俵藤太物語





2、 百足(むかで)




琵琶湖のきゅっと細まったところに位置する堅田は、
古来、水運や漁業の中心地。
湖を行く舟から通行税を取ったり、フナ寿司の
材料になるニゴロブナを獲ったり、なかなかに
収入のよい豊かな土地であった。
後に、「堅田湖族(かたたこぞく)」と呼ばれる
勢力のホームグラウンドとなる。

JRで京都から6つ目が堅田駅。
(比叡山のふもとの坂本駅から2つ目)
芭蕉の句「錠明けて 月さし入れよ 浮御堂」で有名な
浮御堂(うきみどう)、一休さんが青年時代を過ごした
祥瑞寺(しょうずいじ)などが残り、ちょっと訪れてみたい、
渋い町である。
堅田観光協会 公式サイト http://katatakankokyokai.com/


その堅田の衆を取りまとめる首長の邸に、
夜、猿夜叉を訪ねてきた者があった。
「危ないところを、助けていただきまして…」
目の覚めるような、気品のある美女であった。

しかし猿夜叉には、礼を言われる覚えがない。
「何か、恩返しをさせていただきたいのです… 
なんでもおっしゃって」
「うーん…」

猿夜叉はダメもとで、言ってみた。
「あなたのような美しい人を、妻にしたい」
女は顔を赤らめ、うつむいた。

その夜、2人は結ばれ夫婦となった。
猿夜叉もかなりの男前なので、周囲も
うらやむ美男美女のカップルである。
とろけるような甘い数ヶ月のあと、女は身ごもり、
やがて男の子を産んだ。
これ以上の幸せは望めないほどの、幸せな家庭。


だが… 出会って1年半以上立つのに、いまだに
女の素性を、猿夜叉は知らなかった。
「お市」と名乗っているが、本名かどうかも怪しい。
しかも、お市には妙な習慣があった。

毎夜1時間ほど、土蔵に1人きりでこもるのだ。
竹生島の弁財天を信心しており、猿夜叉の
健康や安全を祈願するのだという。
祈りを捧げている間、決して中をのぞいては
いけないと、念を押されていた。

(きっと私のために、一心不乱に祈ってくれているのだ… 
邪魔しないでおこう)
だがある夜、あまりに子供がぐずるので、
やむなくお市の祈祷中に呼びにいった。
すると… 土蔵の中からは何か、大きくて
ヌメヌメしたものが動き回る気配が…
しかも、お市の喘ぎ声も聞こえてくるではないか。

思わず窓から中をのぞくと、そこには…
巨大な蛇を白い裸身にからみつかせ、
恍惚の表情を浮かべているお市の姿が。
「な… なんという…」
衝撃のあまり、腰がぬけてしまう猿夜叉。

「あなた!?」
大蛇はお市の体を離れ、土蔵の隅に開いた穴から
スルスルと逃げていった。
お市はなすすべもなく、生まれたままの
自分の体を抱きしめている。
やがて猿夜叉が入ってきて、戸を閉めた。
「汚らわしい… お前は汚すぎる!!」

間男との浮気の現場を取り押さえた、なんてレベルではない。
相手は蛇… しかも全長40mの巨大生物。
現代人であっても、ウルトラ警備隊に連絡すべきか、
ワイドショーの浮気相談にかけるべきか、
判断がつきかねる場面だ。
ワーッと、お市は号泣する。

感情の爆発が収まった後、猿夜叉はお市に
着物を着せ、部屋へ連れ戻った。
「あれはいったい… どういうことなのだ」
「申し訳ございません… 私のほんとうの名は浅井、
竹生島の巫女でございます」
「な、なに…」

「本来であれば、私は俗人のもとへ嫁ぐことなど
許されぬ身。しかし…
あなたと出会った時、世間並みの恋をして、幸せな家庭を
築きたいという気持ちを押さえることができなかった… 
それで、つい…」
「身分をたばかったというのか。まあ、そこまではわかる。
しかし、あの蛇は… あれはいつぞや、私が助けた… 
あれは竜神さまなのか?」

「あれは私の分身でございます」
「分身」
「あれは私と一心同体、もう1人の私。
ゆえにあの蛇は、浅井であり、乙姫であり、
竜神であり、弁財天の化身であるのです…」
「うーん…?」

「誰かがあの蛇を痛ぶれば、その痛みは私にも
伝わります。私があなたに愛撫され昂りを覚えれば、
あの蛇も歓喜に身悶えるのでございます。
毎夜、あの蛇は私から伝わってくる快楽に悶え、
押さえきれなくなり私のもとへ…
あなたが見たのは、私が自分を慰めるあさましい姿…」
ここまで言うと、浅井はポロポロと涙をこぼした。
「もちろん… 私はあなたのもとから、去らねばなりません」

「ま、待て。そんなに性急に結論を出すな。
落ち着いて話し合おう」
「もともと、禁を破って夫婦の契りを結んだ私が、愚か
だったのです。私とあの蛇は、あなた方を守護する
神の化身ではありますが、同時に、人間から見れば
おぞましい、妖しのもの… 化物でもあります。
そのような者を、北の方(本妻)にするわけにもいきますまい」

「し、しかし… 子供はどうする? まだ小さいし、そんなに
丈夫じゃないし、お前がいなかったら、この子は…」
浅井は、ぐずっている赤子を抱き上げ、頬ずりする。
その時だけ泣き止むのだが、夫の手に渡すと、
またぐずり始める。
「ほら、やっぱり… お前がいないと…」

