ぷりぷり将門記





1、 叡山(えいざん)の誓い




中生代白亜紀に生じたホルンフェルス(縞模様の
変成岩)が、ひとかたまりの岩塊となって、比叡山の
一峰、四明岳の山頂にぽつんと取り残されているのが
単なる偶然ではなく、宇宙誕生より定められた運命
だったとするならば、今、1人の若者が、そのホルン
フェルスに寂しく腰かけ、傾いた秋の陽に染まる都を
見下ろしているのもまた、宇宙の定めた宿命であろう。

「寂しいなあ… 故郷に帰りたい…」

下総(しもふさ)の国の大牧場主、平良将(たいら の
よしまさ)の三男、将門(まさかど)。
通称は相馬小次郎(そうま の こじろう)、17才。
昨年より都に上って、右大臣・藤原忠平(ふじわら の
ただひら)に仕える臣下となっている。

一応仕事は忠平のボディガードだが、
実際は子分・使い走りに近い。
父からは、国には帰らず、そのまま都で
身を立てるよう言われていた。

憧れていた都での生活だったが、
来てみると、全く馴染めない。
よく失敗をして、忠平に叱られる。
荒々しさの中にも幼さを残す、純情素朴な東国の
少年に、雅びだが陰湿な、都の水は合わなかった。
大平原が広がる故郷、坂東(ばんどう)の地へ帰りたい…

「いっそのこと、都が燃えてなくなってしまえば…」

その時、将門の鼻腔を、嗅いだことの
ない異様な匂いが刺激する。
「?」
振り返ってみると、岩のつけ根に誰か座っていて、
そこからなんとも不快な煙が立ち昇ってくるようだ。

「ハーイ」
挨拶してくる人物は、身なりからして
中級レベルの貴族らしい。
岩を登ってきて、将門の横に腰を下ろすと、
「よう、坊主。どうしたの、涙なんか浮かべて」

口の端に、何か細長いものをくわえていて、
そこから煙が出ている。
線香か…? と、将門が思ったのは無理もない。
この時代、煙草なんてものは存在しないのだから。

「ああ、これ? 乾燥させた麻の葉っぱを丸めたものさ…
酒よりも、もっと気持ちよく酔える… 最高だぜ?」

大麻は日本で普通に自生している植物で、その繊維は
衣類の他、神社の注連縄(しめなわ)の材料にもなる。
ずっと後には、実が七味唐辛子に使われる。
マリファナとなる葉を吸引した記録は見当たらないが…
試した者がいたとしても、不思議ではない。

男は、もう1本の葉巻を取り出すと、半分ほどになった
自分の分から火を移し、差し出す。
「あんたもキメてみなよ… イヤなことなんかフッ飛ぶぜ」
なりゆきで受け取った将門は、男をしげしげと見る。

20代後半から30代始め… 上品な口ひげをたくわえた、
端正な顔立ちだが… その目は酔ってトロンとしており、
狂気を秘めているように見えた。
「俺かい? そう… 竜宮城の竜王丸、
とでも呼んでもらおうか」

言われるままに、煙を肺の中に
10秒ほど溜め込み、吐き出す。
これを3回ほど繰り返すと、将門は
軽く酔ったような心持がしてきた。
日本原産の大麻は、幻覚成分THCの含有量が0.1%
と微量であり、トリップするほど強い効果はない。

「あんた… 右大臣ところの将門さんだね? 
何か悩みでも?」

なぜ、俺の名を知ってる… 
そんな疑問が頭の片すみに湧いたが、
気にならないほど気持ち良くなっていた。
口も軽くなって、愚痴がポンポン飛び出してくる。

まず、坂東を馬鹿にする都の人間が、好きになれない。
それにも増して、従兄弟(いとこ)の
貞盛(さだもり)が気に入らぬ。
2才年下の平貞盛は、今年になって上京、
将門と同じく右大臣に仕えているのだが…

