小町草紙(三)





5、 東下り(あずまくだり)




雷鳴と豪雨は、小半時で通り過ぎていった。
「高子さま、やけに静かだが… 
お休みになったかな?」
小屋に入ってみると、人の気配がない。
暗闇の中を、手探りで這い回る業平。

誰もいない…
そんなバカな!! 
戸口は1つしかなく、自分が見張りをしていたのだ!!
「高子さま!!」

理解できない事態に陥った時、平安時代の
人間であるゆえ、超自然的解釈に行き
ついてしまうのは、やむを得ないこと。

きっと、この小屋には鬼が潜んでいたのだ…
そして、高子さまを一口で食ってしまったにちがいない!
雷鳴で、彼女の悲鳴が聞こえなかったのだろう…
「な… なんということを…」

業平は腐った床に転がり、子供のように
足をバタバタさせ、号泣した。
「あの人を1人にすべきではなかった… 俺のせいだ…」
疲れていたなんて、理由にならない。

こんなことになるなら、あの時… 
草の露をさして「あれは何?」と聞かれた時…
ちゃんと答えてあげればよかった… 
なんで無視なんかしたんだろう…

白玉(しらたま)か なにぞと人の 問ひし時 
露(つゆ)と答へて 消(け)なましものを

(「あれは真珠か何かですか?」と聞かれた時、
「あれは夜露です」と答えて、私も露のように
消えてしまえばよかったのだ…)

このような歌を詠んで嘆き悲しんでも、
今さらどうしようもない。



だがもちろん、鬼に食われたわけではなかった。
翌日早朝には、高子は深草の、
とある邸に連れこまれている。
ここは基経とごく親しい歌人・上野岑雄(かんつけ の
みねお)の自宅で、世間に知られないよう極秘裏に
設置された、「高子捜索本部」であった。

大男は、ずぶ濡れになって気絶している高子を
門の前に下ろすと、あとは基経の従者や侍女
たちが体をふいて、着替えさせ、寝かしつけた。

今、基経の前にひれ伏している大男は、名を「霞法師
(かすみほうし)」といい、絵の具を体にペイントして、
カメレオンのように背景に溶け込む技をもつ。
「安珍と清姫」に登場する霞法師の、祖父にあたる。

「参議どの、約束どおり高子さまを、
お連れ申し上げてござりまする」
「根黒寺の者よ… お前はどうやって、
あの娘を運んできたのだ?」
「当身にて失神させ、肩にかついで、
お運び申し上げました」

「俺の妹だぞ… まもなく帝に入内する女だぞ… 
この汚らわしい不浄の者がッ!!」
剣を抜くと、大男の脳天から一気に切り下げた。
床を血の池にして、基経の目は血走っている。

「高子!!」
狂気に目をギラつかせ、妹の休む離れへと上がりこむ。
これまでの疲れが一気に出たのか、
死んだように眠りこむ高子を見下ろし、

「かわいそうに、高子… つらかったろう… 
だがな、もう2度と… 2度とこんな真似は許さん…
許さんぞ… 2度も業平に抱かれおって… 
ちくしょう!! 俺の妹を…」

熱い息が顔にかかって、高子は目を開けた… 
目の前に、兄の顔が。
「や… 兄さま、何を…」
「どうせ、業平にキズモノにされたんだ!!
かまうものかッ」
「やめっ…」

基経は、高子を犯した。
赤ん坊の頃から大切に守ってきた、宝石のような妹を…

欲望を吐きつくした後、基経は冷静に、
「入内の日は近い… 明日からは、
さっそく準備にかかるぞ」

装束を直しながら出ていく兄に、雪のような白い肌を
むき出しに、うつ伏せに横たわる妹が、声をかける。
「兄さま…」

顔を上げる高子… 涙は流れていなかった。
ただ、顔にふりかかる乱れ髪の下から、
氷のような冷たい目が兄を刺す。

「私は確かに、どのような折檻を受けても仕方のない、
愚かな振る舞いをしました。それは否定しません。
ですが… 私はあなたを、一生軽蔑します。
これからの人生で、あなたを兄と
見ることは2度とないでしょう… 
あさましいケダモノとして、あなたを見ます」

「そうか…」
それだけ言うと、基経は出ていった。



数日後には、業平の所在もわかった。
「大原野か…」
「いかがされますかな? 人知れず
消すこともできますが」

基経の前に坐しているのは、
生きた骸骨のような男…
骨阿闍梨(ほねあじゃり)である。

「いや、それは… それはまずい… 業平を
殺したら、高子が何をしでかすか… 
下手をすると、自害に及ぶやもしれぬ… 
殺してやりたいのは、やまやまだが…」

それに骨阿闍梨の報告では、すでに業平は生きた屍
のようになって、飯も喉を通らず、大原野の別荘で、
ただ座って1日を過ごしているというではないか… 
今さら、殺す必要もない。

「骨よ、使いを頼まれてくれ。業平に金を届けるのだ」
「金? 手切れ金ですかな?」
「その金で旅の仕度をして、春まで
には都を離れるよう、伝えろ。
少なくとも数年は… 都に戻ることは許さん」



年が明け、貞観8年(西暦866年)となった。

2月、小野姉妹が「親分」と慕った紀静子が、
42才という若さで没した。
下腹部に腫れ物… 今でいう子宮ガンだった。

父の名虎は不慮の死を遂げ、夫である文徳帝も
不審な死に見舞われ、息子である惟喬親王は
皇太子になれず、娘の恬子は斎王となって遠い
伊勢で、青春とはほど遠い暮らしを強いられ…

