将門記(一)





4、 迷い家(まよいが)




貞観14年(西暦872年)は、まだ続く。

「なんなんだ、この家は一体…」
東北地方のとある山中で、鹿を追っていた猟師が、
この異空間に迷いこんだ。
天然のヒバを贅沢に使い、屋根を藁で葺いたその邸は、
大集落の豪農クラスの規模だ。
これを建てるのに、現在の貨幣価値でいうと、
8千万円くらいはかかるだろう。

だが猟師の現在地は、天を突いてそびえる大杉に
囲まれた、深い谷間。
邸は斜面を切り開いた平地いっぱいに建てられ、
後方斜面や庭から伸びる杉の木にすっぽりと
覆われて、たとえ上空から偵察衛星が監視しても、
決して発見できまい。
「どうやって、こんな場所に建てたんだろう… 
材木を運びこむのだって、容易じゃないぜ」

猟師は、勇気を出して門をくぐってみた。
「もし… ごめんなさいよ」
答はなかった。
好奇心が恐怖に打ち勝ち、草鞋を脱いで、上がりこむ。

ピカピカに掃除された室内、立派な調度、太い柱…
「なんて豪華な… けど、まったく人の気配がしねえ」
台所で、漆塗りの高級そうな食器が並んで
いるのを見て、つい悪いことを考えてしまう。
「いや、いかん。人さまのものに手を出すなんて… でも…」

もし、このまま里に帰っても、誰も俺の話を信じないだろうな…
「よし、これが夢でない証拠に、1つだけ失敬しよう。
こんなにあるんだし、1つくらい…」
朱塗りの椀を1つ、ふところに入れる。
急に、怖くなってきた。

急いで玄関を目指すが、広すぎてちょっと迷った。
一瞬、座敷の奥に、小さい女の子が
座っているのが見えたような…
猟師はパニックに陥り、あわてて庭へ飛び出すと、
裸足のまま山道を逃げ去った。
その後の記憶は朦朧としているが、どうにか
血まみれの足を引きずって、里へ帰り着く。

しばらく休んで落ち着くと、里の者たちに、
不思議な体験を話した。
朱塗りの椀を取り出し、自慢げに語る猟師に
長老たちが言うには、
「それは迷い家(まよいが)じゃ… なん十年かに
いっぺん、迷いこむ奴がおる。
お前、そこまでの道を覚えておるか?」


そのころ、猟師があわてて出て行った山中の邸では…
大広間に8人の男女が集まり、丸くなって座っていた。
いずれも、ただならぬ妖気を発散している。
「大丈夫、記憶を消しておきました… ここへの道は
覚えてないはずですわ、一白水星(いっぱくすいせい)」

自信たっぷりにニコッと笑う幼女は、「元祖・座敷わらし」
の槐(えんじゅ)である。
「座敷」といっても、この時代の床は板張りで、
「座」は敷き詰められていない。
ゴザや畳は貴重品なのだ。

「四緑木星(しろくもくせい)の惑わしの術を信じよう… 
あの猟師は、2度と現れることはないだろう。
それでは、5年ぶりに集まった我ら「九星」だが、
まずは各自の報告から」

ここは、秘密結社「久遠の民」の本陣。
集まっているのは、「九星」と呼ばれる大幹部たちだ。
議長を務めるのは、リーダー格の「一白水星」こと蘇民将来。
はるか古えの昔、スサノオに疫病から救ってもらった商人だ。
「では、まず… 二黒土星(じこくどせい)」

四角張った顔、目つきの険しい50代くらいの男、二黒土星。
「朝廷が、この陸奥まで陰陽師を派遣するらしい… 
牛頭(ごず)天王が、あまりに無防備に、この辺りの
村に現れるので、噂を聞きつけたようだ」
この男の言う「牛頭天王」とは、スサノオのことである。
本来両者は別の神であったが、「疫病神」という
イメージでくくられ、習合した。

「ま、都の陰陽師など、俺がどうにでもしてやるがな…」
不敵な笑みを浮かべるこの男、かつては吉備真備
(きび の まきび)という名であった。
学者にして政治家、遣唐使、陰陽道の基礎となる
学問体系を日本に持ち帰った男。
カタカナを発明した人でもある… らしい。
100年近く前に、没したはずなのだが…

