俵藤太物語
1、 浅井姫(あざいひめ)
延喜11年(西暦911年)、第60代・醍醐天皇の御世。
「うわ… なんだあれ…」
「でか…」
「キモ…」
「こんなのがいたんじゃ、とても
向こうへ渡れやしねえな…」
ここは琵琶湖が瀬田川に流れ出すあたり、
「瀬田の唐橋(からはし)」と呼ばれる、
有名な橋のたもと。
人々が遠巻きに、「それ」を見つめていた。
橋に長々と横たわる、ヌラヌラした青緑色の爬虫類…
長さ40mもある大蛇である。
以前、戦前まで奥多摩あたりにも、丸太ん坊くらいの
太さの蛇がゴロゴロいた(という書きこみを「2ちゃん」
で見た)と書いたが、さすがにこれは巨大すぎ。
爬虫類は死ぬまで成長を続けるので、天敵が
なく餌が豊富な環境ならありえなくもないが、
これは明らかに自然界のバランスが崩れた
アンバランス・ゾーンの入口…
これから30分、あなたの目はあなたの体を離れて、
この不思議な世界へと入っていくのです。
(ナレーション:石坂浩二)
「どうしよう。この橋が渡れないと、ずっと
下流の橋まで遠回りしないと…」
住人や旅人にとっては、大迷惑である。
その時…
「おゥ、悪いな。通してくんな」
その威圧的な姿に、人々は思わず後ずさる。
「誰だ、あのヤクザ者は…」
「藤太じゃ…」
「田原郷の藤太や…」
地元民は、この暴れ者をよく知っていた。
藤原秀郷、長男(太郎)なので「藤太」と呼ばれる。
今、藤太は横たわる大蛇に見向きもせず、
ズカズカと橋を渡っていく。
その足が大蛇を踏みつけた時、
野次馬たちは息を飲んだ。
「わざとやってるだろ…(汗)」
しかし大蛇はモソモソ動いただけで、それ以上の
反応はせず、藤太は橋を渡りきった。
藤太の姿が見えなくなると、大蛇は長い体を
橋から垂らして、川へと消えた。
ようやく人々は安心して、橋を通行できるように。
「藤太のおかげ… ですかな?」
京都府の宇治田原町と、滋賀県大津市大石は
県境を接しているが、このあたりが藤原秀郷の
出身地、「田原郷」らしい。
ちなみに「忠臣蔵」で有名な大石内蔵助
(おおいし くらのすけ)も秀郷の子孫であり、
先祖は代々、大津市大石に住んでいた。
この年22才の藤太は、田原郷の本邸から離れた
寂しい山中に、自分専用の小屋をもっていた。
いうなれば、「秘密基地」みたいなもの。
ここには、愛用の刀や大弓、退治した熊や猪の
毛皮や牙、その他ガラクタが雑然と積んであって、
藤太の心安らぐ空間となっている。
もちろん大好きな酒も、たっぷりとある。
この夜も、都で買い求めた下らない品々を
眺めつつ飲んでいたが、
「誰だ。用があるなら入ればいい」
入ってきたのは、若い女だった。
「昼間、瀬田の大橋で拝見しました…
勇気があるのですね」
笠を取った女の美しさに、藤太の
目は吸い寄せられた。
細面の凛とした、知的で気品のある顔立ち。
だが、その瞳は… 不思議なことに右目だけ、
深い湖のような群青色。
オッド・アイ。
「私は、勇気のある強い人を探していたのです」
「べつだん、勇敢なことをした覚えはないが…
何かふんづけたような気はしたけどな」
女は何も言わず、衣服を脱いで白い肌をさらす。
「もう何年も、男の方に抱かれておりません…
おねがい…」
その背中にはクッキリと、踏みつけ
られたような足型が残っていた。
サイズは藤太の足とピッタリだが、
そんなことがありえるのだろうか…
「あんた… 不思議な女だな…」
女の白くぬめる肌を撫で回しながら、
藤太はふと思いついたことがあって、
わざと強く抱きしめたり、乳首を
噛んでみたりした。
案の定、女は敏感に反応した。
