天神記(一)





プロローグ 花咲か爺(はなさかじじい)




延喜(えんぎ)4年(西暦904年)、秋。
第60代・醍醐(だいご)天皇の御世。

伊勢(いせ)の国、御在所岳(ございしょだけ)の
ふもと、湯の山温泉。
(公式サイト http://www.yunoyama-onsen.com/)
このころはまだ、湯治場のある
ひなびた集落でしかないが…

ここの湯に、ときおり浸かりにくる、不思議な老人がいた。
身なりも良く、白いひげを垂らし、福々しい人相で、
右頬に大きなコブがある。
素性は不明、いつも1匹の白い犬を連れている。

犬の名をポチというが、「ポチ」の語源は英語のスポッティー
(スポット=ブチのある)や、フランス語のプティ(かわいい)
などの説があり、平安時代にポチという名の犬がいたか
どうか怪しい、というか、絶対いないだろう。

老人が言うには、山奥の隠れ里に
御殿を建てて住んでいるらしい。
「このポチが、裏の畑で金銀財宝を見つけ出してな。
それで御殿を建て、のんき気ままな隠居生活じゃ」

老人は冗談のつもりで言ったのだろうが、村人は本気にした。
強欲な連中が、老人が湯に入ってる間に、
ポチを連れ出してしまう。
「宝を探せ!」「言うこときかねえと、たたくぞ!」
「ここ掘れワンワンと、鳴いてみろ!」

ポチはよく訓練され、めったなことでは人を噛まないよう、
しつけられていたのだが、この時は引っ張りまわされたり、
たたかれたりして、殺人犬の本性を現してしまった。
たちまち1人を噛み殺し、2人に重症を
負わせ、村中がパニックになる。

老人が湯から上がったころには、10人以上の死傷者を
出したあげく、ポチは弓矢で仕留められていた。
「なんと…」

村人らは殺気立って、老人を取り囲む。
「見ろ! おめえさんの犬がしでかしたことだ! 
まるで地獄だよ!」

村の長は、熊のようにがっしりした初老の男で、
欲深さが顔ににじみ出ている。
「この償いをしてもらおうか! 金でも
銀でもええ、お宝をここに出せや」

「さて、困ったの… 今は持ち合わせがない」
「なら、ご自慢のそのコブを、もぎ取ってやるぞ!」
「なに? それはまずい。鼻でも耳でも取っていいが、
コブだけは勘弁しておくれ」
「ほう…? そのコブは、よほどの福をもたらすと見える」
村長は、ニヤリとした。

おもむろに手を伸ばすと、力まかせに老人のコブをむしり取る。
ねぢゃっ…
腐った肉が裂かれるような、イヤな音がした。

「フンッ」
村長は思い切りよく、己の右頬にコブを貼り付ける。
一瞬にして、それは顔の肉に同化した。
と、その時…

村長の目の前で、コブを失った老人が…
鼻のつまるような悪臭の煙を出して、
一瞬にして腐り果ててしまった。
「な、なんじゃ これはーッ」
村人たちから、悲鳴が上がる。

「恐らく…… 人間ではなく、物の怪(もののけ)の
類だったのだろうな」
頬に大きなコブをぶら下げて、村長は冷静な判断を下す。
その顔から、欲深な色は消えていた。

「犬も、ただの犬でないかもしれん… 
死骸を埋るんだ! 生き返ったりせんように」
村人たちは、あわててポチを埋めた… 
この犬も妖怪かもしれないと、ビクビクしながら。

と… 犬を埋めた盛り土の中から、
ひょいと小さい芽が顔を出し…
「な、な、なんじゃ これはッ」
たちまちのうちにグングン伸びて、大木となってしまう。
「こ、この木、なんの木?」
「奇なる木じゃ!」

さらに、とつぜん黒雲が湧き上がると、雷鳴が轟き…
「今度はいったい、なんじゃ…」
ひとすじの雷光が、謎の木を直撃、真っ二つに引き裂く。
地獄の業火のように燃え上がって、すぐに灰となった。

「どうやら、妖怪犬が妖怪の木に姿を変えたが、
天の神さまが焼き殺してくれたようじゃの」
村長は、その灰をザックリとつかむと、
「が、もしかして… 灰になっても生きとるかもしれん」
風にのせ、ふりまいた。

灰が付着した枯れ木の枝に、パッと花が咲く。
直径90cmもある、緋色の奇怪な花… 
公衆便所のような異臭を放っている。
「な、なんじゃーーー あの花ァ!」
「く、くさい! 鼻が曲がりそうじゃ」
南洋にしか咲かない、ラフレシアという怪植物である。

村長は調子にのって、さらに灰をふりまく。
「さあさあ、枯れ木に花を咲かせましょう!」
村はたちまち、巨大なラフレシアに
埋め尽くされ、異臭が充満した。
子供は吐き、女や年寄りには失神するものもあった。

頬の大きなコブをなでながら、ニンマリして村長は、
「さて、帰るか… また会おう、村の衆」
集団催眠でヒステリー症状を起こし
ている村人たちを残し、姿を消す。



村長は、雲母峰を越える山道(現在の東海
自然歩道)を歩いていた。
この先の、入道ヶ嶽ふもとにある家に… 
腐り果てて死んだ老人の館に、「帰る」のである。
その道すがら、声をかける者があった。