次に発言する「三碧木星(さんぺきもくせい)」は、
泣き出しそうな目をした、優しげな老僧。
「牛頭さまを追っている者が、もう1人おりますぞ… 
こちらはチト厄介かもしれぬ。唐から渡ってきた道士・李終南
(りしゅうなん)… 例の纐纈城(こうけつじょう)の主です。
今は修験者のように姿を変え、鳴神上人と名乗っているそうな」

その正体は、吉備真備の親友・玄ム(げんぼう)僧正。
大宰府に流されたあげく、バラバラにされて、
首だけが奈良に落ちてきたという奇怪な最期を
遂げた人物。(天神記(三)「通りゃんせ」参照)

「四緑木星」こと槐(えんじゅ)は、
「おしらさま事件」について報告。
「あの子は、もっとドえらいことやらかすよ… 
そう思わない、五黄土星(ごおうどせい)?」

「うむ、朝廷に対する憎しみも植えつけてやったしな… 
何か面白い結果が出るかも」
「五黄土星」の弓削部虎麻呂が、「国譲り」の神話で
おしらを焚きつけた話をすると、一同は興味深く聞き入った。

「次は六白金星(ろっぱくきんせい)、君の番だ」
「何もない」
「どういうことだ?」
「言った通りだ… くだらん。まったく、くだらぬ集まりだ」

六白金星は不精ヒゲの生えた、学者風のひねくれ者。
反骨の学者にして歌人、小野篁(おの の たかむら)である。
19年前に死んだはずの男は、耳垢をほじくりながら、
「都のアホどもにギャフンと言わせるような、愉快な企てを
話し合うのかと思い、今までつきあってきたが… 
世を乱し、民を苦しめるのが、お前らの狙いか?」

議長の蘇民は、静かな笑みを浮かべ、
「何を今さら… 我らはいずれも、1度は死んだ身。
死んで、人間をやめた身。我らはもはや人間ではない、
悠久の時を生きる「久遠の民」…
そして、この国をオモチャにして遊ぶのが、我らの生きる目的…
その遊び仲間として、面白そうな連中を集めたのが
この集まりではないか」

三碧木星こと玄ムが、心配そうに篁を見つめ、
「たか… いや、六白金星。卿も、朝廷には恨みつらみが
あるのであろう? この私と同様に… 
この国をグチャグチャにして、都の無能な大臣連中が
あわてふためくのを、いっしょに眺めて笑おうよ」

二黒土星、すなわち吉備真備の鋭い視線が、篁をつらぬく。
「貴兄は、牛頭天王より悠久の命を与えられ、
それと引き換えに、我らと「遊ぶ」ことを誓った。
天王に、忠実である義務があろう」
その目を、まっすぐに見返す六白金星の篁。

「あいにくだが… 俺は与えられなくとも、自力で永遠の命を
手にすることができたんだ! あと少しの時間さえあれば… 
俺はすでに、冥界に自在に出入りする段階まで来ていた。
あと10年… いや、5年あれば… 
あんな術の助けを借りずとも…」
死期の迫った篁が、不本意ながらすがってしまった、
「あんな術」とは…


それは、実に単純なものだった。
病床の篁は、蘇民より1枚の鏡を渡された… 
タネも仕掛けもない、ふつうの鏡。
表面に映る老人の顔からは、「もっと生きたい!」
という悲痛な叫びが滲んでいる。
「篁卿… 鏡に映るあなたを見ながら、
私の言うとおりに、唱えなさい」

お前は、人間ではない
お前は、人間であることをやめる
お前は、悠久の時を生きる「久遠の民」

お前は、死なない
お前は、死ぬことをやめる
お前は、死ぬことができない

お前は、今30才
お前は、老いることをやめる
お前は、老いることができない


「もう1度、繰り返して! 鏡から、決して目を
離さないように! もう1度! もう1度!」
篁は延々と、呪文を繰り返し唱えた… 10時間以上も。
ただ、これだけである。

