の都、御所、大極殿(だいごくでん)。
現在の千本丸太町の交差点のあたり。
仁明帝の御前にて、この年113才になる雅楽師、
尾張浜主(おわり の はまぬし)が、帝の長寿を願う
「長寿楽(ちょうじゅらく)」を舞っていた。

平均寿命の短いこの時代に、113才とは化け物である。
現代の感覚でいえば、200才くらいだろうか。
しかし、その上品な舞い姿は、美少年
のように優雅であったという。

舞が終わり、1000人近い観衆が、この老人を絶賛した。
尾張浜主… 唐から伝わった雅楽を和風に
改良した、「日本雅楽の始祖」である。
深々とこうべを垂れながら、彼の脳裏をよぎる思いがあった。

(アレのおかげで… 今日まで生きながらえ、私の求める
舞の道も半分は到達したといえる… しかし…… 
まだ極めるには、いたらない。あと20年… 
いや、10年でいい! 生きたい!
私の『時の砂』はいったい、あとどれだけ残されているのだ…?)


45年ほど前。
どこであったか、今となっては思い出せないが、旅の途中。
68才の尾張浜主は、不気味な男と出会った。
顔面を… おそらくは体中も… 気色悪いイボに
覆われたその男は、見た目とちがい、話してみると、
悪い人間ではなさそうだった。

「ワシュの名前は、ちゃんと発音しゅるの難しのよ。
魏弩羅(ギドラ)って、呼んでくりぇちゃまいつぇ」
ゴモゴモと不明瞭な発音で話す男は、何10年も
前に唐から渡ってきた道士だと言う。
生まれは唐より、はるか西の国だそうだ。

「双六(すごろく)好き? やりゅましゅう」
賭け事に目がないらしく、尾張浜主と賭け双六をした。
金品の持ち合わせがないという男は、異臭を放つひとかけらの
肉片を包みから取り出し、これを賭けると言う。

「人魚の肉… の干物でしゅ。 …本物にゃないけど」
それは、さまざまな材料を合成して作った、「人造人魚の肉」…
いろいろな経緯があって、残りはこれだけになってしまった。
「これ食べうと、少しゅは寿命延びゅるよ… たぶん」

あからさまに、インチキくさかった。
しかし浜主はこの時、肉体の限界を感じており、
もう長いことないな… と思っていた矢先だった
ので、これに飛びついた。
2年でも、1年でもいい…
舞を極める時間がほしい…

浜主は、双六に勝った。
そして、承和12年(西暦845年)のこの正月、
雅楽師として、人生の頂点に立ったのだが…



半年がすぎた、6月25日。

奈良の旧都にほど近く、菅原の里がある。
古代、土師(はじ)氏の一族が移り住んだ時、
ここは一面、スゲの原だったという。
平安時代に入り、土師清公(はじ の きよとも)が
氏の名を「菅原」に改めた。
今日は、その清公に3人目の孫が誕生した、めでたい日。

生まれてすぐ、漢籍(中国の書物)に手を触れ、ほほえんだ。
文章博士(もんじょうはかせ)を代々つとめる学者の家系らしく、
「学問好きな子になりそうだな」
と、一族の者たちを喜ばせる。
この時代、学問といえば中国の書物を読むことであった。

「阿古(あこ)」と名づけられた。
ずいぶんかわいい名前だが、後の菅原道真
(すがわら の みちざね)である。
道真が産湯をつかったという池が、
菅原天満宮の近くに残っている。

ところで土師氏の祖は、垂仁(すいにん)天皇の時代に、
初めて相撲の試合を行ったという、出雲(いずも)の勇者、
野見宿祢(のみ の すくね)である。
「学問の神様」の祖先が、「相撲の神様」だったとは、
へえX3くらいのトリビアだが、菅原氏が出雲系
である点も、押さえておきたい。
この後の展開に、関係してくるかもしれない。



