小町草紙(三)





9、 小町、消えゆく




「やった…」
粘っこい血が糸を引く、桜の枝の先端を見つめ… 
小町は呆然としていた。

足元には、グッタリした関守が転がっている。
桜の精に言われたとおりやってみたけど、
こんなにうまくいくなんて…

だが、黒主はムックリと起き上がった… 
首のまわりを、真っ赤な血に染めて。
「お、お前… 何者だ…」
傷は、死に至らしめるほど深くはなかったようだ。
立てかけてあった大斧をつかむ。

「う…」
小町は思わず、後ずさる。
その姿を、黒主の凶悪な眼光が追う。
「桜の枝… もしや、お前… 山桜の精か何かか? 
俺が切り倒そうとしてることに、気づきやがったか…」

狂気の笑みが、その口元に浮かぶ。
「だがな… お前のような妖怪変化に、
我が野望を邪魔させるものかッ」
竜巻のような勢いで、斧を振り下ろす…
が、小町はそこにいなかった。

「桜の精」の血液は、小町を若返らせただけでなく、
身体能力をも飛躍的にアップさせていたのだ。
ヒラリと斧をかわすと、枝を鞭のように
ふるって、黒主の目に叩きつける。
「ッグ!!」

天女のように、若き小町の体は舞った。
生まれてこの方、運動なんてしたこともないし、
体を使うような仕事とも無縁。
そんな小町が、生まれて初めて肉体を
躍動させる快感に浸っていた。
「邪悪なる関守よ… 桜に代わってお仕置よ!!」

狭い小屋の中で、斧を投げつける
という暴挙に、黒主は出た。
回転しながら飛んでくる大斧を、小町は
ダブルハンドで枝を振るい、打ち返す。

「グワァッ!!」
黒主の脳天に深々と、斧の刃が食いこんでいた。

「お、おお… 大伴… く、黒主… 辞世の歌…
積もる恋… 雪の関扉(せきのと)… 桜散り… 
じ… じゅうにひとえの… 小町桜に…

白目をむいて、崩れ折れる。

「黒主…?」
関守の死に顔を見て、ようやく
思い出した小町であった。
足元に広がる血溜まりに、今さら
ながらパニックを起こす。
と、同時に… 「血液」の効力が消えたか、
容姿も年齢も体力も… 全てが元に戻った。

薄れいく意識の中で、小町は遍昭の弟、
良岑安貞を思い出していた。
黒主の行方を追っていた安貞は、捜査から外されてしまい、
そのためにヤサぐれ、小町に求婚したあげく
「百夜通い」に挑んで、命を縮めてしまった。
つまり黒主は、「深草少将」こと安貞の、死の遠因といえる。
(少将さま… 仇は取りましたよ…)


小町の姿が見えなくなり、心配した
遍昭は、小屋まで下りてきた。
「うっ!?」
戸を開けていきなり、予期せぬ惨状を目の当たりに。
2人の人間が、激しく争った後のようだが…

その片方は、たおやかな女流歌人…
「小町!?」
まず愛しい女の生死を確認… 息はあるようだ。

もう片方は関守… なんという、むごたらしい
死に様… 吐き気を抑え、のぞきこむ。
「いや、これは… どこか、見覚えがあるような…」
今度は遍昭が、夢と現実の境をさまよう番だった。
「まさか… 黒主か…?」

なじみの関守の爺さんが、数日前から姿を見せなくなり、
新顔の関守は、どうも胡散臭い気がしていたが…
今、改めて見ると、変わり果てた姿ではあるが、
まちがいなく六歌仙の黒主だ。
なぜ、こんなところで関守を?

とりあえず、湧き上がる疑問は置いておくとして…
状況から見て、小町が殺したのは間違いない。
あの細い腕で、あんな大きな斧を
ふるえたとは、驚きだが…
小町と黒主の間には、ただならぬ因縁があった。
この関で思わず再会し、恨みを晴らしたい
衝動に駆られたのだろうか?

(悪夢だ… これが現実のはずがない…)
考えながらも、遍昭の体は勝手に動いていた。
雪の降る中、小屋の裏手に大きな穴を
掘り、黒主の遺体と斧を埋める。

土間の血溜まりを掘り返し、黒い土をかぶせる。
最後に雪で手を洗ったが、血の匂いが
なかなか消えない。
(私はいったい、何をしているのだ…)

そうしているうちに、小町が気だるそうに起き上がる。
「私… 何か、悪い夢を見ていたような…」
朦朧とした中にも笑みを浮かべ、
「あら、遍昭さま… お仕度はできましたか?」

「会わなかったことにしましょう。あなたはここで
夜を明かし、明日は山科に戻りなさい」
「え…?」
何がなんだか、わからない。
桜の精と出会ってからの記憶が、
煙のように消えていた。