だが… 篁の自我は、ゲシュタルト崩壊を起こした。
脳内の、「人間としての篁」を定義している
ファイルが消去され、OSが書き換えられた。
その結果、全身の全細胞のDNAにも、新たな記述が加わる。
細胞分裂の回数を規定する、染色体末端のテロメアという
部分が再生され、全身の細胞が若い頃と同じく、
正常に分裂を開始した。

3年後、篁の肉体は30才に戻っていた。
この時はすでに家を抜け出し、蘇民と行動をともにしている。
家人はとっくに、遺体のないまま、篁の葬儀を出したと聞く。
「こんなことが… こんな単純な方法で…」

今でも1日1時間は、鏡を見ながら例の呪文を唱える。
「誰だって、不死身になろうと思えば、なれるではないか!!」
篁も蘇民も知らないが、ベニクラゲという生物は、老化して
死期が迫ると、体が幼生期の状態に「若返る」… 
不死の生物は存在するのである。
生命にとって死は、必ずしも絶対必要条件ではない。

興奮する篁を、蘇民が皮肉な笑みを浮かべて見ている。
「篁卿… あなたは知らない。死は、人生の最後に
贈られる褒美なのだ… その贈り物を、むざむざ
捨て去るのは愚か者だけ… 永遠に生きるということは、
いわば休憩時間なしで、延々と畑仕事をするようなもの」

独自に死後の世界の研究を重ね、「昼は内裏に勤め、
夜は冥府でバイトする」とまで噂された奇人・篁も、
このシンプルな術には顔色なしである。
「この術を、武塔神(=スサノオ)が編み出したと…?」
「そうだ… 武塔神さまご自身も、この術によって、
久遠の時を生きておられる」


回想シーンは終わり、再び本陣の会議場。
「六白金星… 民が苦しむとかどうとか、人間のように
考えるのをやめなさい。私たちは、もう人間ではないのよ… 
妖怪、魔物の類なのだから」
槐(えんじゅ)のドライな忠告を、虎麻呂が引継ぎ、
「人間に戻るということは、死ぬってことだぞ。
今この席にいない、9番目のように」

9人目の「九紫火星(きゅうしかせい)」は今、
欠番となっている。
いくら鏡を使った自己暗示によって、脳内のOSを
書き換えようとも、ふと、「やはり自分は人間」と
思ってしまう瞬間は、イヤでも来る。
(実際には、人間なのだから)
そんな時、暗示が解けてしまう(自分が人間で
あるという現実を認識してしまう)と…

篁は、深く目を閉じた。
「俺は間違っていた… 俺は… 人間として死ぬ!!」
立ち上がると、天を仰いで
「俺は人間だ!!」

今まで黙っていた2人の女、すなわち
七赤金星(しちせききんせい)…
元利万呂をスパイに仕立て、獣心の右目を奪った謎の女と、
八白土星(はっぱくどせい)… 
死水尼と名乗った老婆は、
「篁さま!」「見るな! 見てはならぬ!」
目の前の惨劇に、凍りついた。

一瞬にして、篁の皮膚はミイラ状になり… 
ホロホロと崩れて、消しゴムのカスのような、
死んだ細胞の山となった。
「これで… 六と九が空いたわけだな。そろそろ補充するか…」
「八白土星よ、おぬしは都に知己が多い。
候補を探しておいてくれ」
死水尼は、深々と頭を下げる。

謎の女は、心中の狼狽を必死に抑える。
みんな、篁さまの死に、何も感じていない…
「人間ではない」のだから、当然か…
死水尼が、優しく女の肩を抱き寄せる。
「愚かなことじゃ… 不老不死を追い求めながら、
最後に人間を捨てきれぬとは…」

議長の蘇民は、早くも次の話題に移った。
「そういえば、七赤金星。おぬしを追って、
裏春日の神人どもが動いておるぞ。
自分の不始末は、自分でどうにかするように」

優しげな眼差しの玄ムが、それをさえぎり、
「まあ、そう冷たいことをおっしゃるな… 
大丈夫、おじさんたちが手助けしてしんぜる…
相手が、にっくき藤原の氏神・春日の
手の者とあれば、なおさら…」
今にも泣き出しそうな瞳が、クスリをきめた
ジャンキーのように、喜びに震える。

「よろしくお願いいたします」
女は素直に、玄ムの好意に甘えることにした。