浅井は右目に指を差し入れると… ムリッと眼球を抉り出した。
あまりのことに、猿夜叉は言葉を失う。
赤子の口に、血まみれの眼球をそっと置く浅井。
小さい2つの手がそれを支え、小さい口でチューチューと吸う。

「ほら、泣き止んだ… これを、おしゃぶりに使ってください。
私の眼には、霊力が宿っていますから。
これで健やかに育つはず」
「お、お… お前、痛くないのか!?」
猿夜叉は袖の布地を裂いて、あわてて浅井の顔に包帯をする。

「痛いですよ… でも、心はもっと痛いです…」
笑みを浮かべる浅井の残された左目から、涙があふれる。
「それに… これが母親として、この子にしてやれる最後の…」


夜が明ける前に、浅井は去った。
スヤスヤ眠る赤子のかたわらで、猿夜叉は1人、
声を殺して泣いていた。

しばらく後、猿夜叉は都の職人に発注して、瑠璃(るり)で
義眼を作らせ、それを竹生島に奉納した。
その瞳の色は、琵琶湖と同じ… 深い神秘的な群青だった。

と、ここまでが、延喜8年(西暦908年)までのできごとである。



なんとも不思議で哀れな、女の身の上話であった。
藤太は、浅井にも杯を渡し、注いでやる。
「今の話に出てきた、大蛇をいじめる若者って… 俺じゃね?」
浅井は、酒をのどに詰まらせ、
「な… そういえば、どこかで見たような気がすると思ったら…」
「頭突き入れたんだっけ。正直すまんかった」

浅井は、眉間にシワをよせ、
「まあ、いいです… 痛かったけど」
小声で付け加えるのを、藤太は聞き逃さなかった。
「あれだけ強ければ、きっと百足(むかで)にだって…」

「百足か。それがお前の目的か? 
そのために、俺に抱かれたってわけか… なるほど。
確かに奴らは、堅田の衆を苦しめてるからな」
浅井は、藤太のたくましい腕にすがった。
「お願いです! 百足と… その手下どもを… 
殺してください!」

悪名高い盗賊の首領「百足」が、手下を引き連れ、
琵琶湖の東にある三上山(みかみやま)に立て
こもったのは、2年前のこと。
山頂に難攻不落の砦を築き、その軍勢は1列に並べると
三上山を7周り半するほどの数と言われる。

「まあ、それは誇張だが、ざっと3〜400人はいるだろうな。
朝廷も、うかつには手が出せないだろうよ…」
実は三上山、藤太の家がある田原からわりと近く、
藤太のヤクザ者としての悪名を耳にした百足の手下が
この小屋までスカウトに来たこともある。

「どうせ都じゃ、俺みたいな落ち目藤原の子弟に出世の
道はねえ… こんな世の中、別にどうなっちまってもいいが、
盗賊か… ま、少し考えさせてくれ」
「ああ、じっくり考えて決めろ。仲間に入りたくなったら、
いつでも三上山に来い」
そういって、盗賊どもは帰っていったのだが…

「彼らは堅田を暴力で支配、収入の7割を献上しろと、
無茶を押しつけ… 逆らうものは、無残に殺されます。
このままでは、堅田の衆が… 私の子供も…
どうか、お願いいたします! 私の体だけでなく、
他にもお礼はいたしますから…」



翌日の三上山、山頂の砦の前に、3人の
怯えた漁師が並ばされていた。
「お前たち3人は、愚かにも都へ直訴状を届けようとした… 
本来なら、許されない罪だ。が、百足さまのお慈悲によって、
今から縄を切って自由にしてやるので、好きに逃げろ。
生きて無事に、ふもとまで辿りつけたなら… 
命は助けてやる。さあ、行け」

縄を解かれた3人のうち、2人は一目散に、
ふもとめがけて走り出した。
もう1人は足が震えたまま、仲間の行方を見守っている。
「さ… 狩りを始めようか」
その場を仕切っていた男が口笛を吹くと、数10人もの、
人とも野獣とも見分けのつかない、凶暴な山賊たちが
弓を手に、歓声を上げ、獲物を追い始める。

ほどなく2人の漁師は、ハリネズミのように無数の矢が突き
立った物言わぬ姿で、ボロ雑巾のように引きずられてくる。
「ちぇ… あっけねえ」
「暇つぶしにもならねえや」
「ん? もう1人いるじゃねえか」
「お前も早く逃げろよ」
背中を押された漁師は、無様に転倒。

「待ちなさい、お前たち。かわいそうに… 
1人くらい、助けておやり」
「む… 百足さま!」
漁師は顔を上げるが、逆光がまぶしく、声の主の顔は見えない。
だが、その男は張りのある声で、優しく語りかけてきた。

「安心しなさい。私が部下に命じて、誰にもお前を
追わせないし、矢で射ったりもしない。
さあ、早く山を下りて、家族のもとへお帰り」
「あ… ありがとうごぜえます!」
ただ1人生き残った漁師は、ヨロヨロ立ち上がると、
転がるように駆け下った。

「お頭… いいんですか?」
「これでいいんだよ」
標高432mしかない三上山のふもとまで、漁師は一気に
下りると、安全圏に到達した喜びに踊り狂う。

「私の弓を」
この時に初めて、高さ3mもあるゴツい弓を手にする。
槍のような太さの矢をつがえると、手下たちも半信半疑で
「この距離で… 大丈夫なんで?」
すでに眼下の平野部を歩き始めた漁師は、点にしか見えない。
「お前たち… これが狩りの醍醐味さ」

無事に家に帰れる… 泣きそうな気持ちで歩いていた漁師は、
背後からミサイルのように飛来した巨大な矢に、刺し貫かれた。
背骨が砕け折れ、体が真っ二つにならんばかりであった。