小町草紙(三)





15、 大原野(おおはらの)




貞観17年(西暦875年)となった。

「恋夜」は、「曠野(あらの)」より蛞蝓(なめくじ)を
秘部に授けられ、「おしら」と契って、子種を与える。
(将門記(一)「神在月の巫女」「意宇魔(おうま)」参照)
その後、恋夜は死亡… 
したはずだが、後に「久遠の民」となって復活。


1月28日、大内裏の東隣り、天皇の後院
(ごいん=譲位後の御所)である「冷然院
(れいぜいいん)」で、火災が発生。
広い敷地に多くの御殿が立ち並ぶ壮麗な
御所であったが、今や無残な焼け跡と化し、
貴重な書籍の多くが灰となった。

「冷然院」の「然」の字が、「燃」を連想させる
として、これ以後「冷泉院」と改名。
現在も京都に残る最古の公家屋敷、
重要文化財「冷泉家住宅」が後に
建てられる場所である。


5月10日、下総国で俘囚の叛乱。
裏で糸を引くのは、秘密結社「久遠の民」。


夏も終わり頃… 死水尼は太岐口の父子と戦う。
「鉢かづきの計略も失敗に終わったし、裏神人の頭領と
そのせがれ、せめておぬしらの命をいただくとしようか…」
戦いの場所は、曠野が生まれ育ち、夫との
愛を育んだ、今は荒れ放題の古屋敷。

獣心の父・田島は、「浮舟(うきふね)」の奥義を息子に
伝え、「久遠の民」メンバーの怪老婆と相討つ。
(将門記(一)「神在月の巫女」「意宇魔(おうま)」参照)
「獣心よ… 今よりお前が、裏神人の頭… 後は頼むぞ…」


この年、藤原基経の三男・仲平(なかひら)が誕生。
後に、女流歌人・伊勢の初恋の相手となる。

近衛府に属する若い武士・源道範(みなもと の
みちのり)は、御所警護の任につく。
後に女に変身、オッタッタ・チンコミーレ。

菅原道真、31才で結婚。



岡崎の別荘で、藤原高子は退屈な時間を過ごしていた。
今年で34才だが、今でも業平の
面影が、脳裏から離れない。

(忘れなきゃ… 自分の手で運命を変える
ことなど、もうできないのだから…)
と… 庭の方から、侍女たちの騒ぐ声が。

「何でしょう?」
源道範という新人の護衛係が、庭に
入りこんだ野兎を捕らえたらしい。
それを見て高子は、ひらめいた。
「そうだ、退屈しのぎに…」

手先の器用な高子は、絹の余り
布を使い、針仕事を始める。
ほどなくして、真っ白な兎のぬいぐるみが完成した。
「我ながら、かわゆくできたこと… 
飽きたら姪っ子にあげましょう」
後の「藤原うさ子」である。


この年、神護寺が新しい鐘を鋳造した。
鐘に刻む銘を選んだのは菅原道真の父・是善、
序文を橘広相(たちばな の ひろみ)が執筆、
能書家として知られる歌人・藤原敏行が清書。
当代の3才人が関わったので、「三絶の鐘」と
讃えられる名鐘だ。(現在国宝)

菅原是善は、自慢の息子がやがて非業の
死を遂げ、怨霊となるとは露とも知らず…
橘広相は、「阿衡(あこう)」の非を問われ失脚、
道真の操る死霊となるなど夢にも思わず…
藤原敏行は、地獄に連行されバラバラにされる
未来が来ようなど、想像すらできない。


10月、出雲では意宇魔(おうま)が誕生。
産み落としたばかりの赤子を、むごたらしい
姿に変えたあげく、鍛冶師の門前に捨てた
狂女おしらは、まもなく死亡。



そして、貞観18年(西暦876年)。

2月25日、淳和天皇の后・正子内親王は、
かねてより改築を進めていた父帝の離宮を、
「大覚寺」として創建した。

皇位につけなかった息子の恒貞親王を、恒寂(こうじゃく)
法親王として、初代住職に就任させる。
公式サイト http://www.daikakuji.or.jp/

例の、時代劇ロケによく使われるお寺です。
「必殺仕事人」中村主水が出勤する奉行所の
門は、ここの「明智門」なんだって。
実際に訪ねると、時代劇のイメージとはちがう、
平安朝の雰囲気を残す素敵なお寺ですね。
「羊水が腐ってる」発言で騒がれたあの歌手も、
ここで着物コンサートをしたそうだよ。