これがまた、なんとも外ヅラのいい奴で、
すっかり都暮らしに順応し、右大臣や
貴族たちから可愛がられている。
そして今では、都生まれの連中といっしょに
なって、年長者であり職場の先輩でもある
将門に、蔑すみの視線を送ってくるのだ。

「大体、都の連中はわかっていない。
俺たち、東国の兵(つわもの)が盗賊どもを取り締まる
からこそ、租税が無事に都へ運ばれるのに…
都でのんきに歌を詠んだり、色恋にかまけたりしてれば、
ひとりでに税が集まってくると思ってやがる…」

竜王丸と名乗る男は、同情の眼差しで
「わかる、わかるよ… それで都を
燃やしたい、なんて言ったんだね」
思わずガバッと顔を上げる将門。
「そんなこと言ってない!」

「隠すこたあない… 俺とあんたで、都を攻め落とそうよ…
謀反(むほん)を起こして、この国を奪っちまおうぜ」
「なん… だと… 正気か貴様ッ!」
「俺の主(あるじ)が言ってたよ… あんたは必ず、
俺たちの仲間になって、この国をひっくり返すと…
そういう宿命なんだとよ…」

「ふざけるな! 俺は右大臣に仕える武人だぞ!」
岩の上に立ち上がった将門は、腰の剣を抜いた。
この時代、都では昔ながらの直刀が使われている。
「主、と言ったな? そいつが首謀者か?
仲間は何人だ?」

勇ましく問い詰めるが、大麻に酔っているので
足はガクガク、竜王丸の喉元に突きつけた刃も、
小刻みに震えている。
その竜王丸は、まるで動じないで、
トロンとした目で見上げると、
「我が主は… 菅原道真(すがわら の みちざね)」

「な… 菅大臣(かんだいじん)だと…」
将門は足元に、黒い大きな穴が…
魔界への穴が、開いていく心地がした。
彼の生まれた年に、菅原道真は死んだ。
そして怨霊となって甦り、10年前の
あの日、都を恐怖に陥れた…


かつての右大臣・菅原道真が、ライバルである
左大臣・藤原時平(ふじわら の ときひら)に
謀られ、九州の大宰府(だざいふ)へと
左遷された話は、有名である。

大宰府が大陸との交流の窓口として重要視
されたのは昔日のことで、遣唐使の廃止以来、
暇をもてあます役所となっていた。
大宰府へ飛ばされるということは、島流しも同然。

道真はロクに仕事も与えられず、現地の職員たち
から冷遇され、宿舎に引きこもる毎日を送った。
その宿舎というのが、屋根に穴が開き、床の割れ目
から雑草が伸びるような、ひどいあばら屋。

道真はまず精神を病み、次第に体も病魔に冒され、
ついに延喜(えんぎ)3年(西暦903年)、
この世を去った。
藤原時平を、都を、この国を恨みながら…

しばらくして、「道真が怨霊となって甦った」
という噂が、都で囁かれるようになった。

そして延喜9年(西暦909年)、誰も体験したこと
のないレベルの、すさまじい雷雨が都を襲う… 
道真の帰還であった。
いたるところに落雷、都は炎に包まれ、死者多数。

藤原時平もまた、犠牲者となった。
その後を継いだのが弟の忠平、
将門が仕える主である。


「俺も右大臣から聞いたが、あの日の
都は地獄のようだったというぞ… 
時平公を殺しただけでは飽き足らず、
さらに都をも滅ぼそうというのか…」

「滅ぼさないと、俺たちはいいように
コキ使われるだけだよ?
俺もあんたも、栄達する望みはない。
いや、たとえ一時出世しても、行き着く先は
道真公のような運命さ… 俺は見たんだよ」
「何を?」
「道真公が、最期を迎えた場所」

