小町草紙(三)





8、 薄墨(うすずみ)




年が明け、貞観10年(西暦868年)。

雪の降りしきる逢坂関に、小町は1人やって来た。
業平のように坂東や陸奥を目指す旅などとても無理だが、
近場の近江(おうみ)、三井寺(みいでら)へ参詣しようと、
旅支度をして出てきたのだが…

「あーあ、ついてないなあ… 朝はいい天気だったのに…」
ふと、見上げると… 
山肌に桜が、満開に咲いているではないか。
「ええっ? こんな真冬に桜が?」

「ああ、あれですかい… 不思議なこともあるものじゃ」
小屋から、関守の男が出てきた。
「ここしばらく、やけに暖かい日が続いたもので、
桜も春が来たと勘違いしたようで」

小町は、そのミスマッチな光景をうっとりと見上げ、
「雪に桜… なんて幻想的な… こんな景色、
もう2度と見られないでしょうね」
雪が降ってラッキー、雪グッジョブ!

その時、強い風が粉雪を巻き上げ、小町の顔を
隠していた市女笠を飛ばしてしまう。
「わっ」

関守は、小町の顔を見て凍りついた。
「…!!」

「おじさん、すみませんが笠を拾って下さらない?」
小町は、髪を押さえるのに必死だ。
「あんたは… 小野小町ッ 小町じゃないか!?」
身分の卑しい関守から呼び捨てにされ、ムッとする小町。

そもそも、なぜ私の顔を知っている?
改めて関守の顔をじっと見ると、なんとなく
以前会ったことがあるような…
男は顔を伏せ、モゴモゴと

「あ、これは失礼いたしました… 
私、関守の関兵衛(せきべえ)と申します… 
これでもかつては、宮中の警護を
務めていた武者でして…」

ちなみに、平安時代に「XX兵衛」
という名前はおかしいと思う。
「そんなことより小町さま! 
私といっしょに来てください!」

「え? どこへ?」
「あの桜の下に… 遍昭さまが庵を
編んで、隠棲しておられます…
ぜひ会ってさしあげてください!」
小町にとって歌の師匠、そして初恋の
相手といえるかもしれない男…

「遍昭さまが…」
それにしても、この男… 
なぜ私を遍昭さまに会わせたがる?
そんな疑問がチラとかすめたが、とりあえず男の
案内に従い、桜をめざして山道を登る。


「遍昭さま! 関守でございますが、こちらの女性を雪が
止むまで、休ませてあげちゃあいただけませんか?」
「おいおい、私は修行中の身だぞ? 
番小屋で休ませれば…」
戸口を開け、小町の顔を見ると、遍昭はうろたえた。

「小町どの… ま、お入んなさい…」
「お久しぶりです…」
「火に当たるといい」
「あの、私… お邪魔をする気はなかったんですけど… 
たまたま、近くを通りかかって…」

「正直、あなたに来てほしくはなかった」
言ってから、苦み走った笑みを浮かべ、
「会えば… 心がぐらつくから」
「遍昭さま…」
小町は、胸がドギマギするのを押さえられない。

「相変わらず、美しい…」
小町はいたたまれなくなって、話題を変える。
「あの桜… 不思議ですよね… 雪の中で咲くなんて」
「あれは、仁明帝が愛された桜でしてね…」

仁明帝の即位前、まだ正良親王と呼ばれていた頃…
若き日の遍昭とは悪友同士で、連れ立って
よく遊び歩いたものだった。
ある時、2人で逢坂関まで足を伸ばし、
山の斜面に1本だけ根を張る孤高の
桜を見て、いたく心を奪われたという。

「帝が崩御された後… この桜は、薄い色の花しか
つけなくなった… まるで帝の死を悲しむかのように… 
ゆえに、薄墨桜と呼ばれているのです」
「それで… この地に隠棲されたのね。
帝の菩提を弔うために…」

やはり私は、ここにいるべきじゃない… 
この人の心を、かき乱すべきじゃない…
だが、続く遍昭の言葉に、小町の
心はかき乱されることになった。

「薄い色しかつけなかったのに… 私が毎日、木の下で
小町どのの歌を詠んでいたら… なんとまあ、だんだん
色が濃くなってきたのですよ。ですから、私は小町桜と」

小町は顔を赤らめ、
「なぜ私の歌なんか… なぜ仏道に
集中してくださらないのです…」
「まったく… あきれた色欲坊主です」

その時、庵の外から
「1人の女人を救うのも、仏の道なのではありませんか?」

「ん?」
「な…」
「小町さまは、仁明帝からご寵愛を受けた麗しき歌人… 
その行く末を、帝もご心配されているはず!」

「さっきの関守か… まだいたのか」
「なんておせっかいな… さっさとお帰りなさい!」
顔を真っ赤にして怒る小町を無視して、
庵の外から声が響く。

「いいえ、言わせていただきます! 今の小町さまは、
世間から忘れられ、お1人で寂しく生きていらっしゃる… 
この方を幸せにできるのは、この世でただ1人、
遍昭さましかおりません!!」
「いいかげんにしなさい! あなたに関係ないでしょう!!」

「私は宮中に務めていた頃より、美しく才能
豊かな小町さまに憧れていたのです… 
このまま小町さまが不遇の人生を送る
のを、見過ごしにはできませぬ!
遍昭さま、お願いです… どうか、小町さまを…」
「その口を閉じなさい!!」