「まだ死にたくない… せめて、
恬子が帰ってくるまでは…」
運命に翻弄された、無念の最期であった。


春が近づいた頃、業平は数人の
従者を連れて、東国へと向かう。
引き裂かれ、2度と会うことのかなわぬ
恋人の、思い出があまりに多い京の都、
そんな都から、できるだけ遠いところへ… 
傷心を癒す旅への出発。


それからしばらくして、閏(うるう)3月10日、
都で、応天門が炎上。
源信(みなもと の まこと)や伴善男(とも の よしお)を
追い落とすため、摂政・藤原良房が仕組んだ陰謀… 
という説がある。
(天神記(一)「応天門炎上」「伴大納言」参照)


4月、業平は伊勢の国に入る。
斎宮に立ち寄ろうとするが、国府から
派遣された兵士らが、断固として遮る。
日本で最も神聖なる場所で、そう何度も逢引
されてはかなわん、ということだろう。

母の死に心を痛めていた斎王・恬子は、
「業平さまにお会いしたい…!!」
と、神仏に強く祈っていたのだが…
ついにかなわず、業平は伊勢を離れた。



尾張(おわり)を通り過ぎ、三河の国へと入る。
「八橋(やつはし)」という地で、川辺に
杜若(かきつばた)が咲き誇っていた。
愛知県知立(ちりゅう)市のあたり、ではないかと思われる。

木陰で休みながら、従者の1人が、
業平の気を引き立てようと、
「きれいですね、杜若… ところでご主人さま。
か・き・つ・ば・た、の5文字を、それぞれ句の頭にして、
ひとつ歌を作ってみたらいかがでしょう」
業平はちょっと興味をおぼえ、しばらく目を閉じて、

からころも(唐衣)
きつつなれにし(着つつ馴れにし)
つましあれば(妻しあれば)
はるばるきぬる(はるばる来ぬる)
たびをしぞおもふ(旅をしぞ思ふ)


「着なれてヨレヨレになった服みたいに、馴れ親しんだ
妻が都にいるんだけれども、はるばる遠いところまで
旅してきたなーって、思っちゃうよ」

高子との悲恋の後、旅路で思い出す
のは、懐かしい嫁の方だった。
業平の嫁といえば、紀有常(き の ありつね)の娘である。
紀有常は、紀静子の兄にあたる。

ところで古文の教科書に載ってましたねー、この話。
あの時の授業は、ひたすら眠かった…
てゆーか「芥川」を省略して、いきなり「東下り」を
読まされても、いまいち感動が湧かないよね?

ちなみに京都銘菓の「八ツ橋」ですが、この話が名前の
由来だろうと思いきや、八橋検校(やつはし けんぎょう)
という人が由来とする説もあるんだって。



7月14日、清和帝が最澄に「伝教大師」、円仁に
「慈覚大師」の諡号(しごう)を賜る。
天皇が与える諡号を「勅諡号(ちょくしごう)」
というが、これが最初の例となる。

比叡山延暦寺のこれまでの業績が評価された
わけだが、諡号を賜るよう、朝廷に働きかけた
中心人物は、相応(そうおう)であった。
怨霊と化した真済と戦い、千日回峰行を創始した名僧。


8月19日、太政大臣・藤原良房が摂政となる。
(858年説もあり)人臣として、初の摂政。



夏も終わりに近い頃… 
業平一行は、隅田川を前にしていた。
大都会東京も、この時代は「大草原の小さな村」の趣で、
隅田川も水草が生い茂り、まるでミシシッピー川のようだ。

「向こう岸に渡るなら、早く乗ってくれえ。
日が暮れちまうぞお」
船頭が呼ばわるので、急いで渡し舟に乗りこむ。
不気味な生物でも潜んでいそうな川の水を、
こわごわと眺める業平。

「ずいぶんと遠くまで来たなあ… まるで、
地の果てまで来たような…」
「草木や生き物も、都では見慣れない物が
多いですね… さすが秘境の地」

川辺に遊ぶ、珍しい鳥の群れがあった。
体は白いが、くちばしと脚だけが赤い。
「船頭さん、あの鳥は何だね?」
「都鳥(みやこどり)だよ」
現代でいう、ユリカモメである。

「プッ 都鳥だって?」
「都を遠く離れた、この辺境で…」
「こいつは傑作」
従者たちには、その名前が下手な冗談のように聞こえた。

が、考えてみると… この船頭さんは遠い未来、
この地が「都」となることを予言していたわけで、
すごいと思うのは作者だけですかね。

業平は「都」と聞いて、懐かしい気持ちが湧き上がった。
高子… 高子さま… もう入内されただろうか。
彼女のことを忘れるため旅に出たというのに、
鳥の名前で思い出してしまうなんて…

名にしおはば いざこととはむ みやこどり 
わが思ふ人は ありやなしやと

(都鳥よ… 「都」という名に、ふさわしいなら聞いてみよう。
私の思う方は、ご無事でいるかどうかを…)

この歌から、「言問橋(ことといばし)」が命名され、
さらに名物「言問団子」も生まれた。
言問団子 公式サイト http://kototoidango.co.jp/

近くには「業平橋(なりひらばし)」なんて駅もありますね。
現在、東京スカイツリー建設中… 
作者の生まれた家からも近いです。
スカイツリー公式サイト http://www.tokyo-skytree.jp/

ちなみに業平橋は、日本で初めて生コン工場が
できた場所なんだって。