竜王丸と名乗る男は少年時代、大宰府に赴任する
父に連れられ、九州へ旅立ったという。
が、父は病に倒れ、かの地で没した。

親を失った悲しみよりも、後ろ盾を失ったため、
都での栄達が叶わなくなったことの方が
ショックだった、と竜王丸は語る。
「その時、思い出したんだ… かつて道真公が宿舎に
していたあばら屋が、近くにあったことを…」


荒れ果てた小さな宿舎は、幽霊の出る家特有の、
妖しいオーラを放っていた。
少年の足は震えていたが、切羽詰った
気持ちに、背中を押される。

「あのー… 道真公、いらっしゃいますか… 
いるなら、出てきてください…」
蜘蛛の巣と菌類が支配する、忌まわしい
空間へと踏み入り、呼ばわってみる。

怨霊となった道真に、何を願おうというのか?
亡き父にかわって、俺の後見人になってください、と?
我ながら、狂っているとしか思えなかった。
その時…

通りゃんせ 通りゃんせ
ここは冥府の細道じゃ 地獄の亡者の細道じゃ

時空を超え、不気味な童子の唄声が、
かすかに響いてくるではないか…
気がつくと、眼前に大きな黒い影が立っていた。
物理的には、存在しないものの影。

ちっと通して下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ

後になって、この唄声は、やはりこの大宰府で
命を落とした道真の幼子、隈麿(すみまろ)と
紅姫(べにひめ)のものと知った。

朦朧とした黒い影が、スーッ… と、手を伸ばしてくる。
(我が僕(しもべ)となれ…)
夢の中で聞くように、低く、くぐもっていた。
(この国に新たな王が立つ時、お前を大臣としよう…)

それっきり意識を失った、少年・竜王丸であった。


「そのようなわけで、俺は道真公の臣下となったのさ。
そして、この国を治める新たな王というのが、
どうも… あんたらしいぞ… 平将門よ」

「信じられるか、そんな話! もし作り話でないなら、
お前は幻影を見たのだ。道真公の死に場所で、
お前は自分自身の、心の奥底の声を聞いたのだ」

「ほう?」
バカのように見えるが、意外と賢いことを言う…
竜王丸は、そんな目で将門を見た。
「そうだとしたら、どうする? 俺を連行するかね?」
「無論だ。道真公の名を騙り、謀反を扇動するとは…
さあ、立て!検非違使(けびいし)にしょっぴいて… う?」

急に、足元がおぼつかなくなった。
まわりの風景が、ぐるぐると回る…
初めて吸った大麻に酔ったのか?
それもあるだろうが、将門を見つめる竜王丸の
狂気を秘めた瞳から、大麻以上の黒い毒気が、
精神に流れこんでくるような気がした…

「誓え、将門よ! 我が盟友となり、
道真公の軍門に降ると…
お前は古代出雲の王、大ナムチの
生まれ変わりなのだから…」
圧倒的なパワーを放つ竜王丸の瞳が眼前に
迫り来て、ついに岩から転げ落ちる将門…

体が虚空に吸い込まれるような
心地がして、意識が飛ぶ間際に、
「誓う…」
かすかにつぶやく、己の声を聞いた気がした。

時に延喜(えんぎ)19年(西暦919年)、
第60代・醍醐(だいご)天皇の御世のことである。



その翌日、修行僧が山頂付近で
昏倒している若者を見つけ、介抱。

右大臣・藤原忠平の邸に将門が
戻ったのは、さらに翌日のこと。
「比叡山で酔いつぶれて寝ておった
そうだな… たわけ者が!」
主人にしこたま叱られ、面目丸つぶれである。

(あの竜王丸という男、なんとしても見つけ出さねば…)
都が、この国が危ない。
だが、正直にありのままを主人に話すことも、はばかられた。
(あいつ、俺が謀反に加わると決めてかかってたからな… 
下手に報告すると、俺まで妙な疑いをもたれてしまう)

単独で、こっそりと調査する必要があった。
もし竜王丸を見つけたら… 場合によっては、秘かに
葬り去ってしまうというのも、選択肢の1つ… 
野盗に襲われたように見せかけて。
それくらいの腕っぷしと胆力はある、と自負していた。

ところが、都の辻々に目を配って、早ひと月もたとう
というのに、一向に竜王丸の気配も見ない。
(あやつ、もしかして、この平安京の住人ではないのか…?)