庵の外へ飛び出そうとする小町の腕を、遍昭が捕える。
「え…」
そして力強く引き寄せ… 抱きしめた。
「決心がついた… あの男の言うとおりだ」
「え?」

「あなたを、このまま孤独にしておくわけにはいかない… 
帝にしかられてしまう」
「あの…」
「あなたを妻にする。いっしょに暮らそう、小町」

これは夢だ、こんなことあるわけない…
「いけません! ダメですよ、そんなこと…」
だが小町の目には涙があふれ、
視界がグチャグチャになっている。

「そうだ! それでいい! お幸せにね、お2人さん!!」
恋のキューピッドのような関守は、
番小屋へと戻っていった。

「だがもちろん、今この場で、あなたを抱くわけには
いかない… この姿のままでは… 
今から都に戻って、正式に還俗(げんぞく)しようと思う」
還俗とは出家の反対、僧侶が一般人に戻ること。

「私のために… これまでの修行が、無駄に
なってしまうではないですか」
「もとより、坊主には向いてなかったんですよ。
血の気と色気が多すぎるものでね」

遍昭は、庵の中を見回し、
「さてと… こことも、おさらばか… さしたる荷物も
ないが、仕度をしますので、少々待っていてください」
「あの… 私… 外で桜を見ていますから…」


山桜に寄りかかって、小町は頭を冷やす。
風が、火照った頬に心地いい。
とんでもないことになってしまった… 
私はあの方の人生を、台無しに
しようとしているのではないか?

でも… もう、1人はイヤ… 寄り添う人が欲しい… 
遍昭さまなら…

だけど、私ももう若くない。
せめて30代の頃だったら… 
あの方のため、良い妻にもなったろう。
だが今… アラフォーの小町は、
自分に自信がもてない。
あの方の愛情が、すぐに醒めて
しまうのではないだろうか…

「若くなりたい?」
「え?」
「若くなりたいのでしょう?」
いつからそこにいたのか、山桜の幹の陰… 
小町の目の前に、不思議な女が立っていた。

どことなくアンニュイな、年齢不詳の美女。
「私は薄墨(うすずみ)、この桜の精です」
小刀を取り出し、己の手首にスーッと走らせる。
「ひっ 何を!?」
女の手から血が滴るのを見て、小町は青ざめた。

「この血をすすれば、20才くらい
若返りますよ。欲しいですか?」
「欲しい!」
思わず本音の出てしまった小町、しかし女は身を引いて、
「私のお願いを聞いてくれるなら」

「お願い… どんな?」
「関守の男を… 殺してほしいのです」
「な… なんてことを!! なぜ? どうして?」
「あの男は私を… つまり、この桜を… 
切り倒そうとしている」

「切り倒してどうするの?」
「都に災いをもたらす祈祷のため… 
焚き木にして、護摩壇に投じるためです」
「まさか、そんな… ウソでしょ? 
ただの関守じゃないの…」
「ただの関守なんかじゃない! 恐るべき
秘術を身につけた、邪悪な男です」

まったく、今日はなんて日だろう…
雪の中に咲く桜を見た時から、まるで
長い夢を見ているような…
果たして良い夢なのか、悪夢なのか…

「どうします? やってくれますか?」
まるで餌を見せつけるように、女は手首をかかげる。
赤い糸となって流れる血に、小町は魅せられた。
どうせ夢なら… 悪魔に魂を売ってやる!

「やる… 殺してやる!!」


関守の小屋で、黒主はほくそ笑んでいた。
俺はついてるぜ… まさか、小町が現れるとは…
これで遍昭も、まもなく立ち去るだろう…
計画通り、亡国大殺業を実行だ!!

「むッ 誰だ!?」
戸口に、匂うような若い女が立っていた… 
うねる茶色の髪、傲慢なほど強気な瞳、紅く濡れた唇、
異国の女王のような現実離れした美しさ…
まさに、世界一ともいえる美女だった。

「お前… 小町!? いや、そんなはずは… 
小町の娘か何かか?」
黒主がうろたえるほど、若き日の小町に瓜二つ…
だが遥かに妖艶で、女豹のように
しなやかで、生気に満ちている。
言うなれば、別世界から飛来した、
小町そっくりの女悪魔…

「どうでもいいじゃない… 
あなたに会うために、撞木町(しゅもくちょう)
から飛んできたのですよ… おお寒い」
「撞木町」とは、遊郭として有名なところらしい。
「何、すると遊女か? 俺に会いに来たと?」

「そんなことより… 暖めてほしいな… おじさん?」
黒主の頭を、その胸にフンワリと包みこむ。
甘い香りが、黒主の鼻腔いっぱいに広がった。
(ちがう、これは小町じゃない… 
姿形は似ているが、まったくの別人…)

今度は黒主が、夢か現実か悩む番だった。
若くピチピチした体が押しつけられ、陶然とした
夢幻境へと連れ去られていく。
(ああ、小町… こんなふうに抱いてみたかった…)

女の右手には、桜の一枝が握られていた。
切り口の先端を鋭く削って、錐のように尖らせてある。
それを高々と振り上げ…

ズブリ!
と、黒主の首の後ろ、延髄の部分に突き刺す。
「ゥゲッ…」
のけぞる黒主。
花びらが、はらはらと散っていった。