小町草紙(三)





18、 呉葉(くれは)
 
    あるいは「紅葉狩り」プロローグ





延長(えんちょう)5年(西暦927年)。

信濃の国に、木那佐(きなさ)という山深い里があった。
現在では「鬼無里(きなさ)」と表記する。

今、1人の青年が枝から枝へと飛び渡り、
裂帛の気合とともに、地上の人影へ
向かって木剣を振り下ろす…
相手は、白髪の老婆であった。

手ごたえはあった…
確かに、老婆を真っ二つにしたはずだが、
老婆の体は、風に舞う枯葉の山と化していた。
「チッ…」

山育ちの、荒々しい青年であった。
木剣の先にからみついた、白髪の
二三本をつかみ取ると、
「お師匠… 13年修行して、あんたの
体に触れるのが精一杯ずら…」

青年は名を九頭龍天海(くずりゅう てんかい)と
いい、すぐ隣りの戸隠(とがくし)の里に住む。
ただ者でない立派な名だが、由緒ある
戸隠神社の跡取り息子である。

「いや… おぬしが本気を出せば、
わしの耳を削ぎ落としたはず…」
老婆は、20メートルほど後ろにいた。
額から、ひとすじの血が垂れる。
「もっとも、その間に… おぬしの
心臓を、5回は刺しているがな」


天海が戸隠山を探検していて、不思議な
老婆と出会ったのは、7才の時のこと。
その時は、彦丸という幼名の、
田舎臭いガキであったが…

老婆の使う不思議な術に魅せられ、
強引に頼みこんで、弟子となった。
「彦丸よ… おぬしに術を教えるのは、これを世の
ため人のため、役立ててもらいたいからじゃ。
悪い者を懲らしめ、かよわい女子供を守ってほしいからじゃ」

そして13年の月日が流れたこの日、
老婆は天海に、別れを告げた。
「ここから先は自分で修行せい… 
別れが近い気がするわ」
「冗談だろ、お師匠。くたばるのは、まだ早いぞ」
「これでも85の婆ぁよ、いつ迎え
が来てもおかしくないわい」


その夜、老婆は1人で月を見上げていた。
(わしは、この人生で悔いを残した… 何かをやり遂げた
わけでなく、女として幸せを掴んだわけでもなく… 
唯一、彦丸という弟子を育てただけ…
もう1度… もう1度、この世に舞い戻ってこなければ…)

その時、暗がりから囁く声があった。
「鉢かづき、ですね… 今日まで、よく逃げおおせ
たものです… 我ら根黒衆(ネグロス)から」
しまった! 囲まれている!!

美也の体は反射的に動いて、
襲いかかる敵を切り払う。
と、同時に… 脳裏を走馬灯のように、
これまでの人生がよぎっていく…


千登勢を殺害し、逃亡生活を続けながら、
美也の心はすさんでいた。
正気なのか、狂気なのか、自分でもわからない日々を
送っていたある夜、夢枕に千登勢が立った。
「母さん…」
泣きながら、その胸にすがりつく。

「ひとつだけ心残りがあって、出てきちゃいました… 
それは小町さまのことです。お1人で、寂しく暮らして
らっしゃると思うの… 美也さん、お願い」

こうして、山科の小町邸に転がりこむことになった美也。
根黒衆の目をくらますにも、格好の隠れ家だった。
まさか零落した女流歌人と、逃亡者が同居して
いるとは、さすがの死水尼も思いもよらず。

女2人の同居生活は、26年にも及んだ。
小町の最期を看取り、1人となった美也は東国へ
落ちのび、流浪を重ね、戸隠山へと流れ着く。

「これから何をしようか…」
自分にあるものは、根黒寺で仕込まれた忍びの術と、
小町から教わった和歌・漢詩文の教養のみ…

いつしか美也は、山を駆けめぐる修行者となっていた。
「自分の生きた証を、何か残したい…
身につけた術をさらに深め、世の役に立てたい…」

平安時代後期より、戸隠山は修験の道場として
知られるようになり、さらに後世、伊賀や甲賀と
並ぶ忍者の里となるわけですが。
まさか、その源流が「鉢かづき」美也であったとは…


だが、そんな美也の隠遁生活も、ついに
終止符を打たれる時が来た。
弾丸のように飛来する、1本の太い釘が… 
その首すじを貫く。

(現世よ、いったんさらばじゃ…)
木那佐の大地を抱くように、美也は倒れた。

「やれやれ… 手こずったな」
老婆の遺骸を見下ろす根黒衆たち。
釘の「吹き矢」を放った男は、最大の
功労者として讃えられる。
「よくぞ仕留めた、安珍」
「みごとな腕よ…」

まだ若い、美しい顔立ちの僧侶は、酷薄な
笑みを浮かべ、吹き矢の発射装置である
金剛杖に、口づけをした。




現世への執着がそうさせたのか、
そういう運命だったのか、
あるいは単なる偶然か… 
『月の都』にとどまっていたのは、
わずかな時間にすぎなかった。

今再び、この魂は地上へと旅立とうとしている。
「美也」以前からカウントすると、いったい
何度目の転生となるだろうか…

死と再生の、大いなるサイクル。
それがサンサーラ(Samsara)… 
輪廻(りんね)である。

「すべての生命は循環する」
人間はこの輪廻というイメージを、「農業」
から発想したのではないだろうか。
作物は秋に収穫されても、冬に枯れ
果てても、春になれば再生する。

春の女神ペルセポネは、春から秋にかけて
地上にとどまり、冬は地下の世界で待つ夫、
冥王ハーデスのもとで過ごさねばならない。
そして春には再び、地上に帰ってくる…
作物が育つ季節と、死に絶える季節、その永遠のサイクル。