(やはりな…)
痛ぶられると、昂ぶってくるクセのある女なのだ。
そういう女がいると聞いたことはあったが、
会うのは初めてである。
だが不思議なことに、左目は湧き上がる
欲情に溶けるようにけぶっているのに、
右の群青の瞳は、冷たい光をたたえた
ままなのであった。
女が果てた後、酒を飲みながら、藤太は切り出した。
「その右目は… まがいものか?」
「わかりますよね、やっぱり…
気味が悪くてごめんなさい」
「いや、まったく気にならん。むしろ、きれいだ。
よくできた細工だ」
女は、藤太の胸に飛びこんできた。
左目から、涙を流している。
「ありがとう…」
「で、どうしたんだ。その右目は」
女は、語り始めた。
それは、延喜2年(西暦902年)のこと。
藤原清貫(きよつら)は筑紫(つくし=九州)への
出張から無事帰還、休暇をもらった。
左大臣・藤原時平の命で、使者として宇佐八幡宮
(大分県)を訪問、そのついでに大宰府(福岡県)
に流された菅原道真のようすを見てきたのである。
さて、1週間の休みを、どう使おうか。
「そうだ、近江(おうみ=滋賀県)への
小旅行をしよー\(^o^)/
竹生島(ちくぶしま)に行ってみたかったんだ」
琵琶湖に浮かぶ神秘の島、竹生島。
古代より、浅井岳の女神・浅井姫を祀って
いた聖地だが、奈良時代からは弁財天が
本尊となっている。
日本最古の弁財天を祀った寺社らしいよ。
弁財天(弁天さま)というと、財産を増やして
くれるセクシーな女神というイメージがあるが、
その正体はヒンドゥー教の女神サラスヴァティー、
学問と芸術を司る。
清貫は、ライフワークとして「日本書紀」の書写を
しようと考えており、これが成功しますようにと、
学芸の女神・弁財天に祈願したかったのだ。
琵琶湖に着くと小舟をチャーター、年老いた
漁師の漕ぐ櫓にまかせ、湖に乗り出す。
漁師の他に、17才くらいの少女が同乗していた。
その娘の美しさに、清貫は目を見張る。
「おい、船頭。竹生島って女人禁制じゃなかったか?」
漁師は笑い声を上げ、
「弁財天は女神ですぞ。もちろん、浅井姫も…
それだけではございません。
琵琶湖の湖底にある竜宮城、その乙姫さまも
祀っております。女だらけです」
「そうなのか…」
やがて、緑の濃い竹生島が見えてきた。
現在なら、「ひこにゃん」の彦根か、「長浜ラーメン」の
長浜から汽船で行くのが便利だろう。
竹生島宝厳寺 公式サイト
http://www.chikubushima.jp/
ニュースで見たのだが、最近の竹生島は、
鳥のフン害で大変なことになっているらしい。
地元の皆さん、がんばってください。
さて、清貫の一行は竹生島に上陸。
「公卿(くぎょう)さま。参拝の前に、
お見せしたいものがあります」
と、漁師が言うので、待っていると…
上陸と同時に姿を消した娘が、
舞姫の衣装で現れた。
「これは… なんと、艶やかな…」
娘の舞いは、この世のものと思えぬ美しさで、
清貫は魂を抜かれた。
「この娘の名は… なんと申す?」
「浅井でございます」
「浅井…」
その知的で凛とした、気品あふれる顔を、
清貫は見つめる。
「もともとは浅井岳の女神であった浅井姫は、
この竹生島に遷(うつ)られてからは、竜宮城
の主である乙姫となられたのです。
そして、その実体は弁財天…
この浅井は、先祖代々この島に仕える巫女…
浅井姫の化身なのです」
水の女神の霊気が指の先まで満ちているかの
ような、優美な舞い姿の17才の浅井…
その2つの瞳は神秘の輝きにキラキラして、
まぎれもなく生きた本物の瞳であった。
果たしてこの先、浅井の右目に一体、