都の西方、小塩山の麓に、「大原野
(おおはらの)」という土地がある。
「三千院」で有名な「大原」と間違えやすいが、
あちらは都の北東で、まったく関係がない。

ここに「大原野社(現在の大原野神社)」という、
奈良の春日から勧請した社があった。
吉田神社ができるまで、春日から派遣された
裏神人たちは、ここに駐在していたのだろう。
大原野神社 公式サイト 
http://www.kyoto-web.com/oharano/

藤原氏の氏神で権威もあり、毎年2回ある
「大原野祭」には、勅使も派遣される。
この年の2回目、11月中旬の子(ね)の日の祭り
では、清和帝の女御である藤原高子も参拝。

今年35才の高子だが、白い肌にはシワひとつなく、
人形のような美しさは相変わらず。
参拝を終え帰路につく前に、鈴を鳴らすような声で、
「皆さま方、今日はお疲れさまでした。
私からのお礼の品がありますので、どうぞ」

警護につき従った近衛府の役人たちに
直々に声をかけ、引き出物を与える。
安月給の役人らは、思わず顔がほころぶ。
責任者である右近衛権中将が進み出て、
「お礼に歌を一首、奉りとう存じます」

大原や 小塩(おしお)の山も 今日こそは 
神代(かみよ)のことも 思い出(い)づらめ


「小塩の山も今日こそは… 神代のことも思い出づらめ…」
つぶやいて高子は、初老の権中将を見つめる。

白髪混じりになってもなお、端正な
顔立ちとダンディーな物腰…
この年52才の、在原業平であった。
彼の背に負われ、小塩山を越えたのは、11年前のこと…

長らく昇進がストップしていた業平は、862年に
13年ぶりに位が上がって、従五位上になる。
(その結果、「狩りの使」となって伊勢などに派遣される)
が、高子との駆け落ちスキャンダル後は、再び昇進ストップ。

それでも高子が帝や兄の基経に必死に働きかけ、
869年に正五位下に昇叙。
以後、少しずつ出世して現在、ようやく
従四位下で右近衛権中将となったのだ。

もちろん、この日の随行も高子の手回しによるもの。
「あの日のことを思い出しますね…」
そんな意味をこめた業平の歌に、高子の胸には、
言い尽くせない思いが去来する。
「すべてはもう、神代のこと… 遠い昔のこと…」

この日をもって業平も高子も、お互いの
胸に秘めた想いと決別した。
これ以後、2人が関わりをもったという記録は残っていない。



この年、恬子内親王が17年に及ぶ斎宮
としての務めを終え、都へと帰還。
業平との一夜の思い出だけを胸に、これまでの
年月を生きてきた恬子だが、「俗界」へと戻った
後も、業平と再会した様子はない。
役目を終えた斎宮は、一部を除いて結婚した例も少なく、
身を謹んでひっそり暮らすことが多かったようだ。

11月29日、清和帝が譲位。



元慶(がんぎょう)元年(西暦877年)、
第57代・陽成天皇の御世。

1月3日、貞明(さだあきら)親王が陽成帝として即位。
生母の藤原高子は、皇太夫人となる。
「雲の絶間」妙子が女房となるのも、この年。

遍昭法師は、花山に元慶寺(がんけいじ)を建立。
後に花山天皇の出家の舞台となる寺で、
西国三十三ヶ所番外札所。



元慶2年(西暦878年)。

この年、「元慶の乱」が起こり、小野春風は出羽へと出陣。
同じころ、藤原睦月(伊勢)、小町仮名の練習を始める。
後に春風から、「小町の短冊」を偽造してくれ
と頼まれることになるが…
(将門記(二)「久米寺弾正」参照)



元慶3年(西暦879年)。

3月23日、太皇太后・正子内親王が71才で没。
最後まで母の嘉智子を恨んでいたかどうか… 
それはわからない。

5月8日、清和上皇、出家。



元慶4年(西暦880年)。

5月28日、業平最期の時は来た。
56才である。

つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど 
昨日今日とは 思はざりしを

「いつかは最後に行く道と聞いていたが、
昨日今日とは思わなかったなあ」

死の直前に詠んだ歌。
「辞世の句」の、最も古い例の1つであろう。
業平の訃報は、高子にも、恬子にも、
そして小町にも届いていた。

「早すぎる…」
「青春の終わり…」
「あの時はごめん…」
女たちの胸に、それぞれの思いがよぎる。


この年、清和上皇は無理な断食修行の末、崩御。