そして、月は農業と密接な関係がある。

古代ローマで太陽暦が採用され、キリスト教とともに
それが世界に広まるまで、シュメールで最初の文明
が誕生して以来、人類は主に月の暦を使ってきた。
月が満ちていき、そして欠けていって
消滅するサイクルは、約29.5日。
これを「ひと月」とし、月のスタートである「月の見え
ない日」を、日本では「月立ち」=「ついたち」と呼ぶ。

当然、農業も月の暦に従い、種まきや
収穫のスケジュールを決められていた。
現在では、太陽暦の方が農業には向いているという
意見が主流だが、人類の歴史上かなり長い期間、
農業は月に支配されていたのである。
(イスラム圏は今でも月の暦=太陰暦)

「月=農業=生と死のサイクル=月」
月もまた、成長と消滅の輪廻を繰り返す。
地平線から昇って天空を過ぎ、地下へと帰り…
次の日没には、再び地平線から甦る。
いうなれば月は、天に輝く輪廻のシンボルなのだ。

そして月には、死と転生を司る『月の都』が存在する…




承平(じょうへい)5年(西暦935年)、
第61代・朱雀(すざく)天皇の御世。

陸奥の会津に、伴笹丸(とも の ささまる)
という男あり、職業は医者である。
どことなく気品が漂い、学問が深く博識で、
村人から信頼され、慕われている。
そんな名士である彼の胸には、
秘められた野望が燃えていた。

それは… 朝廷への復讐。

笹丸は、応天門炎上の罪を着せられ、伊豆へと流された
伴善男(とも の よしお)の子孫だった。
「あの事件は、伴氏を追い落とすための、
藤原摂関家によって仕組まれた陰謀…」
親から子へ、憎しみは途切れることなく伝えられる。

「俺のような優秀な人間が、こんな田舎で埋もれて
いなければならないのも、全ては摂関家のせい… 
朝廷を倒し、恨みを晴らしたいが、俺の力では… 
せめて俺の血を引く、優れた子がおれば、
この野望を託すのだが…」
いまだ妻の菊世との間に、子が
恵まれない笹丸であった。

博識で教養のある笹丸は、知る限りの
手段を試したが、まったく効かない。
子宝に恵まれる方法を大募集していた
笹丸は、ある日、旅の老僧から
「第六天の魔王に祈ってみなされ…」
頬に大きなコブのある、不気味な老僧だった。

「第六天の魔王」とは、仏教における
悪魔王サタンのような存在。
天魔・波旬(はじゅん)ともいう。
キリスト教の国にサタンを崇拝する教会が
あったら一大事だが、仏教国の日本には、
「第六天の魔王」を祀る神社がちゃんとある。

さすが日本… だが会津にはなかったので、
笹丸は山中に祠(ほこら)を建て、子宝を、
復讐を願い、必死の祈祷を捧げる。
そして年が明け、承平6年(西暦936年)。


笹丸が祠を作ってから、1年が過ぎた。
あれから1日もかかさず、山に
通っては祠の前で祈っている。
ある日、頬に大きなコブのある、猟師らしき男が
通りかかり、祈る笹丸の後姿をジッと見つめ…

「あの男、たしか… 子供が欲しいとか言ってた
御仁じゃな… なんとまあ、クソ真面目に
第六天に祈願しておるのか…」
皮肉な笑みを浮かべ、
「魔王本人は、すっかり忘れておるというのに…」

笹丸の自宅では、妻の菊世が夕餉の仕度をしていた。
「ごめんくだされ」
「はい? どちらさまでしょう…」
突如上がりこんできた猟師風の男を、
菊世は恐怖の目で見つめる。
使用人たちは一体、どこへ行ってしまったのだろう…

「こちらのご主人が、毎日熱心に
魔王に祈っておられるようでな…
気の毒で無視できなくなった。
とりあえず、てっとり早い方法で」
男は、菊世を押し倒すと、
「願いをかなえてしんぜる」

声が出ない、手足の自由がきかない、体が熱い…
なんて大きなコブ…
そのコブが、不気味にドクドク脈打ってる
のを見ながら、菊世は失神した。


妻の懐妊を知って、笹丸は狂気乱舞した。
これで後は、男の子だったら言うことなし…

だが希望に反して、生まれたのは愛らしい女の子だった。
時に承平7年(西暦937年)の秋。
「呉葉(くれは)」と名づける。


成長するにつれ、その美しさと頭の良さは、
誰の目にも際立ってきた。
父の笹丸は、もはや男の子を望まない。
呉葉にあらゆる学問を教えこみ、さらに男の子と
いっしょに馬や弓、剣術まで習わせる。
知能だけでなく身体能力まで優れた呉葉は、
どんな武術でも男子を圧倒した。

さらに魔王から授かったのか、不思議な
妖術の片鱗さえ見せることもあった。
「いける… 呉葉ならやれる… 
男以上だ… 呉葉なら、必ずや…」
娘を見つめる笹丸の目には、狂気が宿っていた。

そして呉葉が17才になった年…
笹丸は「応天門」から始まる悲劇の歴史を、朝廷を
倒すという悲願を、娘に語って聞かせた。
「お前の美貌と能力は、そのために
魔王から授かったものなのだ!」

おのれの運命を知り、とまどう呉葉…
そんな娘を、母は優しく抱きしめ、
「いいんですよ、お前は自分の幸せだけを考えていれば…
お前が幸せになること、それが母の願いです」

母の願いと父の悲願、その間に立って
揺れる少女呉葉、17の春…




小町草紙(三) 完