小町を残し、遍昭は小屋を後にする。
愛する小町のため、殺人の証拠は全て始末した。
だが人を殺した女と、生涯をともにすることはできない…
還俗など、許されぬ運命だったのだろう。

こうして小町は再び、1人となった。
1人になってみると、遍昭との再会すら
現実だったかどうか…
「帰ろう、山科に…」
すべては夢だったにちがいない。


「桜の精」こと八重は、事の成り行きを見届けた後、
逢坂山を大津へと下っていく。
「やれやれ、余計なおせっかいをしてしまった… 
都がどうなろうと、私には関係ないはずだったのに…」

ただ都を救うにしても、自分の手で人を殺すなど、
めんどくさいことはしたくない。
都を救うのは、都の人間の手でやるべき。

「あの女が小町か… きれいな人だったな」
後に、小町の大ファンである伊勢に仕えることになっても、
今夜の話は決して口にすることのない八重であった。
「関扉事件」の真相は、闇へと消えることになる。



同じ頃、日本のどこかで。
「我が師よ、疑うわけではないのですが… 
あの亡国大殺業という術は… そんな簡単に、
国ひとつ滅ぼすことができるのでしょうか?」

一番弟子からの問いかけに、爬虫類の
ような道士は、皮肉な笑みを浮かべ、
「無理、無理。できるわけない」
「それでは、老師… あの黒主という男…」

「ま、都の滅ぶさまを夢見て、満足して死んでいくだろうな」
「哀れな…」
こうして2人の道士は、「コブのある神」を求め、
今日もこの国をさすらう。



2月13日から、応天門の再建が始まった。

伊豆では伴善男が、都の知人から
届いた手紙をむさぼるように読んで、
「まだ何も起きない… 都が滅びる
予兆はない… 黒主は何を…」
はらわたのよじれるような思いで、じれていたが。

「伴善男が謀反を企てている」という噂が良房の
耳に入ると、「外道人」が送りこまれ… 
闇から闇へ、葬り去られてしまう。
(天神記(一)「外道人」参照)


4月、おにぎり頭の円珍が、天台座主に就任。

那智の補陀洛山寺で、僧侶を生きたまま船に幽閉、
海に流す「補陀洛渡海(ふだらくとかい)」が始まる。
その様子を見ていた八重は、道士・李終南と邂逅。
「亡国大殺業」を阻んだ者と、授けた者、運命の出会い。
(天神記(一)「補陀洛渡海」参照)

この年、命蓮(みょうれん)が生まれる?

12月16日、高子が貞明(さだあきら)親王を出産。
(西暦だと869年になる。)
後の陽成天皇。
「父親は業平では?」という噂が流れて
しまうのも、仕方のないこと。

閏(うるう)12月28日、かつての左大臣
源信はこの日、狩に出かけ…
落馬して泥沼にはまりこむ。
数日後に死亡。



年が明け、貞観11年(西暦869年)。

2月1日、高子の産んだ貞明親王が立太子。
清和天皇に続いて、次期天皇も
藤原摂関家を外戚にもつことに。

4月13日、「三代格式(さんだいきゃくしき)」の1つ、
「貞観格(じょうがんきゃく)」が藤原氏宗
(うじむね)らによって撰上される。
「格式」とは、補助的な法令のこと。
「撰上」とは、歴史書や歌集や法令などを
編纂し、天皇に提出すること。



文屋康秀(ふんや の やすひで)という歌人がいる。
六歌仙の中で、もっとも出番が少なかったが、
ようやく見せ場が回ってきたようだ。
この年、三河国の掾(じょう=三等官)に
任命されたのである。

遍昭に捨てられ、以前にも増してボーッと過ごし
ている小町のもとに、康秀から手紙が来た。

「(^o^)ノ 三河の国に赴任するんだけど、
いっしょに来ませんか?」
みたいな内容。

今まで何度も恋文を送っては無視されてきた康秀、
自分の栄進と小町の凋落の重なったこの時期、
「今なら落とせる!」
とばかり、アタックをかけてきたのである。

「ふーん、康秀か… 頭に乗りおってー」
でも… このまま人々から忘れ去られ、
1人寂しく消えていくのはイヤ…
本当に、1人はもうイヤだ…
小町の返信は、

わびぬれば 身を浮き草の 根をたえて 
さそふ水あらば いなむとぞ思ふ


侘しい暮らしに明け暮れ、この身を憂いていたところ…
浮き草の根が絶えてしまったように、誘う水があるなら、
流れのままに行ってみようと思います…

この歌は、康秀の誘いに「同意した」という説と、
「拒絶した」という説があり、作者もどうしたものか
困ってしまうが、素直に読めば「同意」だよねえ。

果たして、真相はどうなのか。
実は小町、この返歌を最後に、歴史から姿を消すのである。
あとはただ、伝説が残るのみ…