「魔風大師(まふうだいし)… 新しいお体に移られましたか」
「猿丸(さるまる)か」
「お館にいらっしゃいませんでしたので、たぶん湯治場だろうと」
「何用であるか?」

不気味な男が、姿を現した。
獣の皮でできたマントを頭から被り、ボロ布を
首から顔の下半分まで巻いている。
右頬に深い傷跡があり、それを隠すためだろう。
鋭く、暗く冷たい瞳がのぞいていた。
「唐笠山の… 道真(みちざね)公の様子を見てまいりました」

2人は、紅葉に彩られた山道を歩く。
「まだ、意識は混濁しておるであろう」
「はい… ときおり目を開きますが、人形のように
目の中に無がありまする」
「死体を寄せ集めて作ったあの体に、道真の霊が
定まるまで、7・8年はかかる…
それよりお前、他に言いたいことがありそうだな?」

「お暇をいただきたく存じまする… 少々、疲れましたゆえ」
「いつか、そう言うだろうと思っていた。
いいよ、好きにしなさい」
「ありがとうございます。大師もどうか、お元気で…」
「長い間、根黒衆(ネグロス)として
私の側に仕え、よく働いてくれた」


入道ヶ嶽の館から、けもの道を一昼夜、甲賀を越え
伊賀に入ったあたりに、知る者もほとんどない、
隠れ里がひっそりとあった。
「鍔隠れ(つばがくれ)の里」と呼ばれるこの里は、
ある山寺を中心に開けた里である。
その寺は、「死河山(しがさん)根黒寺(ねぐろじ)」、
宗旨は「第六天魔王宗」。

猿丸は東北地方の深い山中で生まれ育ち、
10才の時、根黒寺に連れて来られた。
ここで、想像を絶する地獄の訓練を受けたのである。
朝はまず、鏡に向かって「お前は誰だ?」と10回問いかける。
毎朝やると自我がゲシュタルト崩壊を起こし、
根黒寺の大僧正が新たな人格を植えつける。

ある時は、裸足で山中を12時間、走り回る… 
食事も小便も、走りながら済ます。
全速力で土壁に向かってダッシュ、ぶつかる直前、
速度をまったく落とさず、直角に横走り。
全速力で後ろ向きに走る。
走りながら手紙を書く。

断崖絶壁から飛び降りる、暗闇の中で米粒に写経する。
断食、断水、竹筒で呼吸しながら水中で24時間すごす。
訓練中に死者が出ると、その肉や内臓は、
他の訓練生の食事になる。


そんな生き地獄の日々も、今や遠い思い出になろうとしている。
「これから、どうするつもりだね?」
「生まれ故郷の出羽(山形県+秋田県)に帰り、
野兎でも獲って暮らそうかと」
その時… 獣の匂いが濃厚になった。

「猿丸よ… 最後の勤めだ。頼んだぞ」
突然、全長5mはあろうかという巨大な熊が飛び出した。
爪をふりあげ、村長に襲いかかる。
猿丸は飛び出し、巨獣の前に立ちはだかった。

顔に巻いてあるボロ布を引き下げると、「バシュッ」という
発射音とともに、口から何かを吹き出す。
弾丸のように熊の右目をブチ抜き、熊は転倒してもがいた。

前歯… の1本が、舌で簡単に抜けるようになっている。
その前歯を、根元の尖った方を先端にして、
すさまじい勢いで吹き飛ばしたのである。
猿丸の秘術、「牙つぶて」であった。

さらに、ゴツい刃のついた山刀を取り出し、
熊の心臓めがけて投げつける。
この山刀の柄には長い革紐が縛りつけてあって、
投げても革紐を引いて手元に戻すことができるし、
鎖鎌のように振り回して使うこともできた。

たちまち、巨大な熊は血まみれの
肉塊となって、猿丸の足元に転がる。
「見事であった!」

村長は大きくうなすき、
「長の勤め、大儀であったぞ、猿丸… 根黒衆首領で
あるこの私が、抜けることを許す。達者でおれよ」
村長の前にひざまずく猿丸の目には、
かすかに光るものがあった。

「根黒衆の首領」と称した、大きなコブを
頬につけた村長は去っていった。
1人、猿丸は血のような紅葉の中、
血まみれの熊の死骸のわきに立つ。

その時… 鹿の鳴き声が響いた。
山刀の血をぬぐって鞘に収めつつ、
猿丸の口からは、歌がもれた。

奥山に 紅葉(もみじ)ふみわけ 鳴く鹿の 
声きく時ぞ 秋は悲しき


百人一首にも入っている、猿丸太夫の歌である。
猿丸太夫というのは、まったくの謎の
人物で、その素性は誰も知らない。


追記(1) この歌は代表的な秋の歌とされ、花札で
紅葉の札(10月の札)に鹿が描かれているのは、
この歌をイメージしたもの。
花札の鹿は横を向いているので、相手の言うことにソッポを向く
=無視することを「鹿の10月=鹿10(しかとお)=シカト」
というようになったそうな…

追記(2) ここは、現在の四日市市水沢の「もみじ谷」
であり、以前は猿丸の歌碑が建っていたそうだが、
今はなくなってしまったらしい?

追記(3) 京都府宇治田原町にある猿丸神社は、
「コブ取りの神」として知られている。
実は、魔風大師が猿丸の労をねぎらって創建した神社である。