さて、この年。
菅原一族のような学者や、文化人たちが憧れてやまない中国、
すなわち唐は、大変なことになっていた。
少し時が戻って4月、唐の都、長安(現在の西安)。

「なんということだ… 尊い寺が…」
破壊されていく。
トータルで4600ヶ寺以上。

大通りでは、還俗(げんぞく)を拒む
僧侶たちが、兵士に連行されていく。
(還俗とは出家の反対、僧侶から一般人になること)

この弾圧の期間、強制的に還俗
させられた僧侶は26万人以上。
街には、異様に鮮やかな赤に染め抜かれた
旗が何百、何千とひるがえる。
「北京オリンピック聖火リレー」でも「文化大革命」でもない。

弾圧の主は「胡錦濤(こきんとう)」でも「毛沢東(もうたくとう)」
でもなく、唐の「武宗帝」。
仏教だけでなく、マニ教、ゾロアスター教、景教(ネストリウス派
キリスト教)も弾圧の対象である。
武宗帝は、中国固有の土着宗教である「道教」に傾倒し、
その一方で、仏教などの外来宗教に大弾圧を加えていた。

「狂っている…」
行商人に化けた彼も、僧侶であることが
バレたら、ただでは済まない。
しかも彼は、日本人だった。
眉の下がった、気の弱そうな顔をしているが…

さっそく兵士に見つかり、尋問されてしまう。
もう、逃げるしかない。
「あ、こら!」「待ちなさい!」

崩れかかった寺に逃げこむが、隠れる場所がない。
ただ仏像が並んでいるだけ…

兵士たちが、寺に踏みこんでくる。
不思議なことに… 行商人の姿は、どこにもなかった。
「おかしいな」「どこへ行った…?」

一人の兵士が、入念に仏像を調べる。
細い目の、精悍な顔つきの男である。
すると、中に1体だけ、妙に新しい観音像が…
この兵士、ただ者ではなかった。

「破ッッッ!!!」
強烈な掌打、すなわち「てのひら」による打撃が、
観音像の胸を叩きつける。
「がッ!!」
絶息した観音像は、たちまち人間の姿に戻った。

この兵士の名は、李書王(り しょおう)という。
「生涯無敗」とうたわれた拳法家、李書文(り しょぶん)の
先祖にあたる人物である。

「げほっげほっ」
絶息し、うずくまる行商人を、見下ろす李書王。
「失礼しました。生半可な拳では、あなたの術を
敗れないだろうと思ったのです。
あなたはいったい、どういう方ですか?」

日本人は、円仁(えんにん)と名乗った。
遣唐使とともに渡ってきた、留学僧である。
密教の僧なので、超能力の心得が多少ある。

李書王は、どう処置すべきか、武宗帝に問い合わせた。
その結果…


「この城に滞在してください。へんぴな山奥の城ですが、
この中で、自由に仏法の勉強をしてかまいません。
ただし、城の外に出ることは許されないので、そのつもりで」

城壁を高くめぐらした、厳重な構えの城砦である。
その名は「纐纈城(こうけつじょう)」…

驚いたことに、城の中には、おおぜいの僧侶が住んでいた。
還俗を拒否し連行された僧侶たちが、
ここに閉じこめられていたのだ。
しかしどういうわけか、僧侶たちは
みな、口がきけないのだった…



そのころ…
日本の紀の国、熊野。

円仁と同じ天台宗の僧が、那智(なち)の大滝に打たれていた。
その名も、円仁に似てるが、「円珍(えんちん)」という。
この時、32才。

その風貌は、1度見たら忘れられない。
どんぐり型、砲弾型、おむすび型というか…
頭が異様に大きく、頭頂がとがっていた。
(このような頭骨を、「霊骸(れいがい)」というそうな)

腫れぼったいまぶたの下の瞳は、左右の焦点が合わず、
何を考えているのか、まったく読み取れない。
まさしく怪人である。

修行に打ちこみながら、彼もまた夢見ていた。
唐土に渡り、仏法を学ぶことを…