実を言うと、竜王丸とは何度もすれちがっていたのだ。
大麻をキメていた時と、普段では、あまりにも雰囲気が
ちがうので、まったく気づかないのも無理はないが…
将門が通り過ぎた後、ペロリと舌を出してる竜王丸であった。



そんなある日、都の大路で。
騎馬の武人と、それにつき従う少年を
見かけ、将門は駆けよった。
「おう、夜叉王丸! ちょっと来い、話がある」

武人と楽しげに話していた少年は振り向くと、
優しげな顔に、困ったような笑顔を浮かべた。
「なんだ、鬼王兄さんか。いきなりだなあ… 
私は今、都で武勇の誉れも高い六孫王(りくそんおう)さま
から、弓や競馬(くらべうま)、蹴鞠(けまり)などについて、
ご教授いただいてるところだというのに…」

「夜叉王丸」というのは、将門の従兄弟で、すでに
元服を済まして今は平貞盛(たいら の さだもり)
と名乗る若武者である。
将門が「気に入らぬ」とこぼしていた、
右大臣家に仕える後輩だ。
ちなみに将門は、幼名を「鬼王丸」という。

「なに、六孫王さま? そのお方が…」
あこがれの色を目に浮かべ、
将門が馬上の武人を見ると、

「フッ」
まだ若い、プライドの高そうな気品ある武人は、サインを
ねだるファンを前にした芸能人のように得意気である。

清和(せいわ)天皇の第六皇子・貞純(さだずみ)親王を
父にもつ六孫王は、すでに皇族から臣下に降って、
「源経基(みなもと の つねもと)」と名を変えて
久しいが、都人は今でも、皇族時代の名で呼ぶ。

弓術も馬術も、さらに蹴鞠まで天才的な
達人で、国中に名を知られる。
「都の人間を好きになれない」将門までもが、
ぜひ会ってみたいと思っていたほど。

「夜叉王、お前いつの間に、こんな人と知り合いに… 
本当に昔から、要領だけはいいな!」
源経基と平貞盛、両者の子孫が「諸行無常」の源平合戦を
繰り広げるのは、まだまだ250年以上も先の話だ。

「では六孫王さま、今日は失礼いたし
ますが、また是非お話を…」
「いつでも遊びに来るといい」
武人が去っていくと、将門は従兄弟の肩をつかんで、
細い路地に連れこんだ。

「ある男を探している… 詳しいことは言えないが、
恐らく悪党だ。人相風体を説明するから、
見かけたら、こっそり教えてほしい」
「こないだ仕事をサボって、比叡山で
酔いつぶれていたのと関係が?」
「う… まあな」

「その男にイカサマ賭博で巻き上げられたか、
インチキ商品でも売りつけられたか、そんな
ところだろうけど… やれやれ、だ」
「うるさい! 今は事情は言えぬのだ… 
この前、碁の勝負で俺に負けたろう! 
負けたら、何でも言うことを1つきく約束だったはず。
それを今、果たしてもらう」

「確かに、なんでも言うことをきくと言ったな」
「言ったぞ」
「あれは嘘だ」
「なっ 嘘で済むかっ 男同士の、武人同士の約束だぞ!」

年下の少年の目には、侮蔑の色が浮かんでいた。
「だから、あんたはダメなんだよ。鬼王… 
相手の言うことを、そのままに受け取る。
だから都の人間からバカにされる」
「なんだと!?」
将門は気色ばるが、貞盛は構わずに続ける。