何が起こるのであろうか。
清貫が参拝を終え、船着場に戻る途中。
湖の方から、水の跳ねる音が…
やけに大きな音がした。
「ん?」
見ると、とてつもない大きさの蛇が…
水中へと消えていく瞬間だった。
「なんだ、ありゃ… あんな化物みたいな
蛇がいるのか? ひい〜」
船着場で待っていたのは漁師1人で、
娘の姿はなかった。
岩場に舞姫の衣装が、脱ぎ捨ててある。
「船頭… まさか、乙姫っていうのは…
琵琶湖に住む竜神なのでは…?」
漁師の顔のおもてには、琵琶湖の水面と同様、
神秘があるばかりであった。
「さあ、どうでしょうか… ただ言えるのは、
あの娘は我ら堅田(かたた)の民にとって、
生き神さまも同然ということ…
わざわざ都から貴人が参拝にいらっしゃると聞いて、
浅井はとても喜んでいました。
ぜひとも、その方の願いをかなえてあげたいと…
先ほどの舞いは、あなたを寿(ことほ)ぐ舞い。
あなたの祈願は成就するでしょう」
漁師の言葉通り、2年後に清貫は
「日本書紀・神代巻」の書写を完成。
これは京都府向日市の向日(むこう)神社に
今日まで伝わり、国宝となっている。
向日神社 公式サイト
http://www.geocities.jp/mukojinjahp/index.htm
明治神宮の本殿は、この神社をモデルにしてるんだって。
さらに26年後、清貫は怨霊と化した道真の
落雷攻撃を受け、無残な最期を遂げる運命。
(天神記(四)「忍びよる影」参照)
延喜7年(西暦907年)。
琵琶湖のほとりで、若者たちが集まって
ワイワイ騒いでいる。
「うわッ 巻きつかれた!」
「やべえぞ、いくら藤太さんでも…」
「負けるな! 藤太さん!」
たくましい体格の若者が、全長40m
もある大蛇と格闘していた。
水辺で休んでいた大蛇に、若者の
方からちょっかい出したらしい。
周りを取り巻いているのは、彼の子分のようだ。
「フンッ」
たくましい若者が、蛇の顔面に頭突きをくらわすと、
締めつけていた胴体がゆるんだ。
さしもの大蛇も失神したらしく、若者は
その首をつかんで、高々と差し上げる。
「おおおーッ さすがは藤太さん!」
「お前たち、そこで何をしている? その大蛇は…
もしかして竜神さまでは…」
地元民と思われる青年が、走ってきた。
大蛇を取り囲んだ若者たちを、にらみつける。
「こんなことをするなんて… よそ者だな、お前ら?」
「それがどうした?」
「我らは、お前のような身分の低い者が、
対等に口をきいてよい人間ではないぞ」
高圧的な態度に出る若者たちは、不良っぽいが、
確かにいい身なりをしている。
ことを荒立てるのはまずい…
と、青年は下手に出ることにした。
「失礼いたしました。私は堅田の首長の跡取で、
猿夜叉(さるやしゃ)と申す者。
実は、この湖では以前より、たびたび
巨大な蛇が目撃されており…
私は、その正体は竜宮城の竜神さまか、もしくは
その使いではないかと思っておりました。
そこにおります大蛇、もしそれが竜神さまだとしたら、
怒らせれば風や大波を起こし、漁師を苦しめることに
なりましょう。どうか、ご容赦を」
「よし、わかった」
「えっ 藤太さん?」
「せっかくの獲物なのに…」
「それは藤太さんのモノですよ?」
たくましい若者は、蛇の頭を放り出すと、
「弱い奴に用はねえ… 俺がブン殴りたいのは、
自分よりでかい強い奴よ」
若者たちは、去っていった。
「さ… 竜宮城へお帰り…」
猿夜叉は大蛇を水辺まで引き
ずっていって、放してやる。
「それにしても、あの男… 素手で大蛇と
争って勝つなんて… 恐るべき奴…」