「例えば、宴の席で… 誰かが社交辞令で、東国の
馬や刀を褒めるとする。と、あんたは調子に乗って、
馬や刀のウンチクを、延々と語り始める。
周りがウンザリしてるのも構わずに、誰も
聞きたくもない話を一方的に続ける… 
場の空気を読むってことが、できないんだよ」

「みんな興味もってくれてたぞ? 
面白い話だって言ってくれたし!」
「だから! 言われた言葉を、そのまま
受け取るなっていってんだよ!
ああいう席では、世間話とか歌や書画、あるいは
色恋の話題とか… 広く浅く話すものなんだ。
誰も兵法の講義を受けにきたわけじゃない。
だいたい、いい年して気の利いた
歌の1つも詠めないなんて…」

「だまれッ!!」
将門は、貞盛に平手打ちをかました。
「俺は武人だッ 武人が武器や馬を語って、何が悪い!!」
貞盛の唇の端が切れて、血が流れていた。

その血をぬぐう少年の瞳には、先ほどまでの
優しさはなく、凶悪な殺人者の眼光が…
「調子こいてんじゃねーぞ、このタコ」
2つ下といっても、体格は将門に
劣らず、ガッシリしている。

鋭い切れ味の、目にも止まらぬ
パンチが、将門の顔面に炸裂。
一瞬後に路上の土をなめながら、
(夜叉王の奴… いつの間に、こんな強烈な拳を…)
戦慄せざるを得ない将門であった。

貞盛はさらに、将門のアバラを蹴り、
体重をかけて頭部を踏みつける。
人当たりの柔らかそうな顔をして、
えげつない喧嘩に慣れているようだ。

「お前みたいな無神経な田舎者のせいで、俺まで
同類に思われてんだよ! このボケナスがッ 
坂東に帰って、2度と都に出てくるな!!」

蹴りまくっていた貞盛の足を、将門の手がつかんだ。
パワーでは将門が上か、貞盛は
片足のままジタバタするしかない。

「夜叉王… 生意気なんだよ… 
1度、思い切りブン殴ってみてえ…
ガキの頃から、ずっと思ってた…」

血と泥にまみれた将門の憤怒の形相に、今度は
貞盛の背筋に、冷たいものが走る番だった。

「そこまでだ! お前たち、やめっ!!」
2人の乱闘を、止めに入った男がいた。
「あ、伯父貴…」
平安京在住の、2人の少年の叔父、
平良正(たいら の よしまさ)である。

この年27、双六(すごろく)バクチが
好きな、ヤクザっぽい男。
といっても、生まれも育ちも京の都なので、
それなりに気品もあるが…

今も、遊び仲間の不良貴族や遊女を引き連れ、
通りを徘徊していたようだ。
「止めるな、良正!」
「面白いから、やらせておけ」

はやし立てる仲間たちに渋い顔を見せ、
「そうゆうわけにもいかんよ。坂東の兄貴たちから
預かった、大切な坊ちゃま方だ」
良正は都における、将門と貞盛の後見人であった。
もちろん2人の親からは、たんまりと謝礼をもらっている。

「お前らが怪我すると、俺が怒られるんだよ… 
まったく… 野の獣だな、お前ら」
将門と貞盛、2人とも、この叔父が好きではない。
白けた気分になって、立ち上がり、埃を払う。

「夜叉王… この決着は、いつかつけようぞ」
「ああ、必ずな… 鬼王」
宿敵として運命づけられた2人は、
背を向けて別方向に去っていく。
その後姿を交互に見比べ、取り残された良正は、

「可愛げのないガキどもだぜ… いつかお前ら、
俺に頭が上がらなくなるんだからな… 
俺は必ず一発当てて、大物になってやるんだ」

一発当てるためには、兄たちの成功を見習って、
坂東に行く必要があるかもしれない…
だが今のところ、都暮らしの楽しさを
捨てる気になれない良正だった。



賀茂川のほとりで手足と顔を洗い、スッキリした
将門であったが、胸のムカムカは収まらない。
ちくしょう、夜叉王なんかに協力を求めるのではなかった…
こういう時の気分転換は、買い物に限る。
幸い、仕送りが届いたばかりで、金はあるし…

しばらく歩くと、川原に掘っ立て小屋があった。
キンカンキンカンと、鉄を叩く音が響いてくる。
初めてこの小屋を見つけた時は、
「こんなところに鍛冶屋があるなんて…」
と、驚いたものだった。

普段は大工道具や、野良仕事の道具を製造販売して
いるようだが、武器マニアの将門は、この天国(あまくに)
という鍛冶師の鍛える刀は素晴らしい、という情報を聞き
こんでいて、京に上るとすぐに、訪ねてみたのである。

確かに、見せてもらった刀は、どれも将門の
魂を揺さぶったが、それ以上の喜びは、
都における唯一の友人を得たこと…

鍛冶師の天国は、かなり無口な男で、しかも
父親ほどの年配にも関わらず、初対面の時
から将門とは、妙にウマがあった。
小屋に通いつめるうちに、2人はすっかり
気心が知れるようになったのだ。

「ごめん、天国いる? 小刀でも見せておくれ」
作業場では、2人の弟子が、鎌や鍬を仕上げていた。
板の間の几帳(きちょう)の向こうから、暗くこもった声が、
「やあ、右大臣とこの若い衆か。いらっしゃい」

「友人」とは言っても、実は将門は1度も、
天国の姿を見たことがない。
いつも、几帳ごしに話すだけである。
「大怪我をして、非常に見苦しい姿をしておりますので、
お目にかけたくないのです…」
とのことで、決して物陰から出てくることはない。

(今日もやはり、出てきてはくれぬか… 
どんな姿をしていようとも、俺は気にしないのに…)
いつものように、刀剣談義に熱中していると、
いやなことも忘れた。
そして最後は、いつも同じ話になる。

「なあ、天国。こんな刀は作れないだろうか…
鉄をも真っ二つにする切れ味があって、
なおかつ容易なことでは折れない曲が
らない頑丈さをもつ… そんな刀を」

折れない刀とは、刃を柔らかくして、衝撃を
吸収するよう作られているが、曲がりやすい。
曲がらない刀とは、刃が厚く、硬く鍛えてあるが、こうなると
衝撃を受けて折れるかもしれず、しかも切れ味は鈍い。

「折れず、曲がらず、よく切れる」
それは矛盾した、ありえない「夢の刀」であった。
しかし天国は、いつもと同じように答える。
「いつか必ず、鍛えてみましょうぞ… そんな夢の刀を」



都の片すみ、無人の荒れ屋敷に、男は1人で座っていた。
比叡山で将門が出会った、「竜王丸」であるが、
人相はまるでちがう…
トロンとしていた狂気の瞳は、今は鋭く知的に輝き、
無精ひげもきれいに剃って、さっぱりとしている。

「あの少年が、本当に偉大なる王なのか… 
大ナムチさまの転生なのか… 
俺にはどうも、それほどのタマとは思えない」

あの子は、まだ半分なのです…
残り半分と出会い、ひとつになった時…
大ナムチさまは、この世に甦ります…

「なに、半分とな?」

あの子は、大ナムチさまの和魂(ニギミタマ)…
もう半分の、荒魂(アラミタマ)をもつ者も、
すでに転生している…
道真公の予言を信じるのです…

竜王丸こと、中級貴族・藤原純友(ふじわら の すみとも)
にとって、道真の怨霊に従う以外、道はありえなかった。
もはや足を抜くことは不可能なレベルまで、
陰謀の泥沼にはまりこんでいたのだ。

「だが… まだ、時がかかりそうだな。王の復活までは…」
しばらくは、大麻でもキメながら、都での平穏な暮らしを
ダラダラと続けるほかなさそうな純友であった。